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19 失われた名前


「痛っ」

「ほら!」


思わず声を上げた私に、レオンハルト様が困ったような顔をした。


「ミキ、私ではなくベルン殿が触ったのですが」

「分かってます!」

「では、なぜ私を睨むのです?」

「怪我した本人だからです!」


夜明け前に王城へ戻ったレオンハルト様は、予告どおり、そのままグレンジャー様に捕まった。

いや、正確には私が捕まえた。

「治療済みです」と言い張る彼を半ば強引に座らせ、グレンジャー様を呼んでもらったのだ。


今、私の部屋の居間では、左腕の包帯をほどかれたレオンハルト様の隣に、なぜか私まで座っている。


「傷そのものは深くありませんね」


グレンジャー様が患部を確認しながら言った。

剣が掠めたという左腕には、肘の少し上から細長い傷が走っていた。すでに塞がり始めているとはいえ、見ているだけで胸が痛くなる。


「治癒魔法も適切に施されています。これなら数日で――」

「数日!?」

「ミキさん」

「はい」

「最後まで聞いてください」

「……はい」


また怒られた。


「数日でほとんど痕も残らなくなるでしょう。ただし、今日一日はなるべく腕を酷使しないこと」

「承知しました」

「剣の訓練もなし」


レオンハルト様の返事が一瞬遅れた。


「レオンハルト様?」

「承知しました」


私はじっと横顔を見る。


「本当に休む?」

「休みます」

「絶対?」

「誰かさんと同じことを聞きますね」

「誰ですか?その誰かさんは」

「目の前にいる方です」

「私はちゃんと言うこと聞くようになりました!」

「最近は……ですね」


グレンジャー様が吹き出した。


「二人とも似てきましたね」

「どこがですか!」


私とレオンハルト様の声が、ほとんど同時に重なる。


顔を見合わせた私たちを見て、グレンジャー様はとうとう声を上げて笑った。


「ほら」

「もう!」


つられて私も笑ってしまう。

つい数時間前まで、本当に怖かった。

もう会えないかもしれないと思った。

だから、こうして目の前でいつものように話せるだけで、何でもない会話まで嬉しかった。


*


「では、私は戻ります。ミキさんも昨夜は魔力をかなり使っていますから、今日は大人しくすること」


診察を終えたグレンジャー様が立ち上がった。


「はい」

「本当に?」

「もう、その確認はいります?」

「念のためです」

「分かりました。今日は大人しくします」

「レオンハルト様も」

「承知しています」

「お二人とも信用度が同じですね」

「どういう意味ですか」


また声が重なった。

グレンジャー様は満足そうに笑いながら出ていった。

扉が閉まると、部屋が急に静かになった。

エミリアさんたちは、いつの間にか姿を消している。


(絶対わざとだ)


二人きりになった途端、さっきまで普通に話せていたのに、急に意識してしまう。


朝、再会した時は、私から抱きついた。

しかも、「聞かなくていいです」なんて言ってしまった。思い出すと、今さら顔が熱くなる。


何か話そう…普通に…


「眠くないですか?」


何それ…もっとましなこと……


「少し」

「ですよね」


会話が終わった。

レオンハルト様が、わずかに笑う。


「何ですか?」

「いえ」

「また?」

「先ほどまではあんなに怒っていたのに、急に静かになったと思いまして」


バレている。


「だって」


少し迷ってから、素直に言った。


「帰ってきてくれたから…」


笑っていたレオンハルト様の表情が、ふっと柔らかくなる。


「今はもう、怪我していることに怒る余裕があるでしょう?」

「なるほど」

「だから……良かったです」


心から、そう思う。


「お帰りなさい」


今度は泣かずに言えた。

レオンハルト様は目を細め、静かに答える。


「ただいま、ミキ」


様がない…胸が、きゅっとした。

昨日は出発前だったから勢いで聞き流したけれど、今は違う。


「あの」

「はい?」

「またミキって呼びましたね」

「嫌でしたか?」

「嫌じゃないです」


即答してしまった。


「むしろ……」


もう、いちいち誤魔化す方が恥ずかしい。


「嬉しいです」


レオンハルト様の蒼い瞳が、わずかに見開かれた。


「だから、二人の時は……そのままでいいです…」


ちゃんと言えた…恥ずかしくて視線を逸らそうとすると、すぐに呼ばれる。


「ミキ」

「……はい」

「では、私からも一つお願いしても?」

「何ですか?」

「あなたも、二人の時くらいは、私をレオンハルトと呼んでいただけませんか」

「様なし?」

「はい」

「レオンハルト……って?」

「はい」


簡単に言うけれど、無理…いや、無理ではない。

名前を呼ぶだけだ。


「……レ」


声が出ない。

五十五年間生きてきて、男性の名前一つ呼ぶのに、こんなに緊張したことがあるだろうか。


「急がなくても」


楽しそうな表情が悔しい。


「呼びます!」

「はい」

「レオン……」


顔を見ない方がいい。

私は膝の上で手を握り、彼の肩あたりを見つめた。


「……レオンハルト」


言った途端、部屋が静まり返った。

恐る恐る顔を上げると、レオンハルト様――いや、レオンハルトが完全に固まっている。


「ちょっと」

「はい」

「そっちが言わせたのに、その反応は何です?」

「申し訳ありません」


耳が赤い。


「想像していた以上だったもので」

「何が!?」

「いえ」

「そこで何でもないはずないでしょう!」


思わず笑うと、レオンハルトも笑った。

そして、もう一度呼び合う。


「ミキ」

「……はい」

「レオンハルト」


ただ名前を呼んだだけなのに、妙に特別なことをしたような気がした。


二人とも、しばらく黙っていた。


*


「そういえば」


落ち着いたところで、私はレオンハルトの左腕を見る。


「昨日、私が何をしていたか……分かった?」

「全てではありません」

「やっぱり?」

「ただ、何度か感情のようなものが伝わりました」

「感情?」

「心配していること…それから、怒っていること」

「え」


そこまで伝わっていたのか。


「怪我したって分かった時?」

「おそらく」


恥ずかしい。けれど、レオンハルトは嬉しそうだった。


「戦闘中は、守られていると感じました」


彼が胸元からお守りを取り出す。

小さな生成り色の袋に、深い蒼色の糸。

何度見ても、渡した時のことを思い出す。


「背後から剣を振り下ろされた時、白い光が防いでくれました」

「……良かった」

「ミキの力です」

「まだ分からないよ」

「私には分かりました」


真っ直ぐに見つめられる。


「あなたが守ってくれた」


胸がいっぱいになった。

あの時、ここから必死に願った。届いたのだ…


「……ちゃんと守れた?」

「ああ」


初めて、敬語ではない返事だった。

レオンハルト自身も気づいたらしく、少し目を見開く。


「失礼しました」

「違う」


私は首を横に振った。


「それも……嫌じゃない」


言うたびに、自分で逃げ道をなくしている気がする。

でも、もういい。


「二人の時は、普通に話してくれても」


レオンハルトが困ったように眉を下げる。


「難しいですか?」

「かなり」

「ふふっ」


私だけではなかった。


「じゃあ、少しずつ」

「そうしましょう」


何でも少しずつ…

それが、私たちらしい気がした。


*


昼前…

レオンハルトには強制的に休んでもらい、私も一度自室で横になった。眠ったのは一時間ほどだったと思う。目を覚ますと、身体のだるさはだいぶ取れていた。


「よく眠られていましたよ」


エミリアさんが、お茶を用意しながら言う。


「私、寝てた?」

「はい」

「レオンハルト様……じゃなくて」


言いかけて、止まる。エミリアさんの目が輝いた。

しまった。


「今、何と?」

「何でもないです」

「レオンハルト様ではなく?」

「エミリアさん」

「はい」

「聞かなかったことにして」

「難しいお願いでございますね」


楽しそうだ。


「レオンハルト様は近衛騎士団の宿舎で休まれております」

「そう」


良かった。ちゃんと休んでいる。


「それなら――」


扉が叩かれた。


「ミキ、起きているか?」


ローグ様だ。


「はい、どうぞ」


入ってきたローグ様の手には、何冊もの古い書物があった。顔を見るだけで分かる。何か見つけたのだ。


「前の守り人のこと?」

「察しがいいな」


ソファへ座る。ローグ様は向かいに腰掛け、古い本をテーブルへ置いた。


「昨日、お前が聞いた言葉を手掛かりに、ベルンと王家の地下書庫を調べた」


「地下書庫?」

「通常の図書室には置かれていない、王家に関わる古文書を保管している場所だ」

「そこに守り人の記録が?」

「一部だけな」


やはり、すべては残っていない。


「まず、これを見ろ」


開かれたページには、古代語が記されていた。

私は自然に読み始める。


『白き翼の導きにより、異界より帰還せし守り人――』


「帰還……」


『彼の者、光により災厄を退け、命を繋ぎ、王国に安寧を――』


そこから先は、文字が削り取られていた。


「次のページだ」


めくる。


こちらも、ところどころ欠けている。


『守り人、王都より――』


読めない……その先には、


『白き翼、地へ落ち――』


とあるだけだった。


「……何があったの?」

「分からない」

「でも、敵は言っていた」


守りたいと願い、すべてを失った。


「あの人……死んだの?」

「可能性は高い」


顔も知らない、何百年も前の人…

それなのに、なぜかとても悲しかった。


「名前は?」

「何?」

「前の守り人の名前」


ローグ様が黙る。

その表情を見て、嫌な予感がした。


「……ないの?」

「どの記録にも残っていない」

「どうして……」


守り人が国を救ったのなら、名前くらい残るはずだ。


「意図的に消されたと考えるのが自然だ」


「そんな……」


誰が、何のために?

その時、目の前の古文書の文字が、かすかに光った。


「……?」

「ミキ?」


ページの端…

さっきまで何もなかった場所に、白い文字がゆっくり浮かび上がる。


「ローグ様」

「何だ?」

「見えない?」

「何が?」


また私だけに見えている。

古代語なのに、読めた。


『我が名は――』


息を呑む。


「名前……」

「何と書いてある!」


ローグ様が立ち上がる。

白い文字は弱く、今にも消えそうだった。


『我が名は、エレノア――』


「エレノア」


その名を口にした瞬間、世界が変わった。


*


目の前が真っ白になる。


「ミキ!」


ローグ様の声が遠のく。


風…


草…


花の香り…


そして、誰かの泣き声。


『嫌……』


女性の声。


『お願い……目を開けて』


淡い銀色の髪が見えた。

地面に座り込んだ女性が、腕の中に白い鳥を抱いている。


血に濡れた翼……


「……白い鳥」


あの子?違う。けれど、同じものを感じる。

女性は泣いていた。


『私が……守るって言ったのに』


胸が苦しくなる。


『全部……私のせい……』


黒い霧…


遠くで燃える建物…


倒れた人々…


『守りたいって願っただけなのに』


女性が顔を上げる。

その瞳は淡い紫色だった。

水色にも銀色にも見える髪。

私と同じ…


「……え?」


女性がこちらを見る。いや、私を見ているのか…


『次は』


声が響く。


『一人で守ろうとしないで』


「……エレノア?」


『お願い』


女性の目から涙がこぼれる。


『私と同じ間違いをしないで』


白い光が視界を覆う。


「待って!」


手を伸ばす。


「何があったの!?」


『私は――』


声が途切れた。その瞬間、別の声が響く。

低い声……あの声だ。


『だから言っただろう』


闇の中で、赤い瞳が光る。


『人を信じるから、全てを失う』


「……!」


エレノアの身体が黒い霧に飲み込まれる。


「やめて!」


白い鳥が最後の力で翼を広げた。


そして、女性の声が響く。


『ミキ――』


私の名前?


どうして?


「待って!」


けれど、世界は砕けた。


*


「ミキ!」


……目を開ける

……息ができない


…………苦しい。


「ゆっくり息をしろ!」


ローグ様の声で、ここが自分の部屋だと気づいた。


古文書、エミリアさん。


「……大丈夫」


言いかけて、止める。


「……ちょっと、苦しい」


ちゃんと伝えられた。


「ベルンを!」

「はい!」


エミリアさんが走る。


私はソファへ身体を預けた。

頭の中には、まだあの光景が残っている。


「エレノア……」

「見えたのか?」


ローグ様が尋ねる。


「はい」

「何が?」


私は少しずつ話した。


白い鳥


燃える場所


泣いていた女性


黒い霧


そして、私と同じ髪と瞳。


「……私に似てた」

「何?」

「髪も、瞳も」


ローグ様の表情が変わる。


「それから……私の名前を呼びました」

「エレノアが?」

「多分」


どうして、何百年も前の人が私を知っているのだろう。胸がざわつく……

女神様の言葉を思い出した。


『あなたは、本来あの世界に生まれるはずだった魂です』


「ローグ様」

「何だ?」

「私……」


口にするのが怖い。それでも、尋ねた。


「前の守り人と……何か関係あるのかな」


誰も答えられなかった。


*


その日の夕方、

体調が落ち着いた頃、レオンハルトが部屋へやって来た。


「聞きました」


一言目から、真剣な顔をしている。


「何を?」

「古文書を読んで倒れかけたと」

「倒れてません!」

「ほぼ同じです」

「違います」

「ベルン殿から、安静にと言われたそうですね」


情報が早い。


「ローグ様?」

「全員です」

「全員?」

「エミリア殿も」


裏切り者ばかりだ。


「ちゃんと休んでましたよ」

「本当に?」

「その質問禁止」


思わず笑う。

けれど、レオンハルトはすぐに私の顔を見た。


「何を見たのですか」


心配しているのが分かる。だから、隠さなかった。


「前の守り人」

「……」

「エレノアっていう女性でした」


自分と似ていたこと…

白い鳥を抱いて泣いていたこと…

『一人で守ろうとしないで』と言われたこと…

そして、私の名前を呼んだこと。


「私の名前を呼んだんです」

「ミキ、と?」

「うん」


自然に返事をすると、レオンハルトの目が柔らかくなった。けれど、今はそこに照れている場合ではない。


「怖い?」

「……怖い」


素直に言えた。


「自分が何なのか、分からなくなるのが」


今の私は坂元水姫。

前の世界で五十五年生きた記憶は、すべて残っている。それでも、本当はこの世界に生まれるはずだった魂なのだ。前の守り人と同じ髪と瞳を持ち、私の名前を知っていた女性。


「もし」


声が震える。


「私が……誰かの生まれ変わりだったら?」


レオンハルトは黙っている。


「エレノアの続きみたいなものだったら?」


自分が自分ではなくなるような、そんな恐ろしさがあった。


「ミキ」


呼ばれて、顔を上げる。

レオンハルトが私の前に膝をついた。

目線を合わせるためだ。


「あなたは、あなたです」

「……」

「前の守り人と何か関係があろうと、別の人生があろうと」


大きな手が、私の手を包む。


「私が知っているのは」


深い蒼色の瞳が、真っ直ぐ私を見つめる。


「よく笑い」

「……」

「無茶をしては怒られ」

「ちょっと」

「本が好きで」

「はい」

「編み物が好きで」


胸が苦しくなる……優しすぎる。


「私の怪我を見れば、自分が傷ついたような顔をして」

「……」

「そして、怒ると、なかなか許してくださらない」

「それ、悪口?」

「まさか」


私も少し笑った。


「その全部が」


レオンハルトが、私の手を握る。


「私の知っているミキです」


涙が出そうになる。


「だから」


握る力が、わずかに強まった。


「過去が何であっても、あなたが変わるわけではありません」


「……うん」

「少なくとも、私にとっては」


………ずるい。また、こんなことを言う。


「レオンハルト」

「はい」

「ありがとう」


自然に名前を呼べた。

……それが嬉しかった。


*


二人で静かにしていると、ふと思い出した。


「そういえば」

「何です?」

「正式に言うって約束」


レオンハルトが固まった。


「覚えてる?」

「もちろんです」

「ふふっ」


少しだけ意地悪な気持ちになる。


「何ですか」

「いや」

「……ミキ」


今度は、少し低い声だった。

ドキッとする。


「その話を今されると」

「うん」

「約束を破りたくなります」

「……え?」


胸が跳ね上がった。


「何の約束?」


聞きながら、分かっている。


『危険を取り除いてから、正式に伝える』


……それだ。


「だから」


レオンハルトは深く息を吐いた。


「今は、あまり私を煽らないでください」

「煽る?」

「そんなつもりはないんだけど」

「分かっています」

「じゃあ」

「それでもです」


耳が赤い。やっぱり、かわいい。


「ふふっ」

「また笑いましたね」

「少しだけ」

「覚えておきます」

「何を?」

「いずれ」


距離が近くなる。


「同じくらい困らせます」


それは予告だろうか。顔が熱くなる。


「もう」


レオンハルトが笑う。

その笑顔を見て、怖かった気持ちが少しだけ消えた。


*


その夜、

王家の地下書庫で、エドワードは国王と向かい合っていた。


「エレノア」


国王が、その名をゆっくり繰り返す。


「陛下もご存じない?」

「いや」


国王は首を横に振った。


「王家の口伝にも、その名はなかった」

「ミキにだけ見えた文字です」

「そして、その女性がミキ殿の名を呼んだ」

「はい」


国王はしばらく黙っていた。

やがて、書庫の最奥にある古い石壁へ目を向ける。


「一つだけ」

「何です?」

「先王が、死の間際に私へ言った言葉がある」

「どのような?」


国王の表情が険しくなる。


「守り人について調べることがあっても」


声が低くなる。


「決して、“魂の系譜”には触れるな、と……」

「……魂の?系譜」


その言葉に、エドワードの目が細くなる。


「どういう意味です?」

「分からぬ」

「なぜ禁じたのです」

「それも聞けなかった」


国王は石壁を見つめた。


「………だが」


一歩近づく。


「もしミキ殿が、前代の守り人と何らかの形でつながっているのなら」


壁の一部に刻まれた王家の紋章へ手を置く。


――ゴゴゴ……


低い音が響き、石壁がゆっくり動き始めた。


「……陛下?」


エドワードが目を見開く。

壁の向こうには、隠されていた小さな部屋があった。


「これは……」


部屋の中央に、古い箱が一つ置かれている。

王家の封印が施され、何百年も開けられた形跡がない。


国王が静かに言った。


「先王は」


箱を見つめる。


「“守り人が名を取り戻した時のみ、これを開けよ”とも言っていた」


「名を……」


エレノア


今日、失われた名前が戻った。

二人は顔を見合わせる。

そして国王が、封印へ手を伸ばした。


*


王城から遠く離れた場所。

黒い外套の男が、同じ瞬間に足を止めた。

手の中の赤黒い石に、小さな亀裂が走る。


「……名を見つけたか」


男の笑みが消えた。

石の中から、あの低い声が響く。


『エレノア』


「黙れ」


『久しい名だ』


「黙れと言った」


初めて、男の声に苛立ちが滲んだ。


『あの女が』


赤い光が揺れる。


『まだ残っている』


男は王城の方角を睨んだ。


「残っているのではない」


低く言い捨てる。


「今度こそ」


拳の中で、石が軋む。


「完全に消す」


その瞬間、遠く離れた王城で、眠りにつきかけていた私の耳に、知らないはずの彼女の声が届いた。


『ミキ』


目を開ける。


「……エレノア?」


返事はない。ただ、最後に一言だけ……


『箱を――開けないで』


「……え?」


胸が大きく鳴った。

その頃、地下書庫では、国王の手が古い箱の封印へ触れようとしていた。





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