2 女神様、それ説明不足じゃないですか?
「ようやくお会いできましたね」
目の前の女性は、そう言ってにっこり微笑んだ。
「…………」
誰?
というか…ここ、どこ?
辺りを見回してみる。
白い…
右を見ても白
左を見ても白
上を見ても……たぶん白
床があるのかどうかすらよく分からない。ただ、ふわふわとした真っ白な空間がどこまでも続いている。
そして、その真ん中に私と目の前の女性だけがいる。
(……夢?)
(いや……でも…)
(私――)
そこまで考えた瞬間、頭の中にさっきの光景が蘇った。
信号…
こちらへ向かってくる大型ダンプ…
凄まじい衝撃、そして、痛み。
「……あ」
私、
死んだんだ。
「そうですね」
「え?」
思わず女性を見る。
「今、私……声に出してました?」
「いいえ」
「じゃあ、どうして?」
女性はまた、にっこりと笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がかすかにざわめいた。
初めて会ったはずなのに…
ずっと昔、どこかで同じ笑顔を見たことがあるような気がした。けれど、思い出そうとすると、白い霧のようなものが記憶を覆ってしまう。
……変なの…
「怖いですか?」
「え?」
「私が、ではなく。この場所が」
「いえ……」
そう答えながら、なぜか私は知っていた。
この白い空間は、初めて来た場所ではない。
そんな気がした。
いやいや、死んだばかりなのに、そんなわけない。
(怖いというより、なんだろう)
人間離れしている……
腰まで届きそうな淡い金色の髪は、風なんてないのにふわりと揺れているし、白銀にも薄紫にも見える不思議な瞳は、内側から光っているように見える。
そして何より…
(後ろ……光ってない?)
「あのぉ……」
「はい」
「ものすごく失礼なことを聞いてもいいですか?」
「ふふっ。どうぞ」
「もしかして……神様とか?」
女性は少し驚いたように目を瞬かせたあと、楽しそうに笑った。
「正確には、この世界を見守る女神の一柱……というところでしょうか」
「……女神様」
「はい」
「本物の?」
「おそらく、ミキさんが考えていらっしゃる意味での女神で間違いありません」
「…………」
どうしよう。
死んだと思ったら女神様に会いました。
(こんなことある?)
(いや、死んだこと自体が初めてだから、普通がどうなのか知らないけど)
「じゃあ、ここって……天国?」
「いいえ。ここは魂が次の場所へ向かう前に立ち寄る、狭間のような場所です」
「はぁ……」
よく分からない。でも、とりあえず死んだことだけは確定らしい。
「そうですか……やっぱり死んだんですねぇ」
自分の身体を見下ろす。
特に怪我をしているようには見えない。
痛みもない。
不思議な感じだった。悲しいような、ホッとしたような……でも、一番に浮かんできたのは子供たちの顔だった。
「……子供たち、大丈夫かな」
「大丈夫ですよ」
優しい声が返ってきた。
顔を上げる。
「あなたのお子様たちは、もうご自分の人生を歩いていけます」
「……そうですか」
「悲しまれるでしょう。ですが、支え合いながら前へ進んでいかれます」
胸が少し痛んだ。やっぱり、申し訳ない。
最後まで迷惑をかけてしまった。
でも……
「そっか……」
私は小さく息を吐いた。
「なら、良かった」
心残りがないと言えば嘘になる。
もっと話しておけばよかったとか、もっと一緒に出かければよかったとか…考えればいくらでも出てくる。
それでも…あの子たちなら大丈夫だと言ってもらえたことが、今はありがたかった。
「それで……」
私はもう一度、女神様を見る。
「私はこれからどうなるんですか?」
天国へ行くのか。
それとも生まれ変わるのか。
まさか地獄とか?
(いやいや、そんな悪いことしてないよね? 多分……)
そんな私の考えを読んだのか、女神様がくすくす笑っている。
「大丈夫です。地獄へ送ったりはしませんよ」
「やっぱり考えてること分かるんですね?」
「ここでは、ある程度」
「恥ずかしいんですけど……」
「ふふっ。申し訳ありません」
全然申し訳なさそうじゃない。
「ミキさん」
女神様の表情が少しだけ真剣になった。
「あなたには、もう一度生きていただきます」
「……はい?」
「新しい人生を」
「……」
新しい人生……
その言葉に、胸が小さく鳴った。
死ぬ直前に考えたことを思い出す。
もし…次があるなら
今度は――
「ただし」
女神様が続けた。
「あなたが今まで暮らしていた世界ではありません」
「……え?」
「別の世界です」
「…………別の?」
「はい」
「世界?」
「はい」
「それって……」
(まさか)
「異世界……とか?」
女神様が、にっこり笑った。
「その表現が一番近いでしょうね」
その瞬間、女神様の瞳の奥で、淡い青い光が揺れた。
見覚えがあるような色だった。深い水の底から見上げた空のような、遠い昔、誰かの手を握った時に見た光のような……
けれど、やはり思い出せない。
「…………」
嘘でしょ。いやいや…女神様と話してる時点で、何が起きてもおかしくないのかもしれないけど。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「はい」
「異世界って……剣とか魔法とかある?」
「あります」
「魔物とか?」
「いますね」
「…………」
嫌だ。
怖い。
「私、五十五歳まで普通の日本人だったんですよ?」
「存じております」
「運動神経も普通です」
「はい」
「剣なんて持ったことありません」
「はい」
「喧嘩だってほとんどしたことないし、虫だって苦手です」
「そうなのですね」
「魔物なんて絶対無理ですよ!?」
思わず叫ぶと、女神様が楽しそうに笑った。
「大丈夫ですよ」
「何がですか!」
「ミキさんには、その世界で生きていけるよう必要なものをお渡ししますから」
「必要なもの?」
「はい」
女神様が私の前へ手を差し出した。
その手のひらに、小さな光が生まれる。
白…
金…
淡い青…
いくつもの色が混ざり合いながら、光がふわふわと浮かんでいた。その光を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
懐かしい……
そう思った。
けれど、何が懐かしいのかは分からない。
「まず、言葉」
「言葉?」
「知らない世界へ行って、何も話せないのは困るでしょう?」
「それは……めちゃくちゃ困ります」
「ですから、向こうの言葉は問題なく理解できるようにしておきます」
「おお……」
それはありがたい。
「話すだけじゃなくて、字も?」
「もちろんです」
「すごい!」
これはかなり助かる。
「それから、その世界の環境に適応できる身体」
「身体?」
「今のあなたの魂に馴染みやすい器をご用意します」
「……器」
なんか怖い言い方だけど、要するに、新しい身体ってことかな。
「年齢は?」
思わず聞くと、女神様が笑った。
「今よりずっと若いですよ」
「本当に!?」
思わず身を乗り出した。
女神様が目を丸くする。
「そこが一番嬉しそうですね」
「そりゃそうですよ!」
(五十五歳だよ?)
腰も痛くなるし、疲れは取れないし、鏡を見るたびにシミやらシワやら増えていくし…
もう一度若い身体で人生をやり直せるなんて。
「何歳くらいです?」
「二十歳前後でしょうか」
「二十歳!」
すごい!!最高じゃない。
「お肌も?」
「……おそらく」
「腰痛は?」
「ありません」
「老眼は?」
「ありません」
「女神様!」
「はい?」
「ありがとうございます!」
思わず手を合わせた。
「まだ何も始まっていませんよ?」
「でも二十歳ですよ!?」
「そこまで喜んでいただけるとは……」
女神様が困ったように笑っている。
でも、二十歳かぁ。いいなぁ。
もう一度、そんな若い頃から人生をやり直せるなんて。
「それから」
女神様が、まだ何か言っている。
「ミキさんには少し……おまけもつけておきますね」
「おまけ?」
「はい」
「何のおまけですか?」
「向こうで困らないように、少しだけ」
「少しだけ?」
「ええ」
女神様はにっこり笑っている。
なんだろう。その笑顔…ちょっと怪しい。
「具体的には?」
「それは向こうへ行ってからのお楽しみということで」
「いやいやいや」
(そこ大事じゃない?)
「ちゃんと説明してくださいよ」
「大丈夫です」
「何が大丈夫なんですか?」
「きっと役に立ちますから」
「そういう問題じゃなくてですね……」
私が食い下がろうとした、その時だった。
女神様の手のひらに浮かんでいた光が、急に強く輝いた。
「わっ!」
眩しくて目を閉じる。
すると、身体の中に何か温かいものが流れ込んでくるような感覚がした。
怖くはない。むしろ…懐かしい。
胸の奥に、遠い記憶の断片が浮かんだ。
白い羽。
誰かの声。
そして、幼い自分が泣きながら、光る何かを両手で包んでいる光景。
けれど、それは一瞬で消えた。
「……何、これ」
胸の奥が温かい。
ずっと昔から知っている何かが、戻ってきたような
そんな感じがした。
「やはり……」
女神様の小さな声が聞こえた。
「え?」
目を開ける。
一瞬、
女神様がとても悲しそうな顔をしていたような気がした。その視線は、私ではなく、私の胸の奥にある何かを見ているようだった。
でも、すぐにいつもの優しい笑顔へ戻ってしまう。
「女神様?」
「何でもありません」
「でも今――」
「ミキさん」
遮るように名前を呼ばれた。
「一つ、覚えておいてください」
急に真剣な声になった。
「はい」
「あなたは、偶然あの世界へ行くのではありません」
「……え?」
意味が分からなかった。
「どういうことですか?」
「あなたの魂は本来――」
そこで、女神様は言葉を止めた。
「……女神様?」
「いえ」
少し迷うような表情。
「今はまだ、知らない方がいいでしょう」
「ええ!?」
「必要な時が来れば、きっと分かります」
「いやいや、それ一番気になるやつじゃないですか!」
「ふふっ」
「笑ってごまかさないでください!」
絶対何か隠してる。
「せめてヒント!」
「そうですね……」
女神様は少し考えてから、私を見つめた。
「あなたは、本来あの世界に生まれるはずだった魂です」
「…………はい?」
何それ。
「本来?」
「はい」
「じゃあ、どうして日本にいたんですか?」
「それは――」
また黙った。
「女神様?」
「今はお話しできません」
「また!?」
「申し訳ありません」
「絶対申し訳ないと思ってないですよね!?」
「そんなことはありませんよ」
笑ってるじゃない。もう…
「でも」
女神様が優しく私を見る。
「今度こそ」
その言葉に、なぜか胸が鳴った。
「あなたには、幸せになっていただきたいのです」
「……」
「前の人生で、あなたはずっと誰かのために生きてきました」
夫のため
子供たちのため
仕事でも
家でも
いつも誰かを優先していた。
「今度は、自分の幸せも大切にしてください」
「……はい」
「誰かに頼ってください」
「……できるかな」
「できますよ」
「私、すぐ自分でやっちゃいますよ?」
「知っています」
「大丈夫って言っちゃいます」
「それも知っています」
「……全部知られてる」
恥ずかしい。
女神様はくすくす笑った。
「だからこそ」
そっと…女神様の手が私の頬に触れた。
温かい。
その温もりに触れた瞬間、胸の奥で何かが小さく震えた。まるで、ずっと昔にも同じ手に触れられたことがあるような……
「今度は、あなたが大切にされることを知ってください」
その言葉に、なぜだか泣きそうになった。
「……私」
死ぬ直前の願いが蘇る。
愛したい。
愛されたい。
ただ
大切にされてみたい。
「そんな人生……本当にあるのかな」
小さく呟く。
女神様は答えなかった。
ただ……とても優しく微笑んだ。
「きっと」
それだけだった。
そして、足元が光り始めた。
「え?」
「そろそろ時間です」
「ちょっと待って!」
(早い早い)
「まだ聞きたいこといっぱいあるんですけど!」
「大丈夫です」
「だから何が!?」
光がどんどん強くなる。
「向こうへ行けば、少しずつ分かります」
「そういう丸投げ、一番困るんですって!」
身体がふわっと浮く。
「女神様!」
「はい」
「最後に一つ!」
「どうぞ」
「私、向こうで普通に暮らせますよね!?」
女神様が一瞬黙った。
「……女神様?」
「…………」
「なんで黙るの!?」
嫌な予感しかしない。
すると女神様が、ものすごく小さな声で呟いた。
「……少し、やりすぎてしまったかもしれません」
「何を!?」
「おまけを」
「ちょっとぉぉぉぉ!!」
光に包まれながら、私は叫んだ。
「説明してから送ってぇぇぇ!!」
女神様は笑っていた。
絶対に笑っていた。
最後に…光の向こうから声が聞こえた。
『どうか――今度こそ、幸せに』
その声に重なるように、どこか遠くで羽音がした。
一度…
二度……
まるで、誰かが私を呼んでいるように…
そして、意識が途切れた。
*
一人残された白い空間で
女神は、ミキが消えた場所を静かに見つめていた。
先ほどまでの柔らかな笑みは、もうない。
「……ようやく」
小さな声が落ちる。
「あなたを、本来いるべき場所へお返しすることができました」
女神の手のひらに、小さな光が現れた。
それは一瞬…
白い鳥の姿へ変わる。
白い鳥は、すぐには飛び立たなかった。
小さな頭を傾け、ミキが消えた場所を見つめている。
その瞳には、長い年月を越えてようやく見つけたものを確かめるような、深い安堵が浮かんでいた。
「今度こそ、見つけてあげてください」
女神がそう囁くと、白い鳥はかすかに羽ばたいた。
その羽ばたきに合わせて、白い羽が一枚、光の中へ落ちていく。
「誰に向けた言葉なのか」
答える者はいない。
女神は落ちていく羽を見つめながら、静かに目を伏せた。
「そして……」
女神は目を閉じた。
「どうか同じことを、繰り返さないで」
白い鳥が羽ばたき、光の中へ溶けていく。
その瞬間、白い空間のどこかで、遠い鐘の音が響いた。それはかつて、守り人が旅立った日に鳴った音と同じだった。
その言葉の意味を、この時のミキは、まだ何も知らなかった。




