18 あなたの声が届くなら
翌朝、目を覚ました私は、しばらくベッドの中でじっとしていた。
昨日までなら、目が覚めた瞬間に「今日はレオンハルト様いるかな」と考えていた。廊下へ出れば、いつもの場所に銀色の髪があって、「おはようございます」と声をかけてもらえる。それが、いつの間にか当たり前になっていた。
けれど今日は違う。
レオンハルト様は北にいる…
そう思っただけで、部屋がいつもより少し広く感じた。
「……寂しいなぁ」
素直に口にすると、胸の奥がちょっとだけ痛んだ。まだ出発して一日しか経っていない。それなのに、もう会いたい。
「重症だな、私………」
苦笑しながら起き上がり、枕元を見る。昨夜、グレンジャー様から「今日は力を使わないこと」と念を押されたから、守護紋を試すつもりはない。
でも、知りたい…
ちゃんと眠れたかな…腕の傷は痛くないかな…
今頃、何をしているんだろう…
そんなことを考えながら自分の手のひらを見ていると、ほんのり温かくなった。
「……え?」
何もしていない。呼びかけてもいない。それなのに、胸の奥へふわっと何かが流れ込んでくる。
安心している…落ち着いている…そして、少し眠い…
「……もしかして」
私は思わず笑った。
「まだ寝てる?」
そんなわけないかと思いながらも、なぜだろう。レオンハルト様が無事だと、何となく分かる。
「おはようございます」
小さく呟いた。届かなくていい。ただ、言いたかった。すると、手のひらがほんの一瞬、温かくなった。
*
その頃、北の野営地では、カイルが少し呆れたような顔でレオンハルトに声をかけていた。
「……おはようございます、副団長」
「何だ」
「起きてから三回目です」
「何がだ」
「胸元のお守りを触るのが、です」
「数えるな」
レオンハルトは顔をしかめながら、騎士服の上からお守りへ手を当てた。
朝方、ほんの一瞬だけ温かくなった。その時、声がしたわけではない。けれど、なぜかミキの顔が浮かんだ。そして、「おはようございます」と言われたような気がした。
(……気のせいか)
そう思いながらも、口元が少し緩む。
「副団長、今、笑いましたね」
「笑っていない」
「いや、完全に笑っていました」
「朝から訓練するか?」
「やめておきます!」
カイルが笑う。
昨日、第一調査隊を王都へ送り返したあと、残った部隊は街道沿いに野営地を築いた。夜の間、黒い霧は森の手前から動かなかったが、消えたわけでもない。森の奥から、ずっとこちらを見られているような気配だけが残っている。
「副団長、今日はどうしますか?」
カイルの声が真剣になる。レオンハルトは北を見た。
「森の外周を確認する。中には入らない」
「承知しました」
無茶はしないと約束した、そして帰ると……
そのために必要な情報だけを集める。
それでいい…今は…
*
王城では、朝食のあと、私はマルガレーテさんたちと一緒に過ごしていた。
「ミキ様、こちらはいかがでしょう」
リゼットさんが、一冊の本を持ってきてくれる。
「何の本?」
「守護紋についてまとめられたものです」
「見たい!」
受け取ったものの、すぐには開かなかった。昨日までなら、絶対に何も考えず読み始めていたはずだ。
「……これ、読んでも大丈夫かな」
マルガレーテさんが、少し驚いたように私を見る。
「何がでございますか?」
「昨日、グレンジャー様に力を使わないようにって言われたから。古い本って、触ると何か反応することがあるでしょう?」
自分で言って、ちょっと笑う。
「私、ちゃんと考えるようになったでしょう?」
「まあ」
エミリアさんが微笑んだ。
「大変なご成長でございます」
「その言い方、子供扱いしてない?」
「まさか」
絶対にしている。でも、嫌じゃなかった。
「これは比較的新しい本でございます。魔力を帯びた古文書ではございませんので、ご安心ください」
「じゃあ、読む」
ページを開くと、守護紋には基本となる三つの形があると書かれていた。帰還、生命、導き。それに加えて、土地や家系、贈る相手、願う内容によって細かな模様を組み合わせるらしい。
「へぇ……」
面白いと思いながら読み進めていると、見覚えのある図が目に入った。
円…葉…星…
私がレオンハルト様へ渡したものだ。
「これ……」
説明には、こう記されていた。
『帰る場所を示す守護紋。遠き地へ赴く者が、再び大切な者のもとへ帰ることを願う』
昨日、レオンハルト様が言った言葉を思い出す。
『帰る場所』
『あなたのところへ』
途端に顔が熱くなった。
「ミキ様?」
ニーナちゃんが覗き込んでくる。
「何でもない!」
「お顔が赤いですよ?」
「暑いの!」
「今日は涼しいですが」
「……」
この子、最近鋭すぎる。
*
さらにページをめくっていくと、ある項目で指が止まった。
『古い守護紋の中には、贈り主と受け手の魔力を結ぶものが存在したとされる』
「……え?」
『ただし、現在その術式は失われており、現存する守護紋に同様の力は確認されていない』
「魔力を……結ぶ?」
昨日、私の手から蒼い光が伸びた。レオンハルト様のお守りにも、同じ光が現れた。
「これ……」
胸が少しざわつく。
「マルガレーテさん」
「はい?」
「この部分、ローグ様にも見てもらった方がいいよね?」
「そうですね」
「じゃあ、あとで持って行きます」
本を閉じたところで、エミリアさんが声をかけてきた。
「ミキ様」
「はい?」
「お一人では?」
「行きません!」
先に答えると、部屋に小さな笑いが起きた。
「もう……」
そう言いながら、私も笑った。こういうやり取りが、少しずつ普通になっている。
*
昼前、私はエミリアさんと護衛の騎士二人を伴って、ローグ様の執務室へ向かった。
途中で、ふと足が止まる。
「ミキ様?」
「……何か、変」
胸の奥がざわついていた。嫌な感じではない。でも、遠くで何かが動いたような気がする。
「どうされました?」
「分からない」
窓の外を見る。王都はいつも通りだった。青空が広がり、街並みには人の姿がある。何も変わっていない。
「……気のせいかな」
その時、遠く城の外から鐘の音が聞こえた。
――カーン
一度…そして、もう一度…
――カーン
エミリアさんの表情が変わる。
「……警戒鐘?」
「何?」
すぐに騎士たちが前へ出た。
「ミキ様、お部屋へ戻りましょう」
「でも、何が――」
「まずは安全な場所へ」
その言葉に反論せず、「分かりました」と頷いた。
戻ろうとした瞬間、王城全体がほんの僅かに揺れた。
――ドンッ!
「きゃっ!」
壁に手をつく。
「ミキ様!」
「大丈夫!」
今度は本当に、すぐに答えられた。自分の身体を確認する。怪我はない。眩暈もない。
「何が起きたの?」
誰も答えられない。
その時、窓の外に見えた。王都の北側から、空へ黒い煙のようなものが細く立ち上っている。
「……黒い霧?」
北の森で、レオンハルト様たちが見たものと同じだ。
胸の奥が冷たくなる。
「王都まで……?」
そんなはずはない。森は遠い。それなのに、黒い煙はまるでこちらを探すように、空の上で揺れていた。
*
「ミキを部屋へ!」
廊下の向こうから、ローグ様が走ってきた。
「ローグ様!」
「話はあとだ!」
普段、滅多に走らない人だ。それだけで、事態が普通ではないと分かる。
「王都の北門付近で瘴気反応が出た」
「北門?」
「人の侵入は確認されていない。突然発生した」
「黒い霧と同じ?」
「可能性は高い」
ローグ様は、私の肩越しに護衛の騎士を見る。
「結界区画へ連れて行け」
「承知しました」
「待って!」
思わず声を上げる。
「何だ?」
「レオンハルト様は?」
ローグ様が一瞬黙った。
「今のところ連絡はない」
「無事?」
「昨日の通信以降、異常報告はない」
それなら、今胸の奥にある嫌な感じは、レオンハルト様のものではないのだろうか。
「……分かりました」
私は自分から歩き出した。
「部屋に戻ります」
ローグ様の目が、少しだけ驚いたように見えた。
けれど、数歩進んだところで立ち止まる。
「何かできることがあるなら、教えてください」
「今は安全でいることだ」
「……はい」
それが今の私の役目なら、ちゃんとする。
*
結界区画へ入ると扉が閉まり、淡い青色の光が部屋全体を包んだ。
「ここなら安全?」
「王城内でも最も強い結界が張られております」
エミリアさんが答える。
「そう……」
私は椅子に座って待つ。
前なら、こんな時に何もせず座っているなんてできなかった。けれど今は分かる。勝手に動けば、私を守るために誰かが余計な危険を負うことになる。
「待つのも……大事なんだよね」
「はい」
エミリアさんが優しく答える。
それでも胸は落ち着かなかった。黒い霧。敵は『こちらから会いに行く』と言った。もちろん、私はその言葉を直接聞いたわけではない。けれど、何かが私を探している。そんな感じがする。
その時、手のひらが突然熱くなった。
「……っ」
「ミキ様?」
見ると、守護紋が浮かび上がっている。けれど、いつもと違った。
中心の蒼い光が、北を指していない。
「……え?」
光は真横へ伸びていた。王城の中へ……
「何で……」立ち上がる。
「ミキ様?」
「これ……」
守護紋を見つめる。
「レオンハルト様じゃない」
「では?」
分からない。でも、同じ守護紋の力が何かに反応している。
「誰か……いる」
その瞬間、結界の外の廊下から声が聞こえた。
「ミキ様!」
聞き覚えのある声だった。
「ニーナちゃん?」
私は振り向く。
「ミキ様! 助けてください!」
泣き声が響く。エミリアさんの顔色が変わった。
「ニーナは、先ほどマルガレーテ様と共に別区画へ避難したはずです」
「……え?」
また、扉の向こうから声がした。
「ミキ様! お願いです、開けてください!」
確かにニーナちゃんの声だ。胸がざわつく。
「ニーナちゃん……?」
一歩、扉へ近づく。
「ミキ様!」
エミリアさんが腕を掴んだ。
「開けてはいけません」
「でも!」
「ニーナは、ここには来られません」
そう言われて、足が止まった。
確かに、王城は警戒状態に入っている。各区画は閉鎖されているはずだ。それなのに、ニーナちゃんが一人でここまで来られるだろうか。
扉の向こうから、すすり泣く声が聞こえる。
「ミキ様……怖いです……」
知っている声。でも、何かが違う。
胸が冷たくなる……
守護紋の光が扉へ向いていた。
「……これ」
守護の力が、扉の向こうにある何かへ反応している。
「……ニーナちゃんじゃない」
声に出した瞬間、外が静かになった。そして……
「……残念」
声が変わった。
低く、男とも女とも分からない声だった。
「ずいぶん賢くなったな、守り人」
エミリアさんが息を呑む。
「誰なの!」
私が叫ぶと、扉の向こうで何かがゆっくり笑った。
「会いに来た」
その瞬間、扉を覆う結界へ黒い亀裂が走った。
*
北の街道では、同じ瞬間にレオンハルトが馬上で胸を押さえた。
「……っ」
「副団長?」
カイルが振り向く。
「どうされました?」
お守りが、今まで感じたことがないほど熱くなっている。
「……ミキ」
胸の奥へ、何かが流れ込んできた。
恐怖…緊張…そして、強い意志…
助けて、ではない。逃げない…そんな彼女の気持ちだった。
「王城で何かあった」
「何?」
レオンハルトは馬を止め、胸元のお守りを強く握った。
「通信を!」
「はい!」
魔法師がすぐに通信石を取り出す。しかし、しばらくして首を振った。
「……つながりません!」
「何?」
「王都方向の魔力が乱れています!」
レオンハルトの顔から血の気が引いた。
「副団長」
カイルが低く言う。
「戻りますか?」
一瞬、迷いが生まれた。北の森の調査も任務の一つだ。だが、胸の奥から伝わってくるミキの気配は、恐怖に震えながらも踏ん張っている。
約束した。一人で抱え込まない…
レオンハルトは息を吐いた。
「隊長代理をカイルに」
「副団長」
「私は王都へ戻る」
「しかし――」
「異常事態だ」
迷いはなかった。
「ここは無理に進むな。森へは絶対に入るな」
「……承知しました」
カイルがすぐに頷く。
「ミキ様を……」
言葉を切り、レオンハルトは彼を見た。
「お願いします」
「……ああ」
レオンハルトは馬首を返した。
*
王城では、黒い亀裂が結界の表面をゆっくり広がっていた。
「ローグ様へ連絡を!」
エミリアさんが叫ぶ。
護衛の騎士が通信具を使うが、すぐに首を振った。
「つながりません!」
「そんな!」
扉の向こうから、低い笑い声が響く。
「守り人」
呼ばれた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
でも、同時に白い光が強くなる。
「……来ないで」
声は震えていた。それでも、私は言った。
「私は行かない」
扉の向こうが静かになる。
「ほう」
「あなたが何者かは知らない。でも、私を守ってくれている人たちを、これ以上危険にしたくない」
昨日、レオンハルト様が戦っていた姿を思い出す。仲間を殺さず、助けようとしていた。約束を守って、帰ろうとしていた。
だから、私も守護紋へ両手を重ねる。
「ここには入れさせない」
白い光が部屋へ広がり、エミリアさんたちを包んだ。扉、壁、窓。そのすべてへ薄い光の膜が広がっていく。
「ミキ様……」
「大丈夫」
そう言ってから、一瞬だけ言葉を止めた。
「……今は大丈夫」
ちゃんと言い直す。
怖いし手も震えている。それでも、まだ立てる。
……なら、守れる。
「面白い」
扉の向こうの声が笑った。
「やはり以前とは違う」
以前?その言葉に胸が跳ねる。
「前の守り人を知っているの?」
沈黙が落ちた。そして、声が低く響く。
「知っているとも…お前よりずっと」
黒い亀裂が一気に広がった。
「愚かな女だった」
「……何?」
「守りたいと願い、全てを失った」
胸が凍る。
「お前も同じだ」
「違う」
反射的に言っていた。
「何?」
手は震えている。それでも、私は言葉を続けた。
「私は、一人で全部やろうとしない」
前の人生では、何でも自分で背負った。でも、今は違う。
「頼るって決めたから」
白い光が強くなる。
「私一人で守るんじゃない。みんなで守るの」
エミリアさん、騎士たち、ローグ様、グレンジャー様、そして、レオンハルト様…
その瞬間、守護紋が眩しいほどに輝いた。
黒い亀裂が止まる。
「……何?」
初めて、扉の向こうの声から余裕が消えた。
白い光が結界の亀裂へ流れ込み、黒い闇を少しずつ押し返していく。
「あり得ない」
声が低くなる。
「守り人の力は……そんなものではなかった」
「知らないよ!」
思わず叫ぶ。
「私は私だから!」
その言葉と同時に、白い光が一気に弾けた。
――ドンッ!
衝撃で窓が震える。扉の向こうから呻くような声が聞こえ、黒い亀裂が消えた。
静寂が戻る。
「……終わった?」
力が抜けそうになったところを、エミリアさんが支えてくれた。
「ミキ様!」
「……ちょっとふらついた」
「座りましょう」
「はい」
大人しく椅子へ座る。
怖かった。本当に怖かった。それでも、できた。
一人じゃなかったから……
*
数分後、王城の結界は正常に戻った。
扉が開くと、ローグ様が飛び込んできた。その後ろにはグレンジャー様もいる。
「ミキ!」
「怪我は!?」
「ないです」
「眩暈は?」
「少しだけ」
「すぐ診ます」
いつものグレンジャー様の声を聞いて、それだけでほっとした。
ローグ様に何があったのかをすべて説明する。
ニーナちゃんの声をした偽物、黒い亀裂、そして…
『前の守り人を知っている』という言葉……
そこまで話すと、ローグ様の表情が一気に変わった。
「前の守り人を?」
「はい。それと、『守りたいと願い、全てを失った』と言っていました」
ローグ様は黙り込んだ。
「前の守り人は、何かに失敗したみたいな言い方でした。記録が消された理由と……関係ある?」
「分からん」
そう答えながらも、明らかに何かを考えている。
「調べる」
「はい」
「ただし」
「……はい」
「今日はもう何もしない」
「分かりました」
即答すると、ローグ様が少し驚いた。
「何です?」
「いや」
「私だって学習します」
「そうか」
ローグ様が少し笑った。
*
診察が終わったあと、私はベッドへ横になった。
身体は少し重い。でも、意識ははっきりしている。
「レオンハルト様……」
無事かな?王城で何かあったこと、分かったかな…
胸元へ手を置く。守護紋はもう見えない。でも、細い蒼い光はまだ感じる。
「大丈夫だよ」
今度は私が言う。
「ちゃんと守れたから」
だから、慌てないで、無茶しないで、戻ってきて…
そう思った瞬間、胸が温かくなった。誰かに強く抱きしめられたような感覚だった。
「……レオンハルト様?」
声は聞こえない。でも、なぜか分かる。
向かっている……こちらへ…
「……もう」
少し笑う。
「心配性なんだから」
でも、来てほしい。すごく会いたい。
「早く帰ってきて」
小さく呟いた。
*
夜が明ける少し前、王城の城門へ一頭の馬が凄い勢いで駆け込んできた。
「開門!」
低い声が響く。
銀色の髪、疲れ切った馬。そして、左腕にまだ包帯を巻いた騎士。
「ヴァイス副団長!?」
門兵が驚く。
「ミキ様は!」
レオンハルトは馬を降りるより先に尋ねた。
「ご無事です!」
その言葉に、一瞬だけ肩から力が抜ける。
「……良かった」
けれど、すぐに城へ向かって走り出した。今度は誰にも止められなかった。
*
「ミキ様」
廊下で、エミリアさんが声を潜める。
「はい?」
「お客様です」
「こんな時間に?」
その瞬間、胸が急に温かくなった。
「……まさか」
ベッドから起き上がる。
「ミキ様、まだ――」
「ゆっくり行きます!」
「はい」
寝室を出て、扉を開く。
そこに、レオンハルト様がいた。
銀色の髪は少し乱れ、騎士服には旅の汚れがついている。左腕には包帯が巻かれていた。それでも、ちゃんと立っている。
「……レオンハルト様」
「……ミキ」
声を聞いた瞬間、胸がいっぱいになった。
「帰ってきた……」
「はい」
「本当に?」
「はい」
泣かないつもりだった。でも、無理だった。
「……良かった」
涙がこぼれる。
レオンハルト様が一歩近づく。けれど、そこで止まった。
「……抱きしめても?」
また聞いてくれた。
「……聞かなくていいです」
自分から一歩近づき、その胸へ飛び込む。今度は私から抱きしめた。
「……ミキ」
腕が背中へ回る。強く、それでも大切に抱きしめてくれる。
「お帰りなさい」
ちゃんと言えた。
「……ただいま」
耳元で返ってくる。
それだけで、涙がまたこぼれた。
「怖かった」
「はい」
「でも……」
騎士服をぎゅっと掴む。
「待ってた」
抱きしめる腕が少し強くなる。
「約束したので」
「うん」
「あなたのところへ帰ると」
「……うん」
顔を上げると、深い蒼色の瞳が近くにあった。ずっと会いたかった。
「レオンハルト様」
「はい」
「怪我」
「……」
「あっ、思い出した左腕!」
「軽傷です」
「見せて!」
さっきまで泣いていたのに、急に怒る。
レオンハルト様が少し困ったように笑った。
「やはり」
「何?」
「こうなると思っていました」
「当たり前でしょう!」
「……安心しました」
「何が?」
深い蒼色の瞳が、優しく細められる。
「いつものミキで」
「……」
それはずるい。怒れなくなる。でも、これとそれとは別だ。
「それとこれとは別です」
「はい」
「グレンジャー様に診てもらいます」
「もう治療は済んでいます」
「診てもらいます」
「……はい」
素直に頷く姿がおかしくて、思わず笑った。
「ふふっ」
「何です?」
「何でもありません」
また、二人で笑った。
外では、まだ朝にもなっていない。敵は近づいている。分からないことも、怖いことも山ほどある。
それでも今、この瞬間だけは、ただ嬉しかった。
帰ってきた……この人が、ちゃんと私のところへ帰ってきてくれた。
胸元…二人の間に挟まれた小さなお守りが、ほんの少し白く光っていた。
*
王城から少し離れた場所。夜明け前の闇の中で、一人の男が城を見上げていた。
黒い外套。その手には赤黒い石が握られている。
「……結界を押し返したか」
低い声だった。けれど、その口元は笑っている。
「やはり、今回の守り人は違う」
石の中で赤い光が揺れた。
『騎士も戻った』
「そうだな」
『ならば、次はどうする』
赤い光が細くなる。
男は静かに王城へ目を向けた。
「急ぐ必要はない」
「彼女は……」
一度、言葉を切る。
「自分から真実を求める」
風が黒い外套を揺らした。
「そして、真実を知れば」
男は笑った。
「必ず、こちらへ来る」
朝日が遠く空を染め始める。
その顔は、まだ闇の中に隠れたままだった……




