11 私にも、できること
翌朝、目を覚ました私は、真っ先に窓へ目を向けた。
昨夜、月明かりの中で白い鳥を見た。金色の瞳でこちらを見つめ、安心したように目を細めてから、夜空へ飛び立っていったのだ。
カーテンを開けると、そこに広がっていたのはいつもの朝の景色だった。もちろん、白い鳥の姿はない。
「夢……じゃないよね」
森でも見た。図書室でも気配を感じた。そして昨日の庭園では、はっきりと名前を呼ばれた。
『ミキ』
続いて聞こえたのは、『見つけた』という声……
怖いはずなのに、なぜかあの鳥だけは怖くなかった。むしろ、どこか懐かしい。
「何でだろう……」
日本であんな鳥を見たことは一度もない。この世界へ来てから初めて会ったはずなのに、ずっと昔からあの金色の瞳を知っていたような気がする。
考えても答えは出なかった。
その時、扉がノックされた。
「ミキ様、お目覚めですか?」
「起きてますよー」
エミリアさんの声に返事をすると、扉が開いた。入ってきた人物を見た瞬間、私は思わず「あ」と声を漏らす。
「……その反応は、少し傷つきますね」
グレンジャー様だった。
「いやいや、違いますよ?」
「では、なぜ私を見た瞬間に『あ』と?」
「だって……」
絶対に診察だ。
「昨日のことでしょう?」
「もちろんです」
やっぱり……
「もう大丈夫ですって」
「まだ何も診ていません」
「でも――」
「ミキ様」
穏やかな笑顔を浮かべているのに、反論を許さない目をしている。
(この人もマルガレーテさんと同じタイプだ)
勝てない。
「分かりました」
私は大人しく椅子へ座った。グレンジャー様はいつものように脈を診てから、診察魔法を使う。淡い緑色の光が、私の身体を包み込んだ。
「ふむ……」
「どうです?」
「今のところ異常はありません」
「ほら」
「ですが、昨日は一時的に意識が途切れています」
「倒れただけですよ?」
「それを普通のことのように言わないでください」
「……はい」
グレンジャー様は小さくため息をついた。
「エドワードからも聞きました。白い鳥が見えたそうですね」
「はい」
「他の人には見えなかった」
「そうみたいです」
「声も聞こえた」
「はい」
「何と?」
「『見つけた』って」
グレンジャー様が黙り込む。
やっぱり、何か知っている。
昨日から感じていた。ローグ様も、レオンハルト様も、そして今のグレンジャー様も……
「グレンジャー様」
「はい?」
「何か隠してます?」
一瞬、彼の目が止まった。
(ほら)
「何も――」
「『何でもありません』は禁止です」
先回りすると、グレンジャー様は吹き出した。
「先手を取られましたね」
「笑ってごまかしても駄目ですよ。何か分かってるんでしょう?」
少し声を落として尋ねる。
「私のこと……」
グレンジャー様の表情から笑みが消えた。しかし、すぐにいつもの優しい顔へ戻る。
「まだ、『分かった』と言えることは何もありません」
「……」
「ただ、エドワードが古い記録を調べています」
「私に関係する?」
「可能性はあります」
「じゃあ――」
「ですが」
グレンジャー様は静かに続けた。
「今お話ししても、不安を増やすだけの情報しかありません」
それは、たぶん嘘ではない。
「分かったら、教えてくれます?」
「もちろんです」
「絶対?」
「はい」
少し考えてから、私は頷いた。
「じゃあ、待ちます」
グレンジャー様が少し驚いた顔をする。
「もっと聞かれるかと思いました」
「聞きたいですよ」
「では、なぜ?」
「……一人で全部やらないようにしようと思って」
自分でも、言ってから驚いた。
日本にいた頃の私なら、自分のことは自分で調べようとした。人に任せて待つなんて、きっとできなかっただろう。
「ローグ様が調べてくれてるんでしょう?」
「はい」
「グレンジャー様も心配してくれてる」
「もちろんです」
「なら……今は任せてもいいのかなって」
口にすると、胸が少し軽くなった。
グレンジャー様はしばらく私を見つめ、それからとても優しく笑った。
「大きな進歩ですね」
「……何がですか」
「こちらの話です」
「何それ」
そう思いながらも、不思議と嫌な感じはしなかった。
*
診察と朝食を終えても、午前中の予定は入っていなかった。
「……暇」
ソファに座りながら呟く。
昨日までは講義や魔法の練習など、いろいろ予定があった。だから何もないと、途端に何をすればいいのか分からなくなる。
「ミキ様、何かされたいことはございますか?」
リゼットさんに尋ねられ、私は少し考えた。
本を読むのもいい。庭園へ行くのもよさそうだけれど、昨日倒れたばかりだから、たぶん許してもらえない。
「何か……手を動かしたい」
「手を?」
「はい、編み物とか…」
「アミモノ?」
ニーナちゃんが首を傾げる。
「こっちにもあるのかな。糸をこう……棒で編んでいくの」
手を動かしながら説明すると、リゼットさんが頷いた。
「編み針を使って布地を作るものでしょうか?」
「そう! それです!」
嬉しくなって身を乗り出す。
「あるんですね?」
「ございます。庶民の家庭では衣類や靴下などを編む方も多いですし、刺繍と同じく貴族のご令嬢が嗜まれることもございます」
「やったぁ!」
思わず両手を合わせた。
「毛糸とかあります?」
「すぐにお持ちいたしましょうか?」
「本当に? お願いします!」
急に嬉しくなる…
編み物が好きだった。忙しくなる前は、家事を終えたあと、テレビを見ながら少しずつ編んでいた。形になっていくのを見るのが楽しかったし、何も考えず、一目ずつ手を動かしている時間が好きだった。
*
それから一時間ほどして、私の前には色とりどりの毛糸が並んでいた。
赤、青、生成り、深い緑、黄色、淡い紫。
「うわぁ……綺麗!」
「城下の商人から、いくつか取り寄せていただきました」
「こんなに?」
「どのお色がお好みか分かりませんでしたので」
「ありがとうございます!」
一本手に取る。柔らかく、少し太めの毛糸だった。ウールに似た感触で、触れているだけでも懐かしい気持ちになる。
「編み針もございます」
木製の編み針を手にすると、自然と指が動きそうになった。
「懐かしい……」
「何を作られるのですか?」
ニーナちゃんが興味津々で覗き込む。
「久しぶりだから、簡単なものがいいかな」
スカーフ、靴下、手袋。いろいろ思い浮かんだけれど、まずは小さなものから始めることにした。
生成りの毛糸を手に取り、赤を少し加える。
最初はぎこちなかったものの、数段進む頃には指が感覚を思い出していた。
「ああ……これこれ」
自然と笑みがこぼれる。
「ミキ様、とてもお上手です」
ニーナちゃんが感心したように見つめている。
「ありがとう。でも昔はもっと編んでたのよ」
「ニホンで?」
「うん」
一目、また一目と毛糸を拾う。
手を動かしていると、心が静かになった。白い鳥のことも、自分の力のことも、分からないことは山ほどある。でも今だけは、何も考えなくていい。
(こういう時間……好きだったな)
ふと、胸が少しだけ切なくなった。
私は、編み物をする時間すら、いつの間にかなくしていたのだ。
*
「……何をしているのです?」
低い声が聞こえて顔を上げると、レオンハルト様が扉のところに立っていた。
「あ」
「お帰りなさい」
反射的にそう言ってから、自分で引っかかった。
お帰りなさい?
何で?
別に、ここは私たちの家ではない。
(……何言ってるの、私)
けれど、レオンハルト様は少し驚いた顔をしたあと、静かに答えた。
「……ただいま戻りました」
「……」
「……」
何だろう、この空気……
急に恥ずかしくなり、私は誤魔化すように手元を見せた。
「編み物です」
レオンハルト様が近づいてくる。
「編み物?」
「はい。こちらにもあるって聞いて」
「なるほど」
彼は私の向かいに立ったまま、編みかけのものを見つめた。
「何になるのです?」
「まだ決めてません」
「決めずに始めるのですか?」
「いいんです。編みながら考えるのも楽しいから」
「そういうものですか」
「そういうものです」
そう答えて再び手を動かす。しかし、視線を感じて顔を上げた。
「レオンハルト様」
「はい」
「ずっと見てる?」
「……邪魔でしたか?」
「いや、そうじゃなくて……」
何だか照れてしまう。
「そんなに珍しいです?」
少し考えてから、彼は答えた。
「いえ、楽しそうだと思って…」
「私が?」
「はい」
また、そんな言い方をする。
「編み物、好きなんです」
私は毛糸へ視線を落とした。
「昔はよくやってたんですけど、忙しくなってからはほとんどできなくなって」
「……そうですか」
「でも、またできるとは思わなかったなぁ」
笑いながら呟く。
「何作ろうかな」
そう考えていると、なぜかレオンハルト様の手が目に入った。
大きな手。剣を握るからだろうか、指にはところどころ硬そうな部分がある。
「……寒くないですか?」
「何がです?」
「手」
「手?」
「騎士って冬も外にいるでしょう?」
「もちろんです」
「手袋とかする?」
「戦闘時は革製のものを」
「ふーん」
再び毛糸へ目を向ける。
その中に、深い蒼色の毛糸があった。
(……この色)
レオンハルト様の瞳に似ている。
何となく手に取ると、彼がこちらを見た。
「ミキ様?」
「何でもありません!」
思わず声が大きくなる。
レオンハルト様が首を傾げた。
(何考えてるの、私)
まだ何も決めていない。ただ、この色が綺麗だと思っただけだ。
*
しばらくして、私は毛糸から顔を上げた。
「ところで」
「はい?」
「昨日のお兄さんの話」
その瞬間、レオンハルト様の表情が微妙に変わった。
(あ)
やっぱりだ。
「何です、その顔」
「何も」
「絶対何かある」
「ありません」
「お兄さんの話をしたら、昨日もそんな顔をしてた」
「……そうでしょうか」
「そうですよ」
少し面白くなってきた。
「どんな人なんです?」
「兄上ですか?」
「はい」
「……私より社交的で、人当たりの良い人です」
「へぇー」
「剣も扱いますが、植物や薬草にも詳しい」
「すごいですね」
「そうですね」
声が少し素っ気ない。
「もしかして」
「はい?」
「お兄さんと仲が悪い?」
「まさか」
それだけは即答だった。
「尊敬しています」
「じゃあ、何で?」
「何がです?」
「私がお兄さんのことを聞くと、ちょっと機嫌が悪くなるの?」
レオンハルト様は黙り込んだ。
「ほら」
「……気のせいです」
「またそれ!」
思わず笑ってしまう。
「もしかして、ヤキモチ?」
本当に冗談だった。軽く言っただけなのに、レオンハルト様は黙り込んだ。
「……」
「……え?」
何、その反応。
「レオンハルト様?」
「任務に戻ります」
「えっ!?ちょっと待って!」
「部屋の外におります」
「いやいや、今の答え!」
「失礼します」
「レオンハルト様!」
扉が閉まる。残された私は、ゆっくりエミリアさんへ視線を向けた。
「……何?」
エミリアさんは口元を押さえている。
「エミリアさん」
「はい」
「今の……」
「何でございましょう?」
「絶対分かってるでしょう!」
「わたくしから申し上げることではございませんので」
「ずるい!」
リゼットさんまで、少し笑っている。
「もう……」
私は編みかけのものへ視線を戻した。その隣には、深い蒼色の毛糸がある。
「……ヤキモチって」
ないよね?
でも、もしそうなら、どうして逃げたのだろう。
胸がまた、変な音を立て始めた。
(もうーー!)
編み物で心を落ち着けるはずだったのに。
*
その頃、部屋の外では、レオンハルトが扉を閉めたまま深く息を吐いていた。
「……何をしているんだ、俺は」
冗談だと分かっている。
ただ、兄の話をするミキが楽しそうだった。会ってみたいと言った。それだけのことなのに、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
そして、『もしかしてヤキモチ?』という言葉に、図星を突かれたような気がして逃げてしまった。
騎士団の副団長ともあろう者が、一人の女性から……
「……情けない」
眉間を押さえる。
しかし次の瞬間、別の言葉を思い出した。
『お帰りなさい』
あの一言が、なぜかずっと心に残っている。
帰る場所…待っている人……
そんなものを、今まで考えたことはなかった。任務が終われば自分の部屋へ戻る…それだけだった。
なのに、あの扉を開けた時、自分を見て嬉しそうに笑ったミキがいた。
『お帰りなさい』
口元が少し緩む。それに気づき、レオンハルトはまた深いため息をついた。
「重症だな……」
自分で初めて、そう思った。
*
一方、魔法師団の資料室では、エドワードとベルンが古い文献を調べ続けていた。
「これを見ろ」
エドワードが一冊の書物を開く。
「何です?」
「建国期の記録だ」
そこには、王国創成期に起きた大規模な魔物の襲撃について書かれていた。
『天より白き光降りし時、災厄は退けられた』
「白い光……」
ベルンが呟く。
「続きがありますね」
『光の中心に立ちし者、その手にて傷つきし者を癒やし――』
文章はそこで途切れていた。次のページが切り取られている。
二人は顔を見合わせた。
「またか」
「あまりにも不自然ですね」
別の書物を開く。同じ時代の記録にも、『白き翼』
『天より来たりし者』、そして『守り人』という言葉が残されていた。
今度は、はっきりと読める。
「……見つけた」
エドワードが呟く。
ベルンが、その先を読み上げた。
『守り人は、国に災厄訪れし時、白き翼の導きにより現れる者なり』
さらに、その下にはこう続いている。
『その力は傷を癒やし、穢れを払い、魔を――』
しかし、そこから先はまた切り取られていた。
「意図的ですね」
「ああ」
「誰かが守り人についての記録だけを消した」
「それも徹底的にな」
エドワードは険しい表情で、切り取られたページを見つめる。
ただ、一つだけ、これまでの記録とは違う文章が残っていた。ページの一番下に、小さな文字で記されている。
『守り人を恐れるな』
「……」
ベルンが読み上げた。
「『恐るべきは、その力を欲する者なり』」
部屋が静まり返る。
エドワードの顔から、わずかな迷いが消えた。
「……そういうことか」
「少なくとも、守り人自身が災厄だったわけではなさそうですね」
ベルンの言葉に、エドワードは頷いた。
ならば、なぜ目覚めさせるなという声があったのか。
誰が守り人の記録を消したのか。
そして、その力を誰が欲したのか。
エドワードは古いページを見つめた。
「急いだ方がいいかもしれないな」
「ええ」
二人はまだ知らなかった。
同じ頃、王都の外に広がる深い森の中で、黒い影が静かに目を開いたことを。
*
その日の夜、私はベッドへ入る前に机の上を見た。
深い蒼色の毛糸…
結局、編みかけのものとは別に、少しだけ取り分けてしまった。
「……何作るのよ」
自分で自分に問いかける。答えはまだ決めていない。
ただ、何となく、あの大きな手に何か作れたらと思っただけだ。
「……いやいや」
首を横に振る。
「まだ何にも決めてないから!」
誰に言い訳しているのだろう。
深い蒼色の毛糸に触れながら、今日、逃げるように部屋を出ていった銀色の髪を思い出す。
『もしかしてヤキモチ?』
「……」
まさかね。
でも、もし本当に少しだけそうだったら。
「……嬉しいかも」
口にした瞬間、自分で固まった。
「……え?」
今、私、何て言った?
慌てて毛糸を引き出しへしまう。
「寝よう!」
もう考えない。今日は寝る。
そう決めてベッドへ潜り込んだものの、なかなか眠れなかった。
胸の奥が、ずっと温かかったから……




