10 少しずつ、この世界で
「守り人……なのか?」
エドワードの呟きが、静かな執務室に落ちた。
目の前の机には、多色の光を残したままの魔石と、古い王国史から写し取った一枚の紙が置かれている。
『――災厄の時、白き翼と共に現れし者を――』
そして、その端には、かろうじて文字が残っていた。
『守り――』
昨夜、白い羽に触れた瞬間に見えた光景が、まだ頭から離れない。燃える城、血に濡れた石畳、崩れ落ちる白い翼。そして――
――守り人を、決して目覚めさせるな
「あれは何なんだ……」
あれが記憶なのか、幻なのか、それすら分からない。
ただ一つ確かなのは、ミキが現れてから、何百年も眠っていた何かが少しずつ動き始めているということだった。
*
「それで、朝一番に私を呼び出したと?」
翌朝、エドワードの執務室で、ベルン・グレンジャーは呆れたように目の前の男を見ていた。
「仕方ないだろう」
「昨夜は何時まで調べていたんです?」
「さあな」
「……寝ましたか?」
「少しは」
ベルンは深いため息をついた。
「あなたもミキ様のことを言えませんね」
「ミキと一緒にするな」
「何が違うのです?」
「私は自分の限界を知っている」
「そう言う人ほど信用できません」
「お前は私の医師か?」
「必要なら診ますよ」
「いらん」
「そうですか」
ベルンはそれ以上追及せず、机の上へ視線を落とした。
「それで?」
エドワードは、昨夜の出来事を説明した。魔石のこと、古文書のこと、白い羽のこと。そして、羽に触れた瞬間に見えた光景のこと。
話を聞き終える頃には、ベルンの表情からいつもの柔らかな笑みが消えていた。
「……『守り人を目覚めさせるな』ですか」
「ああ」
「その守り人が、ミキ様だと?」
「まだ分からない」
「ですが、疑っている」
「……ああ」
エドワードは椅子に深く腰掛けた。
「古代語を読める、白い鳥に反応する、あの魔力量。それに、森で魔物を消した白い光」
「そして、『帰ってきた』と言われた」
「ああ」
偶然と片づけるには、もう多すぎる。
「ミキ様には?」
「まだ言わない」
ベルンはすぐに答えた。
「同感です」
エドワードは少し意外そうに彼を見る。
「お前なら、本人に話すべきだと言うと思ったが」
「もちろん、いずれは」
ベルンは静かに答えた。
「ですが、今は情報が少なすぎます。『あなたは数百年前の伝承にある何かかもしれません』などと言われても、ミキ様を不安にさせるだけでしょう」
「そうだな」
「それに……」
ベルンの声が少しだけ低くなる。
「昨夜の言葉が気になります」
「目覚めさせるな、か」
「はい。もし守り人という存在が、この国にとって救いではなかったとしたら? あるいは、救いであるからこそ、誰かが目覚めることを恐れたのだとしたら?」
「調べる必要があるな」
「そうですね」
エドワードは頷いた。
「ただし、この件を知る者は最低限にする」
「レオンハルトには?」
「……話す」
ベルンが少し笑った。
「即答ですね」
「ミキの護衛だ。当然だろう」
「そういうことにしておきます」
「何だ、その言い方は」
「何でもありません」
「お前までそれを使うな」
ベルンは、くすっと笑った。
*
一方、そんな重大な話がされているとは知らない私は、朝から目の前に並べられた服を見て、首を横に振っていた。
「……無理です」
「ミキ様」
マルガレーテさんが穏やかな声で呼びかける。
「無理です」
「まだ何も申し上げておりませんよ」
「分かりますよ! これを着るんでしょう?」
ソファの上に置かれているのは、どう見てもドレスだった。
淡い水色の生地には小さな花の刺繍が入り、裾はふわりと広がっている。とても綺麗で、見るだけなら好きだ。でも…
「転びます」
「転ばれません」
「絶対に裾を踏みます」
「それほど長い裾ではございません」
「締め付けるものもありますよね?」
「コルセットのことでしょうか?」
「それです!」
「きつく締める予定はございません」
「予定は、って言いましたよね!」
エミリアさんが横を向いている。絶対に笑っている。
「今日から簡単な礼儀作法も学んでいただくことになっておりますので」
「ワンピースでいいじゃないですかぁ」
「正式な場でのお召し物にも、少しずつ慣れていただかなければなりません」
「正式な場?」
「いずれ陛下へご挨拶いただく可能性もございます」
「……陛下」
王様……すっかり忘れていた。
私、王城にいるんだった。
「……着ます」
「よろしい」
マルガレーテさんは満足そうに頷いた。
(この人には勝てない)
最近、少しずつ分かってきた。
*
着替えを終え、鏡の前に立つ。
「……誰?」
思わず呟いた。
淡い水色の髪は、エミリアさんが綺麗に結ってくれている。一部は編み込まれ、そこに小さな白い花が飾られていた。淡い青のドレスも相まって、まるで別人のようだ。
「すご……」
「とてもお似合いでございます」
リゼットさんが微笑む。
「本当に?」
「はい」
「こういう服を着たことがないから、落ち着かないなぁ」
腰の辺りに触れていると、ニーナちゃんが目を輝かせた。
「ミキ様、とてもお綺麗です!」
「ありがとう、ニーナちゃん」
「本当にお姫様みたいです!」
「いやいや、それはない」
私は即答した。
「私、庶民よ?」
「ですが――」
「ニーナ」
マルガレーテさんが優しく制止する。
「はい」
何だろう。続きが気になる。
けれど、聞いてはいけない雰囲気だった。
「では、参りましょう」
「はい」
部屋を出ると、廊下で待っていたレオンハルト様を見て、私は思わず足を止めた。
「おはようございます……」
「おはようございます、レオンハルト様」
いつもの騎士服、銀色の髪、深い蒼色の瞳。
けれど、今日は何かが違った。レオンハルト様が、ものすごく私を見ている。
「……?」
私を見たまま、何も言わない。
「レオンハルト様?」
「……」
「どうしました?」
彼は、はっとしたように瞬きをした。
「あ……いえ」
「何ですか?」
「その……」
視線が一度、私の頭から足元まで動く。
(え? 変?)
不安になって、自分の服を見下ろした。
「どこかおかしいですか?」
「違います」
今度は即答だった。
「では?」
「……」
また黙ってしまう。そして、少しだけ横を向いた。
耳が赤い……
(あ)
分かった!!
「暑いんですね?」
「……違います」
初めて否定された。
「え?」
では、何なのだろう。
「ミキ様」
レオンハルト様は一度息を整えるようにしてから、こちらを見た。
「とても……よくお似合いです」
「……」
今度は私が固まった。
「え?」
「その衣装が」
「……」
「よく、お似合いです」
二回も言われた。
やめて……二回も言わないで余計に恥ずかしいから!
「あ、ありがとうございます……」
声が小さくなる。顔が熱い。たぶん、私も耳まで赤くなっている。
(何これ)
昨日は私がレオンハルト様を照れさせて、今日は私がやられている。
ちらりと見ると、レオンハルト様もまだ少し赤い。
(……お互い、何をしているのよ)
その横で、エミリアさんがものすごく満足そうな顔をしていた。
*
午前中は、王宮での礼儀作法を教えてもらった。
歩き方、座り方、お辞儀の仕方、身分の高い人への挨拶、食事の作法。覚えることが多すぎる。
「……覚えること、多い」
休憩になった瞬間、テーブルに突っ伏したい気持ちを必死で我慢した。
「姿勢」
マルガレーテさんの視線がこちらに向いている。
「はい」
私は背筋を伸ばした。
「日本って楽だったなぁ」
小さく呟くと、すぐに声が返ってくる。
「何か?」
「いえ!」
怖い……
いや、優しいのだ。ものすごく優しいのだけれど、妥協がない。
「ミキ様は覚えがお早いですよ」
リゼットさんが慰めてくれる。
「本当に?」
「はい」
「良かったぁ」
「ただ……」
「ただ?」
「お辞儀が深すぎます」
「あ……」
日本で身についた癖だ。
「こちらでは、ミキ様ほどのお立場の方が誰にでも深く頭を下げる必要はございません」
「私ほどのお立場?」
何それ?
「私、居候みたいなものですよね?」
四人の表情が微妙になった。
「……違う?」
「その辺りについては、ローグ様からお話があるかと」
「またローグ様?」
何か、みんな私に隠していない?
「まあ、いいか」
今聞いても教えてくれないだろう。そう思いながら、お茶へ手を伸ばした。
*
午後は、少し気分転換を兼ねて庭園へ出ることになった。もちろん、エミリアさんとレオンハルト様も一緒だ。
「本当に一人で大丈夫なのに」
「駄目です」
「まだ何も言っていませんよ?」
「顔に書いてありました」
「……最近、みんな私の顔を読みすぎです」
レオンハルト様が小さく笑う。
庭園には、色とりどりの花が咲いていた。知らない花も多いけれど、どれも綺麗だ。
「すごい……」
ゆっくり歩きながら、昨日窓から見た庭園を思い出す。実際に歩いてみると、思っていたよりずっと広かった。
「これ、何ていう花ですか?」
しゃがみ込んで、薄い紫色の小さな花を指差す。
「ルミエラです」
レオンハルト様が答えた。
「レオンハルト様、花の名前が分かるんですね」
「……意外ですか?」
「少し」
「兄が植物に詳しいので」
「お兄さんがいるんですか?」
「はい」
へぇ…レオンハルト様のお兄さんは、どんな人なのだろう。
「似ていますか?」
「……どうでしょう」
「レオンハルト様みたいに銀髪?」
「少し色は濃いですが」
「瞳は?」
「紫がかった青です」
「へぇー」
やっぱり、兄弟揃ってイケメンだったりするのかな。
(いやいや、何でそこが気になるのよ)
「いつか会える?」
何気なく尋ねると、レオンハルト様の眉がほんの少し動いた。
「……会いたいのですか?」
「え?」
何だか、声が少し低くなった気がする。
「いや、レオンハルト様のお兄さんなら、どんな人なのかなって」
「……そうですか」
「はい」
「いずれ会う機会はあると思います」
「楽しみ」
そう言った瞬間、また彼の眉が動いた。
(何?)
「レオンハルト様」
「はい」
「何か怒ってる?」
「怒っていません」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、その顔は?」
「……何でもありません」
出た。
「またそれ!」
私が笑うと、レオンハルト様は少し困ったように視線を逸らした。
*
庭園の奥へ進んでいく。風が気持ちよく、花の香りと鳥の声が心地よかった。
こんなにゆっくり歩いたのは、いつぶりだろう。
日本にいた頃は、いつも急いでいた。仕事、買い物、家事、介護。常に次にやることを考えていて、立ち止まって花を見ることなんて、ほとんどなかった気がする。
「……綺麗だなぁ」
ぽつりと呟くと、レオンハルト様が尋ねた。
「何がです?」
「全部」
私は庭園を見渡した。
「こんなふうに何も考えずに歩くの、久しぶりだなと思って」
レオンハルト様は、何も言わずに聞いている。
「前の世界では、いつも時間に追われていました。あれをして、これをして、その次はこれって」
「……」
「だから、こういう時間って……贅沢ですね」
自分で言って、少し寂しくなった。
五十五年間、私は何をそんなに急いでいたのだろう。もっと立ち止まってもよかったのかもしれない。
その時、隣から小さな声が聞こえた。
「これからは」
見ると、レオンハルト様が前を向いたまま言った。
「急がなくてもいいのではないですか」
「……」
「少なくとも、この国では」
深い蒼色の瞳が、私を見る。
「立ち止まって花を見ても、誰も責めません」
胸の奥が、きゅっとした。
「……そうですね」
「はい」
「じゃあ」
私は少し笑った。
「いっぱい寄り道してもいい?」
レオンハルト様の表情が、ほんの少し柔らかくなる。
「お望みなら」
「ふふっ」
優しいなぁ。本当に、この人は優しい。
そして今度は、胸がきゅっとしても、その理由を考えないことにした。
*
その時だった。
――ぱさっ。
羽音が聞こえた。
「……?」
足を止め、庭園の奥にある大きな木を見上げる。枝の上に、一羽の白い鳥が止まっていた。
「……あ」
あの鳥だ。
森で、図書室で、何度も見た白い羽と金色の瞳…今までとは違い、今日ははっきりと姿が見える。
「レオンハルト様」
「はい?」
「鳥……」
指差すと、レオンハルト様もそちらを見た。
「……どこです?」
「え?」
「鳥ですか?」
「そこ!」
枝の上に、確かにいる。
「エミリアさん?」
「申し訳ございません、ミキ様。私にも見えません」
「見えない?」
二人が頷く。
「……」
私にしか見えていないのだろうか。
白い鳥と目が合う。金色の瞳が、まっすぐこちらを見つめている。そして……
『ミキ』
今度は、はっきり聞こえた。
「……!」
『見つけた』
胸の奥が熱くなる。
「あなた……」
思わず一歩進む。
「ミキ様?」
レオンハルト様の声が聞こえた。
けれど、止まれなかった。
白い鳥が翼を広げる。
その瞬間、世界が光に包まれた。
*
「ミキ!」
誰かの声が遠くに聞こえる。
「ミキ様!」
身体がふわりと浮いた。……違う、支えられている。
目を開けると、すぐ近くに蒼い瞳があった。レオンハルト様が、ものすごく焦った顔をしている。
「大丈夫ですか!?」
「……はい?」
状況が分からない。
私は、レオンハルト様の腕の中にいた。
また…
「私……倒れた?」
「突然、力が抜けました」
「……」
覚えている。白い鳥、光、そして見つけたという声…
「鳥……」
見上げると、枝にはもう何もいなかった。
「いない……」
「何が見えたのです?」
レオンハルト様が、私の身体を支えたまま尋ねる。
「白い鳥です」
「……」
「金色の目で」
「……」
「『見つけた』って」
レオンハルト様の表情が変わった。エミリアさんも、ただならぬ様子でこちらを見ている。
「ローグ様へ連絡を」
「はい!」
エミリアさんは、すぐに走っていった。
「あの……」
「何ですか?」
「下ろしてもらっても……」
言いながら、ようやく気づいた。私、抱き上げられている。完全に、お姫様抱っこだ。
「……」
顔が一気に熱くなる。
「歩けます!」
「駄目です」
「でも!」
「また倒れたらどうするのです」
「大丈夫ですって!」
「その言葉は信用しません」
「ひどい!」
「何とでも」
レオンハルト様は、降ろしてくれない。
「レオンハルト様!」
「静かにしてください」
「恥ずかしいんです!」
「……」
一瞬、彼の足が止まった。
「……すみません」
「え?」
「ですが」
抱く腕に、少しだけ力が入る。
「我慢してください」
耳が赤い。
(……そっちも恥ずかしいんじゃん)
そう思うと、少しだけおかしくなった。
「ふふっ」
「……何ですか?」
「何でもありません」
今度は、私がその言葉を使った。レオンハルト様は少し困った顔をして、それから小さく笑った。
*
「見つけた、か」
報告を聞いたエドワードは、しばらく何も言わなかった。ミキはベルンの診察を受けるため、すでに部屋へ戻されている。目の前には、レオンハルトが立っていた。
「間違いないのか?」
「ミキ様は、そう仰いました」
「鳥は見えなかった?」
「私にもエミリアにも見えませんでした」
「……そうか」
エドワードは、机の上に置かれた古文書へ目を向けた。
『守り――』
昨夜、そこまで読めた。
そして、羽に触れた時に聞こえた声。
――守り人を、決して目覚めさせるな。
見つけた。帰ってきた。目覚めよ。
すべて同じ存在が、ミキへ向けている言葉なのだろうか……
「ローグ殿」
レオンハルトの声が、静かな部屋に響く。
「何だ?」
「何か分かっているのですか?」
「……まだ確証はない」
「それでも」
レオンハルトの表情は、いつもより険しかった。
「ミキ様に危険があるなら、私は知る必要があります」
エドワードは、しばらく彼を見つめた。
「お前」
「はい」
「ずいぶん入れ込んだな」
「……護衛ですので」
「そうか」
「はい」
「なら」
エドワードは、一冊の古い本を差し出した。
「これを見ろ」
レオンハルトが本を開く。途中には、何枚ものページが意図的に切り取られていた。
「これは?」
「数百年前の王国史だ」
残っている文字は、『白き翼』『災厄』『守り――』
「私は、ミキが数百年前の記録にある存在と関係している可能性を疑っている」
エドワードは低い声で言った。
「……何という存在です?」
一瞬、迷う。そして、エドワードは答えた。
「守り人」
部屋が静まり返った。
「守り人……」
レオンハルトが、その言葉を繰り返す。
「まだミキには言うな」
「なぜです?」
「この記録の中に」
エドワードは、昨夜見た光景を思い出した。
「守り人を『目覚めさせるな』と警告するものがある」
「……」
レオンハルトの蒼い瞳が鋭くなる。
「誰が?」
「分からない」
「なぜ?」
「それも分からない」
エドワードは深く息を吐いた。
「だから、調べる」
そして、レオンハルトを見る。
「それまでは、ミキから目を離すな」
返事はすぐに返ってきた。
「承知しました」
その声に、迷いはなかった。
*
その夜、私はベッドに横になりながら、今日のことを思い出していた。
白い鳥、見つけたという言葉。あれは、何を意味しているのだろう。少し怖い。でも、それ以上に気になる。そして、なぜかそのあとには、いつも別のことを思い出してしまう。
お姫様抱っこ……
「……」
布団で顔を隠す。
「何でそっちを思い出すのよ!」
もっと大事なことがあるでしょう。白い鳥、謎の声、光。考えるべきことは、いくらでもある。
なのに、浮かんでくるのは、あの低い声だった。
『我慢してください』
大きな腕、近かった顔、赤い耳……
「……」
駄目だ。
「キュンキュンする……」
また言ってしまった。
その時、窓の外で小さな羽音がした。
――ぱさっ
私は顔を上げる。カーテンの向こう、月明かりの中に白い鳥がいた。金色の瞳が、一瞬だけこちらを見つめる。今度は、声は聞こえなかった。
ただ、白い鳥は安心したようにゆっくり目を細めると、夜空へ飛び立っていった。
私は、なぜだかその姿を見ても、怖いとは思わなかった。
むしろ、ずっと待っていてくれた誰かに、ようやく会えたような気がした。




