12 近づく心と、動き始める影
翌朝、目を覚ました私は、しばらくベッドの中でぼんやり天井を見つめていた。
昨日はいろいろあった。久しぶりに編み物をして楽しかったし、深い蒼色の毛糸を見つけて、何となくレオンハルト様のことを思い出してしまった。
それから――
『もしかして、ヤキモチ?』
「……」
思い出した瞬間、私は両手で顔を覆った。
(なんであんなこと聞いちゃったのよぉ……)
しかも、レオンハルト様は答えなかった。否定もしないまま、逃げるように部屋を出ていってしまった。
もし全然違うのなら、「違います」と言えば済む話じゃない?
……いや、でも
レオンハルト様って、こういうことに慣れてなさそうだし、単純にどう答えればいいのか分からなかっただけかもしれない。
「うーん……」
布団の中で寝返りを打つ。
(でも、もし本当にヤキモチだったら……)
嬉しい…
昨日、自分でそう言ってしまった。そのことの方が問題だ。
「私……何で嬉しいの?」
答えは、なんとなく分かりかけている。でも、まだそこを認めてしまうのは怖い。だって、この世界へ来てまだそんなに経っていないしレオンハルト様とも、出会ったばかりだ。
それなのに、朝起きて最初に思い出すのが彼だったり、姿を見るとホッとしたり、優しいことを言われれば胸がきゅっとしたり……
「……十分おかしいよね」
ぽつりと呟いた時、ちょうど扉がノックされた。
「ミキ様、お目覚めでございますか?」
「起きてますよー」
入ってきたのはエミリアさんとニーナちゃんだった。二人に手伝ってもらいながら身支度をしていると、エミリアさんが鏡越しにちらちらこちらを見ている。
「……何?」
「何がでございますか?」
「さっきから、こっち見てない?」
「気のせいでは?」
「絶対見てた」
「まあ」
涼しい顔をしているけれど、口元が少し笑っている。
「昨日のこと?」
尋ねると、エミリアさんの目が一瞬輝いた。
「昨日のこと、と申しますと?」
「……やっぱり知ってるじゃない」
「何をでしょう?」
「もういいです!」
完全に遊ばれている。その隣で、ニーナちゃんまで必死に笑いを堪えていた。
(侍女さんって、主人をからかっていいものなの?)
そう思いながらも、不思議と嫌ではなかった。むしろ、こういう他愛のないやり取りが楽しい。
前の世界では娘と話したり、職場の人と笑ったりすることはもちろんあった。でも、いつも頭のどこかには次にやるべきことがあって、心からのんびり笑っていた時間なんて、思っていたより少なかったのかもしれない。
「今日は何するんですか?」
着替えを終えて尋ねると、エミリアさんが答えた。
「午前中は王国史についての講義、その後はローグ様がお話をなさりたいとのことです」
「ローグ様が?」
「はい」
何だろう。白い鳥のこと?それとも魔石?
胸の奥に、少しだけ不安が広がった。
「……分かりました」
その時、ニーナちゃんが私の髪を整えながら、小さく笑った。
「今日もこちらのお色がお似合いですね」
淡い水色のワンピース。
「ありがとう」
「レオンハルト様も、きっと――」
「ニーナ」
エミリアさんが名前を呼ぶ。
「……はい」
「今、何て?」
「何でもございません!」
「ちょっと待って!」
今のは聞き捨てならない。けれど、二人ともそれ以上は何も言ってくれなかった。
*
朝食を終えて部屋を出ると、いつもの場所にレオンハルト様が立っていた。銀色の髪に、深い蒼色の瞳。姿を見た瞬間、なぜか胸の奥がふっと緩む。
(あ……)
今、私……会えて嬉しいって思った。
それに気づいてしまい、急に意識してしまった。
「おはようございます、ミキ様」
「お、おはようございます」
普通に…昨日のことは気にせず、普通に話せばいい。
そう思っているのに、目が合うと昨日の『ヤキモチ?』が頭に浮かぶ。そしてレオンハルト様も、いつもより少し視線が泳いでいる気がする。
「……」
「……」
気まずい。ものすごく……
「では、参りましょうか」
「はい」
歩き出す。でも、何となく会話が続かない。
普段なら私が何か言って、レオンハルト様が答えて、そこからまた私が話しているのに、今日は二人とも妙に静かだった。しばらく歩いたところで、さすがに耐えられなくなった。
「あの!」
「はい」
同時だった。
「……」
「……」
また…前にもこんなことがあった気がする。
「レオンハルト様からどうぞ」
「いえ、ミキ様から」
「じゃあ……」
私は少し迷った。昨日のこと聞く?
いや……無理
「あの、昨日……」
言いかけた瞬間、レオンハルト様の肩が僅かに強張った。
(分かりやすっ)
思わず笑いそうになる。
「昨日?」
「……編み物、楽しかったです」
逃げた。私も……
「そうですか」
明らかにホッとした顔。
(やっぱり気にしてるじゃん)
少しだけ、意地悪したくなった。
「何だと思ったんです?」
「……何がでしょう」
「私が『昨日』って言ったから」
「特には」
「本当に?」
「はい」
「ふーん」
じっと顔を見る。
レオンハルト様は前を向いたままだけれど、耳が少し赤い。
「……ふふっ」
「何ですか?」
「何でもありません」
「最近、それをよく使われますね」
「誰かさんの真似です」
そう言うと、レオンハルト様がようやく笑った。
それだけで、さっきまでの妙な気まずさが少し薄れる。
「昨日の毛糸」
レオンハルト様が言った。
「はい?」
「あの深い蒼色のものは、何を作るのです?」
「えっ」
今度は私が固まる番だった。
見てたの?
「あれは……まだ決めてません」
「そうですか」
「はい」
「綺麗な色でしたね」
「……そうですね」
言えない……
あなたの瞳に似ていると思って取り分けました、なんて…絶対無理。
「何か作られたら、見せてください」
「え?」
「楽しみにしています」
穏やかにそう言って、レオンハルト様は歩いていく。
(ちょっと待って)
もし、あれでレオンハルト様の何かを作ったら完全にバレない?
「……色、変えようかな」
小さく呟く。
「何か?」
「何でもありません!」
後ろを歩いていたエミリアさんが、また笑っていた。
*
午前中の講義では、この国の建国について教えてもらった。アルヴェリア王国が生まれたのは、およそ七百年前。当時は今よりずっと魔物が多く、各地で被害が続いていたらしい。いくつもの小国が争っていたところを初代国王がまとめ、現在の王国の基礎を作ったという。
「七百年前かぁ……」
教本のページをめくる。
そこには古い王城の絵が描かれていた。何気なく見ていたのだけれど…
「……ん?」
絵の上部、空…そこに、とても小さなものが描かれている。
「これ……」
白い鳥?かな。色は褪せていて、ほとんど分からない。でも、大きく広げた翼。
「先生」
講義をしてくれていた文官が顔を上げる。
「はい、ミキ様」
「この鳥って何ですか?」
指差す。文官が絵を覗き込んだ。
「鳥……でございますか?」
「ここ」
「……」
しばらく見たあと、首を傾げる。
「申し訳ございません。この絵に鳥が描かれているという話は、聞いたことがございません」
「でも……」
確かにいる。しかも見つめていると、ほんの少しだけ白く光っているように見える。
(また私だけ?)
胸の奥が少し温かくなる。
『白き翼』
昨日まで何度も出てきた言葉を思い出す。
「ミキ様?」
「……いえ。何でもありません」
今度は、すぐ誰かに触ったりしない。
無理しない、勝手に試さない、約束したから…
「この本、あとでローグ様にも見てもらっていいですか?」
「もちろんでございます」
私はそっと本を閉じた。少しだけ、自分でも変わったと思う。前ならその場ですぐに調べようとしていた。
でも今は、待てる。誰かに頼れる。
それが少し嬉しかった。
*
昼食を終えたあと、ローグ様が私の部屋へやって来た。グレンジャー様も一緒だ。
そして、レオンハルト様も…
「……何ですか、このメンバー?私、何か怒られるの?」
「どうしてそうなる」
ローグ様が呆れた顔をする。
「だって、ローグ様とグレンジャー様が揃う時って、だいたい『無理するな』って言われる時でしょう?」
「自覚はあるんだな」
「失礼ですね」
隣でグレンジャー様が笑っている。
「今日は怒りに来たわけではありませんよ」
「本当?」
「はい」
「なら良かった」
ほっとして椅子へ座る。
でも、三人の雰囲気は、いつもより少し真剣だった。
「あの……」
「ミキ」
ローグ様が口を開く。
「昨日、約束したな」
「何を?」
「分かったことは話す、と」
「……はい」
胸が少し緊張する。
「何か分かったんですか?」
「ああ」
ローグ様は、一冊の古い書物をテーブルへ置いた。
表紙には題名がない。革は乾いてひび割れ、背表紙には何度も補修した跡が残っている。けれど、ページを開いた瞬間、古い紙の匂いに混じって、かすかな魔力の気配が漂った。
「これは王立書庫の封印区画から見つかった記録だ。建国期から数十年にわたる、王家と魔法師団の共同記録らしい」
「封印区画?」
「一般の閲覧を禁じられた場所です」
グレンジャー様が静かに補足する。
「ただし、記録の大半は欠落しています。ページが破られたもの、文字そのものを消されたもの、内容を読めないよう術式で覆われたものまでありました」
「誰かが隠したんですか?」
「その可能性が高い」
ローグ様は、いくつかのページを並べた。
そこには、同じ時代に書かれた別々の記録があった。
一つ目には、王都を襲った魔物の群れと、それを退けた白い光。
二つ目には、異界から現れた者の記述。
三つ目には、白い翼に導かれた存在についての短い記録。
「記述の表現は違いますが、時期と出来事が一致しています」
ローグ様が指で行を追う。
「異界から現れ、白い翼に導かれ、災厄を退けた者。その者は傷ついた人々を癒やし、魔物の瘴気を払い、王都を救ったとされている」
心臓がどくん、と鳴った。
白い翼
異界
災厄
「……それって」
森で魔物を消した。あの白い光……
「その人は……何て呼ばれてたんですか?」
ローグ様は、一瞬だけグレンジャー様を見る。
そして…答えた。
「守り人」
「……守り人」
口にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
「……っ」
反射的に手を胸へ当てる。
「ミキ?」
レオンハルト様がすぐに一歩近づいた。
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい。痛くないです。ただ……」
守り人……
もう一度、頭の中で繰り返す。
胸の奥、何かがその言葉を知っている。
「私……その言葉」
「知っているのか?」
「違います」
ローグ様を見る。
「初めて聞いたはずなのに……知ってるような気がする」
「……」
「変ですよね」
「いや」
ローグ様は首を横に振った。
「ここ数日のことを考えれば、むしろ意味があるのかもしれない」
「私が、その守り人なんですか?」
ついに聞いた。部屋が静かになる。
「まだ断定はできない」
ローグ様が慎重に答える。
「だが、その可能性は高いと思っている」
「……そうですか」
驚いた。もっと怖くなると思っていたが、意外と冷静だった。
「守り人って……何をする人なんです?」
「記録から読み取れる範囲では、魔物や瘴気によって傷ついたものを癒やし、異常な魔力を鎮める力を持っていたようです」
グレンジャー様が答える。
「ただし、それが守り人自身の意思で行われたのか、白い翼に導かれて発現したのかは分かりません」
「白い翼に……導かれて?」
「はい。記録では、白い翼は守り人を選び、危機の前に姿を現すとされています」
ローグ様が別のページを開く。
そこには、かろうじて読める一文が残っていた。
『白き翼は災厄を生むものにあらず。災厄の訪れを告げ、守り人を導くものなり』
「災厄の訪れを……告げる?」
「そう考えられます」
「じゃあ、白い鳥が私の前に現れたのは……」
「何かが近づいているからかもしれません」
その言葉に、部屋の空気が少し冷えた気がした。
「守り人に関する記録は、かなりの部分が意図的に失われている」
ローグ様が続ける。
「ですが、残された断片をつなぎ合わせると、守り人が現れる時には、必ず大きな異変が起きている」
「大きな異変……」
「魔物の大量発生、瘴気の流出、封印の揺らぎ」
グレンジャー様が、淡々と告げる。
「そして、最後の記録にはこうあります」
彼が指したページには、黒ずんだ文字が残っていた。
『守り人を恐れるな。恐るべきは、その力を欲する者』
その下には、別の筆跡で短い追記がある。
『守り人が戻る時、封じられし災厄もまた目覚める』
その言葉に…ぞくりとした。
「封じられた……災厄」
「はい」
「それは、何なんです?」
ローグ様はすぐには答えなかった。
「分からない」
「本当に?」
「ああ。名前も、姿も、封じられた場所も記録から消されている」
「でも、災厄が封じられていることだけは分かる」
「そうだ」
ローグ様は、別の紙片を取り出した。
それは本のページではなく、古い報告書の一部だった。端が焼け、中央には王家の紋章がかすかに残っている。
「これは昨夜、北の森から届いた報告だ」
「北の森?」
「魔物の群れが、縄張りも種族も関係なく、同じ方向へ移動している」
「何かに追われているんですか?」
「逆だ」
ローグ様の声が低くなる。
「何かに呼ばれている」
森…
白い光…
魔石…
そして…白い鳥。
「……その場所に、何かあるんですか?」
「調査隊を出す予定です」
「予定?」
「すでに斥候を向かわせています。ただ、昨夜から連絡が途絶えた」
部屋の空気が、一気に重くなる。
「連絡が……?」
「最後の報告には、奇妙な記述があった」
ローグ様は報告書をめくった。
「『石碑の周囲に、古い魔力反応を確認。魔物は石碑へ向かっている。地中から、呼吸のような振動あり』」
「呼吸……」
想像してしまう。地面の下で、何かが眠っている。
長い間……ずっと。
「その後、報告は?」
「ない」
グレンジャー様が静かに答えた。
「ただ、今朝になって北の森の魔力濃度がさらに上昇しました。通常の魔物の活動では説明できません」
「封印が……弱くなっている?」
私が呟くと、ローグ様は否定しなかった。
「可能性はある」
「私が現れたから?」
「まだ分からない」
「でも、記録には……」
「守り人が災厄を目覚めさせると書かれているわけではありません」
グレンジャー様が、はっきりと言った。
「守り人の出現と、封印の揺らぎが同じ時期に起きる。そこに因果関係があるのか、それとも同じ原因から生じているのかは、まだ判断できません」
「……」
「だからこそ、ミキ様を災厄の原因だと考えてはいけない」
その言葉に少しだけ、息がしやすくなった。
「守り人そのものが、災いをもたらす存在だったわけではないようです」
ローグ様が続ける。
「むしろ、災厄に対抗するために現れる存在だった可能性が高い」
「じゃあ……私は」
「戦うために呼ばれたのかもしれない」
その言葉は、怖かった。
でも、同時に胸の奥で何かが静かに反応した。
白い鳥が、私を見つけたと言った。
『見つけた』
あれは、私を災厄のもとへ連れていくため?
それとも…災厄から守るため?
「……分からないことばかりですね」
「だから、急いで調べる」
ローグ様は本を閉じた。
「北の森の調査と、王立書庫に残る記録の再調査を進める。ミキ、お前には今まで通り王城で過ごしてもらう」
「はい」
「ただし、城の外へ出る時は必ず護衛をつける」
「はい」
「勝手に一人で何かを調べない」
「はい」
「白い鳥が現れたら報告」
「はい」
「何か力が反応しても勝手に試さない」
「はい」
「体調に変化があれば」
「すぐグレンジャー様!」
先回りすると、三人が同時に頷いた。
「……何ですか、その連携」
「ようやく学習したな」
「私、子供じゃないんですけど」
ローグ様が笑う。そして、私も少し笑った。
不思議だ。
守り人
封じられた災厄
そんな重大そうなことを聞いたばかりなのに、一人じゃないと思うだけで、怖さが少し小さくなる。
*
話が終わり、ローグ様とグレンジャー様が部屋を出たあとレオンハルト様だけが残った。
「……」
「……」
また、気まずい。さっきの
『それだけではありません』
頭の中で何回も再生される。
「レオンハルト様」
「はい」
「さっきの……」
聞きたい。でも怖い。
「……やっぱり何でもないです」
逃げた。すると、レオンハルト様が小さく笑った。
「何ですか?」
「昨日の私と同じですね」
「……」
「仕返しですか?」
「いいえ」
「笑ってるじゃないですか」
「少しだけ」
「でも」
彼の表情が、少しだけ真剣になる。
「今は、それでいいと思います」
「え?」
「私も」
一瞬、言葉を選ぶように、間を置く。
「自分の気持ちを、きちんと考えたい」
胸が……跳ねた。
「……はい」
「中途半端な言葉で、ミキ様を困らせたくありません」
「……」
ずるい……
やっぱりこの人ずるい。
こんなこと言われたら余計に、意識するじゃない。
「……私も」
「はい?」
「私も、ちゃんと考えてみます」
何をとは言わなかった。
でも…多分、分かっている。
二人とも、何となく同じことを考えてる。
その時、ふと、机の上の深い蒼色の毛糸が目に入った。
(……)
何を作るか。まだ秘密。
でも、少しだけ決まってきた気がした。
*
その日の夕方、
エドワードは、国王の執務室にいた。
守り人……
その言葉が確認された以上、もはや陛下へ黙っておくわけにはいかない。国王は、エドワードの報告を最後まで静かに聞いていた。
「……つまり」
低い声が響く。
「ミキ殿が、七百年前の記録に残る守り人である可能性が高いと?」
「はい」
「白き翼も、すでに彼女の前に現れている」
「本人にしか見えないようですが」
「それだけではない」
エドワードは、北の森から届いた報告書を差し出した。
「昨夜から、北の森で魔物が一斉に移動しています。種族も大きさも関係なく、すべてが同じ場所へ向かっている」
国王は報告書に目を落とした。
「石碑のある場所か」
「ご存じなのですか?」
「北の森の奥には、古い封印碑がある」
「封印碑?」
「ああ。王家の記録では、建国以前から存在していたとされている。ただし、何を封じているのかは伝えられていない」
エドワードが眉を寄せる。
「なぜ、そのような重要な記録が残っていないのです?」
「残っていないのではない」
国王は、ゆっくり顔を上げた。
「残さなかったのだ」
「……」
「幼い頃、先王から一度だけ聞いたことがある」
国王は窓の外へ目を向けた。
「王家には、代々口伝で伝わる言葉がある」
「何と?」
「『白き翼が王都へ戻りし時、守り人を迎え入れよ』」
エドワードが息を呑む。
「『決して、その者を縛るな』」
「守り人を……縛るな?」
「ああ」
国王は、さらに低い声で続けた。
「そして、もう一つ」
「『守り人が再び現れた時こそ、封じられた災厄もまた目覚める』」
部屋の空気が、一気に重くなる。
「封じられた災厄とは、何なのです?」
「分からない」
「陛下にも?」
「私が聞いたのは、それだけだ」
国王は机上の報告書へ視線を落とした。
「ただし、北の森の異変が封印の揺らぎによるものなら、守り人の出現と無関係とは言い切れん」
「ミキ殿が災厄を目覚めさせた、と?」
「そう決めつけてはならない」
国王の声が鋭くなる。
「口伝は、守り人を縛るなとも伝えている。守り人を原因と見なして利用しようとすれば、過去と同じ過ちを繰り返すことになる」
エドワードは、古い記録の欠落を思い出した。
守り人に関するページだけが、意図的に消されていた。
「過去に、何があったのですか?」
「それも分からない」
国王は答えた。
「だが、記録を消した者たちは、守り人を恐れたのではない。守り人の力を恐れ、同時に欲したのだろう」
「力を欲した者……」
「その結果、災厄の封印が揺らいだのかもしれん」
窓の外、夕暮れの空が赤く染まっている。
その色が、まるで遠い森で灯った火のように見えた。
「北の森へ調査隊を送ります」
エドワードが言う。
「すでに斥候を向かわせましたが、連絡が途絶えています」
「ならば、精鋭を選べ。封印碑には近づくな。異常を確認した場合は、記録と報告を優先しろ」
「承知しました」
「それから」
国王は、エドワードをまっすぐ見た。
「ミキ殿の周囲を、これまで以上に警戒せよ」
「王城内も、ですか?」
「特に王城内を」
その言葉に、エドワードの表情が変わった。
「……すでに、守り人の存在を知る者がいる可能性が?」
「記録を消した者の子孫が、今も何かを探しているかもしれん」
国王は、静かに告げた。
「災厄が目覚める前に、守り人を手に入れようとする者が現れる」
「ミキ殿を?」
「力を欲する者にとって、守り人は鍵だ」
その瞬間、執務室の外でかすかな物音がした。
エドワードが振り返る。
扉の向こうには、誰もいない。
ただ、廊下の床に黒い灰のようなものが、細く落ちていた。
*
同じ頃…
王都から遠く離れた森の奥、月明かりすら届かない場所で、何百もの魔物が静かに一つの方向へ、向かって歩いていた。争うこともなく、吠えることもなく…
まるで何かに呼ばれているかのように…
森のさらに奥……
地面には、古びた石碑があった。
苔に覆われ、文字すら読めないほど長い年月を経た石碑。けれど、その表面に刻まれた文字の一部だけが、黒い光を帯びて浮かび上がっていた。
『封じられしもの、白き翼とともに目覚める』
その文字をなぞるように小さな亀裂が走る。
――ピシッ。
亀裂は一つでは終わらなかった。
石碑の中央から左右へ伸び、地面の下へ潜り込んでいく。
そのたびに、森の空気が震えた。
魔物たちが一斉に足を止める。
次の瞬間、
石碑の隙間から黒い煙のようなものが、ゆっくりと溢れ出した。煙は地面を這い、魔物たちの足元を通り過ぎ、森の外へ向かって広がっていく。
『……守り人』
低い声……人とも魔物ともつかない声が森の中に響く。
『白き翼は、またお前を選んだか』
石碑の奥で二つの赤い光が、静かに目を開いた。
『ならば、今度こそ――』
声が途切れる。
石碑の亀裂の奥から赤い光が、さらに一つ。また一つ。闇の中に浮かび上がった。
『守り人を、こちらへ呼べ』
魔物たちが、一斉に森の外へ顔を向ける。
その視線の先、遠く離れた王都の方角で、白い光が一瞬だけ夜空を裂いた。
*
そんなことになっているとは知らない私は、ベッドの上で深い蒼色の毛糸を眺めていた。
「……それだけじゃない、かぁ」
また思い出してる。
『任務だからという理由だけで、ミキ様を守りたいと思っているわけではありません』
「……」
クッションを抱きしめる。
「それって……もう」
かなり、そういう意味では?
でも、レオンハルト様はちゃんと考えたいと言った。
だから…私も考えよう。
若い姿になったから、寂しいから、優しくされたから……
それだけで、好きだと思っているんじゃないか。
本当にあの人だから会いたいのか。一緒にいたいのか。守ってもらうだけじゃなく、私も何かしてあげたいと思うのか…
そこまで考えて手元の毛糸を見る。
「……」
答え……
ちょっと出てる気がする。
だって!色を見ただけで、あの人の瞳を思い出した。
寒くないかなって手を気にした。
何か作ってあげたいって、自然に思った。
「……あーー」
私はクッションへ顔を埋めた。
「これ、かなり好きなんじゃない?」
とうとう……言ってしまった。
誰もいない部屋でものすごく小さな声だったけれど。
確かに自分で言った。
その瞬間、胸がどくん、と鳴った。
でも…嫌じゃなかった。
むしろ……ずっと曖昧だったものに少しだけ名前がついたような気がした。
「……どうしよう」
そう呟きながら……顔は笑っていた。
その時、窓の外…誰にも見えない夜空に白い羽根が一枚静かに舞い落ちた。
そして、
王都の北、遠い森の奥で何かが目を覚ました。




