13 好きだと気づいた、その先は
「……どうしよう」
翌朝、目を覚ました私が最初に呟いたのは、その一言だった。
昨夜、自分で認めてしまった。レオンハルト様のことが、たぶん――いや、かなり好きなのだと…
「……」
布団の中で両手で顔を覆う。
昨日までは、「イケメンだから」「優しくしてもらったから」「異世界に来て心細いから」なんて、いくらでも言い訳ができた。でも、一つずつ考えてみると、どうやらそれだけではないらしい。
あの人が笑うと嬉しい。姿が見えれば安心する。少しでも自分を特別に思ってくれているかもしれないと思えば、ものすごく嬉しい。それに、深い蒼色の毛糸を見ただけで、あの人の瞳を思い出してしまう。
(これを好きじゃないって言ったら、何を好きって言うのよ)
そこまで考えた私は、勢いよく布団を頭まで被った。
「無理ーー……」
好きだと気づいた途端、会うのが恥ずかしくなった。
昨日までは普通に「レオンハルト様!」なんて呼んでいたのに、今日からどうすればいいのだろう。
いや、普通にすればいい。何も変わっていない。向こうはまだ何も言っていないし、私だって何も伝えていない。
だから、普通にいつも通り。
「……できるかなぁ」
呟きながら、ものすごく自信がなかった。
*
結論から言えば、全然できなかった。
「おはようございます、ミキ様」
朝食を終えて部屋を出ると、いつもの場所にレオンハルト様が立っていた。銀色の髪、深い蒼色の瞳、いつもと同じ騎士服、何も変わっていない。
なのに、顔が見られない。
「おはよう……ございます」
自分でも分かるくらい、不自然な返事になった。
「ミキ様?」
「はい!」
声が大きい。
「体調が悪いのですか?」
「元気です!」
「では、何か?」
「何も!」
「……」
絶対に変だと思われている。
でも、顔を見ると昨夜の自分の言葉が蘇ってしまう。
『これ、かなり好きなんじゃない?』
(あーーもう!)
私は誤魔化すように歩き出した。
「行きましょう!」
「……はい」
隣を歩く。いつもなら何でもない距離なのに、今日は腕が近い。歩幅を合わせてくれていることも、香水ではない、どこか清潔な香りがすることも、妙に意識してしまう。
(今まで私、こんな近くを普通に歩いてたの!?)
どうして平気だったのだろう。好きだと気づいただけで、世界が急に変わったみたいだ。
「……ミキ様」
「はい!」
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫ですって」
「しかし」
「本当に大丈夫です!」
その瞬間、レオンハルト様が足を止めた。つられて私も立ち止まる。
「……何?」
彼は、じっと私を見つめていた。
「昨日から何か隠していますね」
「えっ」
「そ、そんなことないですよ?」
「あります」
「ありません」
「目を合わせてください」
「……」
無理……今は絶対に無理だ。
「ほら」
「何がですか!」
「いつもなら、私がそう言えばすぐに睨むでしょう」
「私、そんな人です!?」
「今はそれすらしない」
「……」
よく見ているなぁ…そんなところまで。
「本当に何でもありません」
何とか顔を上げると、深い蒼色の瞳と目が合った。
「……っ」
駄目…やっぱり無理……
私はすぐに視線を逸らした。
「ミキ様?」
「近いんです!」
「……え?」
言ってしまった。
「いや、違う! いつもと同じなんですけど!」
「……」
「今日ちょっとだけ、近く感じるというか、その……」
何を説明しているの、私。
「だから! 何でもありません!」
早足で歩き出すと、後ろからレオンハルト様の声が聞こえた。
「走らないでください」
「走ってません!」
さらにその後ろでは、エミリアさんが肩を震わせている。
(絶対笑ってるーー!)
*
「……なるほど」
その頃、近衛騎士団の詰所では、一人の男が腕を組んでいた。
「何が、なるほどなんですか」
レオンハルトが不機嫌そうに尋ねる。
休憩に戻った彼を待ち構えていたのは、同じ近衛騎士団に所属する部下――副官のカイルだった。
「いやぁ、副団長が朝からずっと難しい顔をされているので」
「いつも通りだ」
「いいえ」
カイルは即答した。
「今日は違います」
「何が違う」
「眉間の皺が一本多いです」
「……」
「しかも原因が戦況でも訓練でもない」
「何が言いたい」
カイルは、少しだけ楽しそうに笑った。
「ミキ様でしょう?」
「……」
沈黙が落ちる。
「分かりやすいですね」
「何も言っていない」
「言っていないから分かるんですよ」
レオンハルトは深いため息をつき、椅子へ座った。
「今朝から……様子がおかしい」
「ミキ様が?」
「ああ」
「避けられている?」
その言葉に、レオンハルトの表情が明らかに曇った。カイルは危うく吹き出しそうになったが、何とか堪える。
「……何だ」
「いえ」
「笑うな」
「笑っておりません」
「口元が笑っている」
「気のせいです」
「それを使うな」
どこかで聞いたような会話だった。
「何かされたのでは?」
「していない」
「本当に?」
「……」
レオンハルトは昨日のことを思い出した。
『それだけではありません』
自分の気持ちをきちんと考えたい。確かに、かなり踏み込んだ言葉だった。だが、嘘ではない。
「少し……言った」
「何を?」
「言う必要はない」
「そうですか」
カイルはますます楽しそうだ。
「では、ミキ様も副団長を意識してしまったのでは?」
「……」
その可能性を考えなかったわけではない。もしそうなら、嬉しい。
だが、同時に怖くもあった。
「……私は」
レオンハルトが低く呟く。
「彼女に、何かを求めていいのだろうか」
カイルの表情から笑みが消えた。
「なぜです?」
「彼女は、まだこの世界へ来たばかりだ。帰る場所もなく、頼れる者も少ない。そんな時に最も近くにいた人間を、特別だと錯覚することもあるだろう」
「……」
「それに」
レオンハルトは、守り人という言葉をまだ口にはしなかった。
「これから彼女の周りで何が起きるかも分からない」
自分は護衛であり、守る立場だ。そんな自分が、その相手へ気持ちを向けていいのか。
「副団長」
カイルが静かに言った。
「難しく考えすぎでは?」
「何?」
「ミキ様がどう思うかは、ミキ様がお決めになることです」
「……」
「副団長が先回りして『きっと錯覚だ』と決めつけるのは、少し失礼では?」
レオンハルトは答えなかった。
「それに」
カイルが少し笑う。
「副団長がどれほど悩まれても、好きになってしまったものは仕方ないでしょう」
「……好きとは言っていない」
「では違うのですか?」
「……」
「ほら」
レオンハルトは黙って片手で額を覆った。
本当に最近、自分は分かりやすすぎる。
*
午前中、私は昨日の続きを編んでいた。
生成りの毛糸で編み始めた小物は、ようやく形が見えてきた。小さな袋、巾着のようなものだ。
「可愛いですね」
ニーナちゃんが覗き込む。
「でしょう?」
「何を入れるのですか?」
「まだ決めてないの」
そう答えながらも、何となく考えていることはあった。日本には、お守りというものがある。神社へ行き、大切な人の健康や安全を願って、小さなお守りを渡すのだ。この世界にも、似たような文化があるのだろうか。
「こちらって、誰かの無事を願って小さなものを渡したりします?」
私が編み針を動かしながら尋ねると、リゼットさんが聞き返した。
「お守りのようなものでしょうか?」
「そう! あります?」
「ございますよ」
「本当?」
「騎士が出征する際などに、家族や恋人が守護紋を刺繍した布を渡すことがあります」
手が止まった。
「……恋人」
「はい」
なぜ、そこだけ妙にはっきり聞こえたのだろう。
「家族も?」
「もちろんでございます」
「友達でも?」
「ございます」
「そうですよね!」
勢いよく返す。
(友達でもいいんだから!)
別に、レオンハルト様に作るなんてまだ言っていない。もし作ったとしても、護衛してくれているお礼。それだけだ。
「それではミキ様」
エミリアさんが楽しそうに口を開いた。
「どなたへ?」
「……」
「そのお守りを」
「まだ誰に渡すなんて言ってないでしょう!」
「では、違うのですね?」
「……」
違う、と言えばいい。簡単なことなのに、なぜか言えなかった。
「……秘密です」
小さく答えると、部屋が静かになった。
「何ですか!」
三人とも、にこにこしている。
「もうーー!」
私は編み物に集中した。
けれど、生成りの袋の端へ、深い蒼色を一目、また一目と編み込んでしまう。
(……完全にバレる)
自分でも、そう思った。
*
昼過ぎ、ローグ様から予定変更の連絡があった。
北の森の異変への対応で、午後に予定されていた魔法の講義は中止になったらしい。
「大変なのかな……」
窓の外を見る。
王城の中は、いつもと変わらない。けれど、昨日聞いた話が頭から離れなかった。魔物が一つの場所へ集まっている。石碑、封印、災厄。
不安にならないと言えば嘘になる。
でも、ここで私が一人で考えても何もできない。
「できることをしよう」
私はもう一度、編み針を手に取った。
少しずつ、一目ずつ。焦らず、今の私にできることを。
*
夕方になり、レオンハルト様が戻ってきた。
「お帰りなさい」
今度は自然に言えた。
レオンハルト様が一瞬、目を見開く。
「……ただいま戻りました」
昨日と同じ、たったそれだけのやり取りなのに、胸が温かくなる。
「今日、忙しかった?」
「少し」
「北の森?」
彼の表情がわずかに変わった。
「ローグ様から聞きました」
「そうですか」
「大丈夫なの?」
「現時点で、王都に直接的な危険はありません」
「そうじゃなくて」
「……?」
「レオンハルト様が、北の森に行ったりしないの?」
一瞬、彼が黙った。
「……心配してくださっているのですか?」
「しますよ」
即答してから、自分ではっとした。
でも、もう誤魔化すのは少し違う気がした。
「だって」
彼を見る。今度は逸らさなかった。
「レオンハルト様に何かあったら、嫌です」
「……」
言えた。好きとはまだ言えない。でも、これは本当だった。
「ミキ様……」
深い蒼色の瞳が大きく揺れる。
「だから」
恥ずかしくなって、少し笑った。
「無茶しないでくださいね」
いつも私が言われていることを、今度は私が言う。
レオンハルト様はしばらく何も言わなかったが、やがて、とても小さく笑った。
「……分かりました」
「本当に?」
「はい」
「約束できます?」
「約束します」
「よろしい」
グレンジャー様の真似をして言うと、レオンハルト様が笑った。
「何ですか」
「いえ」
「また?」
「……嬉しかっただけです」
「え?」
「心配していただけるのが」
その笑顔は、反則だった。また好きになる。
いや、もう好きなのか。
(もうーー……)
*
その時だった。
廊下の向こうから、何かが落ちる音がした。
――ガシャン!
「……?」
同時に、レオンハルト様の表情が変わる。一瞬前まで笑っていた人とは思えないほど鋭い顔つきになり、すぐに私の前へ出た。
「ここにいてください」
「何?」
「エミリア」
「はい」
「ミキ様から離れるな」
「承知しました」
レオンハルト様が扉へ近づく。
「待って」
思わず袖を掴んだ。
「ミキ様?」
「……気をつけて」
彼は一瞬、私の手を見た。それから顔を上げる。
「はい」
短く答え、扉を開けた。
廊下には誰もいなかった。
少し離れた場所で、花瓶が割れている。水が床に広がり、花と陶器の破片が散らばっていた。
「風?」
私が扉の内側から覗こうとすると、すぐに制止される。
「出ないでください」
「はい」
今は、ちゃんと言うことを聞く。
レオンハルト様が慎重に近づき、しゃがみ込んだ。
割れた花瓶の横に、何かがある。
「レオンハルト様?」
返事がない。
彼が拾い上げたのは、小さな紙片だった。真っ黒な紙の表面に、赤い文字が浮かんでいる。
「何ですか、それ」
レオンハルト様は、すぐには見せなかった。
けれど、私にはなぜか読めてしまった。
『守り人を渡せ』
「……っ」
声が出なかった。
「ミキ様?」
レオンハルト様がすぐに振り返る。
「読めたのですか?」
「……はい」
彼の顔が一気に険しくなる。
「エミリア。扉を閉めろ」
「はい!」
「でも――」
「ミキ様」
レオンハルト様が私の前へ戻ってくる。
「今から何があっても、この部屋を出ないでください」
「誰かが……城の中にいるの?」
彼は答えなかった。
それが答えだった。
「レオンハルト様」
「はい」
「一人で行かないで」
思わず言った。
「騎士を呼んで」
「……」
「約束したでしょう? 無茶しないって」
彼が少しだけ目を見開く。それから、素直に頷いた。
「承知しました」
*
数分後、王城の一角は静かに封鎖された。
エドワード、ベルン、近衛騎士団。誰にも騒ぎを悟られないよう、最低限の人数だけが動いている。
黒い紙と赤い文字は、魔法師団の解析によって普通のインクではないと判明した。
「瘴気……ですね」
ベルンが険しい顔で呟く。
「北の森で確認されているものと同じ反応です」
エドワードの表情が冷たくなる。
「どうやって王城内へ入った」
「人が持ち込んだとは限りません」
「何?」
「この紙自体が、瘴気で作られている可能性があります」
「つまり」
レオンハルトが低く言った。
「北の森にいる何かが、王城へ干渉した?」
「可能性はあります」
エドワードは黒い紙を見つめた。
『守り人を渡せ』
守り人…それはミキを指している。間違いなく…
「ローグ殿」
レオンハルトの声がいつもより低かった。
「何だ」
「ミキ様の護衛を増やしてください」
「ああ」
「常時、二名以上」
「手配する」
「部屋へ入れる者も制限を」
「分かっている」
「それから――」
「レオンハルト」
エドワードが彼を見る。
怒っている。いや、それだけではない。ミキに何か起こることを恐れているのだ。
「落ち着け」
「……」
「私も同じ気持ちだ」
「……はい」
レオンハルトは静かに拳を握った。
*
夜になると、私の部屋の前にはいつもの倍の騎士が立っていた。急に物々しくなった光景に、私は思わず眉をひそめる。
「……大袈裟じゃない?」
そう言うと、レオンハルト様からものすごい目で見られた。
「……すみません」
今日くらいは逆らわない。
「本当に、誰かが私を狙ってるんですね」
「可能性は高いです」
「守り人だから」
「……はい」
怖い。正直に言えば、怖かった。
でも、前のように全部一人で抱え込むつもりはなかった。
「分かりました」
「何がです?」
「ちゃんと言うこと聞きます」
「……」
「何、その顔」
「いえ」
レオンハルト様が少しだけ笑う。
「ようやく」
「どういう意味?」
「何でもありません」
「もう」
思わず私も笑った。少しだけ、緊張が解ける。
ふと、机の上に目を向ける。
今日、完成した小さな袋。生成り色の毛糸で編み、端には深い蒼色を入れた。中にはまだ何も入っていない。
「……あの」
「はい?」
今、渡す?
いや、まだ何も入っていない。これはただの袋だ。
「……やっぱりいいです」
「そうですか」
「はい」
でも、決めた。この世界のお守りである守護紋を、ちゃんと教えてもらおう。そして、それを編み込んでレオンハルト様に渡したい。
守ってもらうだけではなく、私もこの人の無事を願いたい。
「レオンハルト様」
「はい」
「明日も……います?」
「もちろんです」
「……良かった」
小さく呟いたつもりだった。
けれど、聞こえてしまったらしい。
「ミキ様」
「何?」
彼の表情が、とても優しくなる。
「私もです」
「……え?」
「明日も、あなたに会えることが」
少しだけ間を置いて、彼は続けた。
「嬉しい」
「……」
駄目……
今日は、もう何回好きになればいいの?
「……おやすみなさい!」
「え?」
「もう寝ます!」
慌てて寝室へ逃げると、後ろから小さな笑い声が聞こえた。
「おやすみなさい、ミキ様」
扉を閉め、そのまま背中を預ける。
「……無理」
胸がうるさい。
「これ以上キュンキュンしたら、寝られないって……」
それでも、顔はどうしても笑ってしまう。
そんな私の部屋の外で、レオンハルトはしばらく閉じた扉を見つめていた。
その表情は穏やかだった。
けれど、やがて廊下の奥へ目を向けると、蒼い瞳から笑みが消える。
『守り人を渡せ』
その言葉を思い出し、レオンハルトは低く呟いた。
「……渡すものか」
誰にも聞こえない声だった。
けれど、そこにあったのは護衛としての義務だけではなかった……
その夜、王城の外では…
暗闇の中に立つ黒い影が一つ、静かに城を見上げていた。




