20 開けてはいけない箱
『箱を――開けないで』
「……え?」
私はベッドの上で身体を起こした。
静かな部屋、カーテンの隙間から差し込む月明かり。ついさっきまで眠りかけていたはずなのに、眠気は一瞬で消えていた。
今の声、間違いない……エレノアだ。
「箱って……」
何のこと?考えるより先に、胸の奥が答えているような気がした。
今日、ローグ様が調べていた地下書庫で失われた守り人の記録…そして、ようやく取り戻されたエレノアという名前。
その名前に反応するように、何かが動き始めている。
もし、その先に見つかったものがあるとしたら……
「まさか……」
嫌な予感がした。私はベッドから降りようとして、すぐに動きを止めた。
一人で行かない…
勝手に動かない…
何度も言われたし、自分でもそうすると決めた。
「……よし」
ベッド脇の呼び鈴へ手を伸ばす。
鳴らしてしばらくすると、夜番をしていたリゼットさんがすぐに来てくれた。
「ミキ様、どうかなさいましたか?」
「ごめんなさい、こんな時間に。ローグ様へ連絡をお願いできる?」
「ローグ様へ?」
「はい。エレノアの声が聞こえました」
リゼットさんの表情が変わる。
「何と?」
「『箱を開けないで』って」
一瞬の沈黙……
「すぐにお伝えいたします」
「それと……」
言うかどうか迷った。でも、
「レオンハルトにも」
口にして、自分で少し照れた。様をつけなかった。
リゼットさんの眉がほんの少し動いたけれど、今は何も言わなかった。
「かしこまりました」
扉が閉まる。私は胸元へ手を置いた。
「間に合って……」
何に、なのかは分からない。それでも、強く願った。
*
同じ頃、王家の地下書庫。
国王の指先が、古い箱の封印へ触れようとしていた。
箱は、王家の紋章が刻まれた石台の上に置かれている。表面には、古代語と一羽の鳥。右の翼は白く、左の翼は黒い。その胸元には、小さな円形の印が刻まれていた。
「陛下」
エドワードが、何かを感じたように顔を上げた。
「お待ちください」
国王の手が止まる。
「どうした?」
「……分かりません」
エドワードは周囲を見回した。
先ほどまで何も感じなかった室内に、ごく僅かな魔力の揺らぎがある。
風のない地下……
それなのに、箱の周囲だけ空気が動いている。
まるで、箱の中にある何かが、外の気配を探っているようだった。
「これは……」
一歩近づこうとした、その時だった。
箱に刻まれていた王家の封印が、赤黒く光った。
「下がってください!」
エドワードが国王の前へ出る。
次の瞬間、箱の周囲から黒い霧が噴き出した。
「……!」
だが、霧は部屋へ広がらない。
箱の周囲を這い回り、何かを探すように蠢いている。
やがて、その霧の中に赤い瞳が浮かんだ。
『……エレノア』
低い声……
エドワードの顔が変わった。
「陛下、今の声は」
「ああ」
国王も聞いている。
『名を……戻したか』
黒い霧が、一瞬、人の顔のような形を作った。
赤い瞳が、箱の外を睨みつける。
「貴様は何者だ」
エドワードが手を上げる。指先に雷光が走った。
だが、霧の中の声は笑った。
『まだ……開けるな』
「何?」
『守り人が来るまでは』
その言葉に、エドワードが眉をひそめる。
「守り人を待っているのか?」
『違う』
赤い瞳が細められた。
『守り人を、箱へ戻すまでだ』
ぞくりとする。
箱の中にあるのは、守り人の力だけではない。
守り人そのものを閉じ込めるためのもの、そう聞こえた。
その瞬間!地下書庫の入口から、魔法師団員が駆け込んでくる。
「ローグ様!」
エドワードが振り返る。
「何だ!」
「ミキ様から緊急の伝言です!」
国王の表情が変わる。
「何と申している?」
団員は息を整えながら答えた。
「エレノアという女性の声が聞こえたと!」
「それで?」
「『箱を開けないで』と!」
地下書庫が静まり返った。
国王は、ゆっくりと箱から手を離した。
その瞬間、赤黒い光が、ふっと消えた。
黒い霧も、箱へ吸い込まれるように消えていく。
最後まで残った赤い瞳が、国王を見つめていた。
『白き翼を、再び黒く染めるな』
声が消える。
エドワードは、しばらく箱を見つめたあと、低く呟いた。
「間一髪、ということか」
「いや」
国王が険しい表情で答える。
「そうとは限らぬ」
「陛下?」
「先王は、守り人が名を取り戻した時に開けよと言った。そしてエレノア本人は、開けるなと言う」
二つの、相反する言葉。
「どちらかが間違っている?」
「あるいは」
国王は箱を見つめる。
「先王自身が、真実をすべて知らなかったのかもしれぬ」
エドワードは、箱の表面に刻まれた黒い翼を見た。
「では、この紋章は何を意味するのでしょう」
「分からぬ」
国王は答えた。
「だが、王家の紋章に黒い鳥はない」
その言葉が、地下書庫の中に重く残った。
*
「ミキ」
扉が開いたのは、それからそれほど経っていない頃だった。
「レオンハルト」
入ってきた姿を見て、自然と名前が出た。
騎士服ではなく、簡素なシャツと上着姿。どうやら休んでいたところを起こしてしまったらしい。
「ごめんなさい、寝てた?」
「気にしなくていい。それより」
いつもより、少し口調が近い。
二人きりだから?こんな時なのに、ちょっと嬉しい。
「声を聞いたと?」
「うん」
レオンハルトがベッド脇の椅子へ座る。
「エレノア?」
「多分……『箱を開けないで』って、それだけ」
「箱に心当たりは?」
「ない。でも……ローグ様たちが何か見つけてる気がする」
「俺もそう思う」
俺……また、胸が少し跳ねる。
でも今は、ちゃんと話す。
「ねえ、レオンハルト」
「何?」
「もし、その箱に私のことが書いてあったら……どうする?」
一瞬、考えるように彼が黙った。
「知りたい?」
逆に聞かれた。
「……知りたい」
怖い。それでも、
「自分が何なのか、ずっと分からないままの方が怖い気がする」
「そうか」
「でも」
私は膝の上で手を握る。
「エレノアが止めたでしょう?」
「うん」
「だから、ただ開ければいいとも思えない」
レオンハルトは頷いた。
「では、まず開けない理由を調べよう」
「……え?」
あまりにも普通に言われた。
「止めないの?」
「何を?」
「私が調べるって言ってるのに」
「一人で行くと言うなら止める」
「……」
「勝手に箱を開けると言っても止める」
「うん」
「だが」
大きな手が、私の手の上へ重なる。
「知りたいと思うことまで、俺が止める権利はない」
胸が、じんわり温かくなる。
前なら、守るためだからと、危ないからと、何も知らせない方を選んでいた人。
でも、ちゃんと約束を覚えてくれている。
「一緒に考えると約束したから」
私の顔に出ていたのか、先に言われた。
「……覚えてたんだ」
「もちろん」
「ありがとう」
「ただし」
来た……
「体調が悪くなったら、すぐやめる」
「はい」
「エレノアの記憶が見えても、一人で追わない」
「はい」
「何か声が聞こえたら、必ず報告する」
「はい」
「危険があれば――」
「レオンハルト」
呼ぶ。
「何?」
「多い」
一瞬、黙る。………それから、
「……すまない」
真面目な顔、思わず笑った。
「ふふっ」
「笑うところ?」
「だって、心配性なんだもん」
「否定はしない」
「しないんだ」
「もう諦めた」
また笑ってしまう。
少し怖かった気持ちが、軽くなった。
「ねえ」
「何?」
「手」
今も、重なったまま。
「……離す?」
聞くと、レオンハルトの指がほんの少し動いた。
「嫌なら」
「嫌じゃない」
即答。また、早かった。二人とも少し黙る。
「じゃあ……そのままで」
「うん」
静かな夜……手をつないだまま
ただそれだけで、一人で考えなくていいと思えた。
*
翌朝、
私は珍しく、王城の会議室へ呼ばれた。
もちろん、一人ではない。
エミリアさん、レオンハルトも一緒に…
そして、扉を開けると、ローグ様、グレンジャー様、さらに初めて見る男性が奥に座っていた。
年齢は五十代くらいだろうか。
落ち着いた金色の髪
威厳のある顔立ち
豪華ではあるけれど、派手すぎない服装
その人の後ろには、王家の紋章が掲げられている。
白い鳥を中央に据えた、アルヴェリア王家の紋章…
「……」
え?待って??
(まさか)
「ミキ」
ローグ様が立ち上がる。
「こちらへ」
緊張しながら進む。そして、
「アルヴェリア王国国王、アレクシス・アルヴェリア陛下だ」
「……」
王様ーーー来たーー!
(ついに来たーーー!)
頭の中は大騒ぎ。
でも、昨日までマルガレーテさんに散々、礼儀作法を教えられた。
落ち着け……私。
「初めてお目にかかります」
教わった通り、ドレスの裾をつまみ、頭を下げる。
「坂元水姫と申します」
よし。できた!!多分……
「顔を上げてくれ」
低いけれど、思ったより優しい声だった。
顔を上げる。国王陛下は、じっと私を見ている。
(何?)
変だった?お辞儀??間違えた?
「……なるほど」
「はい?」
思わず返事をしてしまった。
陛下の口元が少しだけ緩んだ。
「エドワードから聞いていた通りの方だ」
何を聞いたの!?
ちらっとローグ様を見る。目を逸らした。
(絶対余計なこと言ってる)
「そう緊張しなくてよい」
「……顔に出てました?」
「かなり」
恥ずかしい。
横で、レオンハルトが小さく咳をした。
笑った?あとで聞こう。
*
「昨夜の件について、まず礼を言わせてほしい」
国王陛下が真剣な表情へ戻った。
「あなたの警告がなければ、私は箱を開けていた」
「やっぱり箱があったんですね」
「ああ」
そして、陛下からすべて説明された。
王家の地下書庫
隠し部屋
先王から伝えられた言葉
『守り人が名を取り戻した時のみ、これを開けよ』
「でも」
私は呟く。
「エレノアは、開けるなって」
「ああ」
「どっちが正しいんでしょう」
誰も、すぐには答えなかった。
「一つ分かったことがある」
ローグ様が口を開く。
「箱には強力な封印が施されている。ただし、王家が施したものだけではない」
「どういうこと?」
「封印の内側からも、別の術式が組まれている」
「内側?」
「つまり」
グレンジャー様が続ける。
「あの箱は、外から誰かが中身を守っているだけではない。中にある“何か”も、外へ出ないよう封じられている可能性があります」
ぞくっとした。
「じゃあ……開けたら」
「何が起きるか分かりません」
「昨夜、箱から黒い霧が出た」
エドワードが補足する。
「その霧は、エレノアの名に反応した。そして、守り人を箱へ戻すという言葉を残した」
「戻す……」
私は呟いた。
箱は、何かを保管しているのではない。
守り人の力を奪い、魂を閉じ込めるために使われた。白い鳥が、そう言っていた。
「でも、先王様はどうして開けろって?」
「そこが分からない」
ローグ様が腕を組む。
「ある時点で、王家に伝わる情報が変えられた可能性もある」
「変えられた?」
「守り人の記録自体が消されている。なら、口伝が改ざんされていても不思議ではない」
誰かが、意図的に守り人の歴史を変えた。
「……敵が?」
「可能性はある」
「でも」
私は昨日聞いた声を思い出す。
敵…赤い瞳……黒い霧
それとは、少し違う気もする。
「エレノアが言ってたんです」
「何を?」
「『人を信じるから、すべてを失う』って、あの声に言われてた」
ローグ様の目が細くなる。
「つまり、エレノアは誰かに裏切られた?」
「多分」
そして、もう一つ。
「『私と同じ間違いをしないで』って」
私は自分の手を見る。
「一人で守ろうとしたことだけが、間違いだったのかな」
何かが引っかかる。もっと別の意味もあるような……
その時だった。テーブルの上の箱の表面を写したという紙に目が止まった。
「……これ」
「どうした?」
箱には、いくつもの模様が刻まれている。
王家の紋章
古代語
そして、その中央に一羽の鳥
「白い鳥……」
でも、おかしい。
「これ、翼が……」
一枚……黒い。右の翼は白。左の翼は黒。
「こんなの……今までなかったよね?」
部屋が静かになる。
「陛下」
ローグ様が見る。
「箱そのものには?」
「確かに、この紋様がある」
国王陛下が答えた。
「だが、王家の正式な紋章は白き鳥のみだ。黒い翼を持つ鳥は、王家の記録には存在しない」
「でも、黒い鳥の紋章を持つ家系があるんですよね?」
私が尋ねると、陛下の表情が硬くなった。
「ああ」
「ノクス家」
その名を口にした瞬間、白い鳥がいないはずの会議室で、羽音が聞こえた気がした。
「王家の傍系で、七百年前に断絶したとされる家系だ」
国王陛下は続ける。
「かつては王家と同じ白き鳥を紋章としていた。しかし、ある事件の後、その翼を黒く染めたと伝えられている」
「ある事件って?」
「記録は残っていない」
ローグ様が答えた。
「ただ、エレノアの時代と重なる」
胸がざわつく。
エレノアを騙した男
王家の紋章に似た指輪
その中央にあった黒い鳥
箱に刻まれた、白と黒の翼
そして、ノクス家
ばらばらだった手がかりが、一本の線になり始めていた。
「……その人、ノクス家だったのかな」
「断定はできない」
ローグ様は慎重に言った。
「だが、無関係とも思えない」
私は紙を近くへ引き寄せる。
鳥の胸元の小さな円。その中に、何かある。
文字?
「……読める」
「何と?」
古代語……小さい。でも、読めた。
『光と影、二つ揃いて扉は開く』
「……二つ?」
声に出した瞬間、胸の奥が大きく鳴った。
白い翼と黒い翼
王家とノクス家
光と影
二つ揃えば、箱が開く。
その意味に気づいた瞬間、頭の中にエレノアの声が響いた。
『だめ――』
「……っ」
「ミキ?」
レオンハルトがすぐに手を取る。
「聞こえた」
「何と?」
「『だめ』って」
全員の表情が変わる。
その瞬間!!会議室の窓が、
――バンッ!
大きな音。
「何!?」
騎士たちが一斉に剣へ手を伸ばす。
窓の外に白い鳥。
「あ……」
あの子……金色の瞳。
でも、今日は明らかに様子が違う。
必死に、窓を嘴で叩いている。
まるで、箱の中にあるものを知っているかのように。
「開けても?」
私はレオンハルトを見る。
「待って」
彼が先に窓へ近づく。
周囲を確認してから、ゆっくり開けた。
白い鳥が勢いよく部屋へ飛び込んでくる。
そして、私の前へ降りた。
「どうしたの?」
『ミキ』
声が今までより、ずっと強い。
『箱に触れるな』
「分かった」
『あれは』
白い鳥の金色の瞳が揺れる。
『真実を残すための箱ではない』
「……え?」
『奪うための箱だ』
「何を?」
白い鳥が私を見る。そして、答えた。
『守り人の魂を』
部屋の空気が凍った。
「魂……?」
『あの箱は』
白い鳥の声が震える。
『エレノアを殺したものだ』
「……!」
息が止まる。
「エレノアを……?」
白い鳥が翼を震わせる。
その姿に、一瞬、あの記憶が重なった。
血に濡れた白い翼……
「あなた……」
もしかして…あの時、エレノアが抱いていた。
『守れなかった』
白い鳥の声は悲しかった。
『私は』
金色の瞳が私を見る。
『今度こそ』
胸が強く鳴る。
『守る』
白い光が部屋を包んだ。
その光の中で、白い鳥の翼が一瞬だけ透けて見えた。
右の翼は白い。
左の翼には、薄く黒い筋が走っている。
白い鳥自身もまた、箱とノクス家に関わっている。
そう思った瞬間、私は、また知らない景色の中に立っていた。
*
……夜
………王城
でも、今よりずっと昔。
「……ここ」
燃えている。人々が走っている。
叫び声
剣の音
そして、目の前にエレノアがいた。
息を切らして立っている。
「エレノア!」
呼んでも聞こえない。
過去
記憶
私は見ているだけ……彼女の前には、あの箱と
そして、一人の男。
白い衣
王家の紋章
顔は見えない。
ただ、指には見覚えのある指輪があった。
白い鳥の紋章
その中央に、黒い鳥。
『これを使えば、災厄を封じられる』
男が言う。
『あなたの力が必要なのです』
エレノアが箱を見る。
『これで……みんな助かるの?』
『ええ』
『あの人も?』
あの人?
誰?
男が頷く。
『もちろん』
「駄目!」
思わず叫ぶ。
嘘。
分かる。
何でか分からないけど…
「信じちゃ駄目!」
……届かない。
エレノアが箱へ手を置く。
その瞬間、黒い光が走った。
「……!」
箱から伸びた黒い鎖が、エレノアの腕へ絡みつく。
『何……!?』
『エレノア!』
白い鳥が飛び込んでくる。
『約束が違う……!』
エレノアが男を見る。男は笑った。
『守り人の力は、人一人が持つには大きすぎる』
『だから、王国のために管理する必要がある』
エレノアの顔が絶望に染まる。
『私を……騙したの?』
『国のためです』
その言葉は冷たかった。
『あなたが愛した者も』
男が続ける。
『すでに死んだ』
「……!」
エレノアの瞳が大きく見開かれる。
『嘘……』
『あなたをここへ呼ぶためには、必要な犠牲でした』
胸が痛い。
息ができない。
愛した人を殺し、エレノアを箱の前へ呼び出した。
それは、最初から仕組まれていた。
『いや……』
白い光が彼女から溢れ出す。
『嫌ぁぁぁぁ!!』
………眩しい……箱が黒く脈打つ。
そして、その光を吸い込んでいく。
「やめて!」
白い鳥が翼を広げ、エレノアと箱の間へ飛び込んだ。
黒い光と白い光が混ざる。
その瞬間、男の指輪がはっきりと見えた。
白い翼と黒い翼
箱に刻まれたものと同じ紋様。
『これで』
男が言う。
『守り人は、王家のものとなる』
「……!」
……違う。この男は、王家そのものではない。
王家の紋章を利用している。
黒い翼を持つ者…ノクス家…
その名が、記憶の中に浮かんだ。
『王家のものではない』
エレノアが、震える声で呟く。
『あなたは……誰?』
男は答えなかった。
ただ、指輪の黒い鳥が赤く光った。
『王国のためです』
同じ言葉を繰り返す。
けれど、その声には王国への忠誠などなかった。
あるのは、奪う者の欲だけ……景色が歪む…
それでも最後に、男の徽章が見えた。
首元に下がった銀色の徽章…そこには、
翼を広げる黒い鳥
その下に、古代語で刻まれた文字
『Nox』
「ノクス……」
声に出した瞬間、エレノアの声が遠くから聞こえた。
『ミキ』
『同じものを』
『信じないで――』
世界が白く弾けた。
*
「ミキ!」
身体が倒れそうになる。
でも今度は、床へ落ちなかった。
「……レオンハルト」
しっかり抱き留められている。
「聞こえる?」
「……うん」
「どこか痛い?」
「ない」
「眩暈は?」
「少し」
ちゃんと答える。
「座ろう」
「うん」
レオンハルトに支えられながら、椅子へ座る。
「何を見た」
ローグ様の声………私はゆっくり顔を上げる。
国王陛下
ローグ様
グレンジャー様
レオンハルト
白い鳥
みんなが待っている。
「エレノアは……」
喉が苦しい。
「王家の人に騙された」
国王陛下の表情が変わった。
「何?」
「箱を使えば災厄を封じられるって言われて」
少しずつ話す。愛する人を助けられると信じた。
でも、その人はすでに殺されていた。
エレノアを箱の前へ呼ぶために。
「箱は……守り人の力を奪うためのものだった」
誰も何も言わない。
「王家の人が言ってた」
思い出す……冷たい声。
『王国のために、管理する必要がある』
「守り人を……王家のものにするって」
国王陛下がゆっくり目を閉じた。
「……我が王家が」
……低い声。苦しそう。
「守り人を裏切った、と?」
「……はい」
言いづらい。でも、嘘はつけない。
「ただ」
私は続ける。
「今の王家が同じだって言ってるんじゃないです」
国王陛下が顔を上げる。
「私が見たのは、昔のことです」
だから
「陛下を疑ってるわけじゃないです」
言ってから、ふと気づく。
エレノア……
最後何て言った?
『同じものを信じないで』
同じもの?
王家?
箱?
それとも………
「……指輪」
「何?」
ローグ様が聞く。
「その人、指輪をしてた」
「どんな?」
「王家の紋章みたいだった。でも……」
思い出す。……黒い鳥。
「中央に、黒い鳥がいた」
国王陛下が息を呑んだ。
「陛下?」
「……あり得ぬ」
立ち上がる。
「何が?」
陛下は自分の指輪を外した。
見せてくれる。王家の紋章……
獅子
王冠
そして中央に、白い鳥……
「アルヴェリア王家の正式な紋章に、黒い鳥が使われたことはない」
「じゃあ……」
あの人、本当に王家?なの?
「ただし」
陛下の声がさらに低くなる。
「一つだけある」
「何がです?」
「王家の傍系で」
一瞬、言葉を切る。
「七百年前に断絶したとされる家系がある」
ローグ様が顔を上げる。
「まさか」
「ああ」
国王陛下が私を見る。
「その家は、かつて王家と同じ白き鳥を紋章としていた」
「でも、ある事件の後」
陛下は、箱の写しに描かれた白と黒の翼へ目を向けた。
「白き鳥の片翼を黒へ変えた」
胸がざわつく。
「家名は?」
国王陛下が答えた。
「ノクス家」
その瞬間、白い鳥が激しく羽ばたいた。
『違う!』
「え?」
全員が鳥を見る。
『断絶していない』
金色の瞳が険しくなる。
『奴らは』
声が震える。
『今も生きている』
部屋の空気が一気に冷たくなる。
「ノクス家が、今も?」
ローグ様が問う。
白い鳥は答えなかった。
ただ、私の肩へ飛び乗り、黒い筋の残る左翼を隠すように身体を丸めた。
その仕草が、何かを恐れているように見えた。
「あなたも、ノクス家を知ってるの?」
問いかける。白い鳥は、しばらく黙っていた。
やがて…
『知っている』
「エレノアを騙した人も?」
『……』
答えの代わりに、白い鳥の翼が震えた。
『あれは、エレノアの力だけを奪ったのではない』
「他にも?」
『エレノアの魂を、箱に縛りつけた』
息を呑む。
「だから、エレノアは今も箱を恐れているの?」
『違う』
白い鳥が私を見る。
『恐れているのではない』
金色の瞳に、深い悲しみが浮かんだ。
『箱の中に、まだエレノアの一部が残っている』
その言葉に、胸が締めつけられた。
エレノアは死んだ。
でも、完全に消えたわけではない。
箱の中に魂の一部を残し、白い鳥を通して、私へ警告を送っている。
「じゃあ、箱を開けたら……」
『エレノアは戻れない』
白い鳥は静かに言った。
『代わりに、箱に縛られた魂が外へ流れ出す』
「それって……」
『守り人を求めるものが、あなたを見つける』
赤い瞳
黒い霧
ノクス家
すべてが、箱を中心につながっている。
その頃…王都の外、
黒い外套の男が、手の中の赤黒い石を握りしめていた。
『思い出したか』
石の中から声がする。男はゆっくり顔を上げる。
朝の光が、わずかにその顔を照らした。
黒に近い髪……そして、赤紫色の瞳。
「……随分」
男が笑う。
「思い出すのが遅かったな」
首元の外套の隙間、銀色の徽章
そこには、翼を広げる黒い鳥。
その下には、古代語で刻まれた一つの名。
Nox
「守り人」
男は王城を見つめた。
「エレノアの時は、あと一歩だった」
赤黒い石が脈打つ。
『今度は、箱を開けるのか』
「いや」
男は、ゆっくり首を横に振った。
「箱を開ける必要はない」
「守り人自身が、扉になる」
赤紫色の瞳が、冷たく光る。
「ミキがエレノアの名を取り戻した時点で、もう始まっている」
そして、静かに続ける。
「今度こそ」
「お前の魂を」
赤黒い石が、強く脈打った。
「我らのものにする」




