路傍の石
「路傍の石、下がれ!」
声が飛ぶ。
田辺は聞こえていた。
だが、下がれなかった。
黒い具足をまとった小柄な男が、土俵際で必死に踏ん張っている。
田辺俊之、五十二歳。
身長百六十六センチ。
体重五十九キロ。
運動経験なし。
格闘技経験なし。
地下武者格闘では、エンジョイクラスに所属している。
目の前の相手は、田辺より一回り大きい。
開始から三分も経っていない。
それなのに、もう息が上がっていた。
黒い具足の内側は熱い。
額から汗が流れる。
相手が前へ出る。
田辺は両腕を上げた。
拳が飛んできた。
避け方など知らない。
具足の肩にまともに当たる。
ゴン。
身体が横へ流された。
観客から声が上がる。
怖い。
痛い。
逃げたい。
それなのに。
兜の奥で、田辺は笑っていた。
二十年。
田辺の人生は、ほとんど同じだった。
朝六時半に起きる。
支度をする。
電車に乗る。
会社へ行く。
仕事をする。
帰る。
寝る。
中堅メーカーの部長。
肩書きだけを聞けば、それなりの人生に見える。
部下もいる。
給料も悪くない。
住宅ローンもあと数年で終わる。
だが、もう先は見えていた。
役員にはなれない。
これ以上の出世も、おそらくない。
定年まで部長を続けるか。
その前に役職を外されるか。
それだけだ。
家に帰っても、自分の居場所があるようでない。
妻には妻の生活がある。
子供も大きくなった。
家族仲が悪いわけではない。
ただ、田辺がいなくても家は普通に回る。
休日になっても、やることがない。
趣味もない。
熱中しているものもない。
昼まで寝る。
テレビを見る。
たまに近所を歩く。
会社帰りに焼き鳥屋へ寄ることだけが、少し楽しみだった。
ビール。
焼き鳥。
それで一日が終わる。
そんな生活を二十年近く続けていた。
不幸だとは思わなかった。
だが、楽しいかと聞かれれば答えに困った。
何も起きない。
ただ時間だけが過ぎていく。
佐川と出会った夜も、焼き鳥屋からの帰りだった。
少し酔っていた。
駅前で四人組の男と肩がぶつかった。
田辺はすぐに頭を下げた。
「すみません」
それで終わるはずだった。
「何?」
一人が肩を押してきた。
「いや、すみませんって」
「聞こえねえんだけど」
もう一度押される。
普段の田辺なら、さらに頭を下げていただろう。
面倒事は避ける。
それが大人だと思っていた。
だが、その日はなぜか違った。
「謝っただろ」
口から出た。
自分でも驚いた。
次の瞬間、腹を殴られた。
息が詰まる。
顔にも一発入った。
倒れる。
蹴られる。
四対一。
勝てるはずがない。
そんなことは田辺にも分かっていた。
それでも。
田辺は一人の男の足にしがみついた。
「離せよ!」
蹴られる。
田辺は離さない。
「なんだよこいつ!」
頭を殴られる。
それでも離さない。
相手が足を振る。
田辺の身体が地面を引きずられる。
それでも両腕を緩めなかった。
なぜそんなことをしたのか。
自分でも分からない。
勝てるとは思っていなかった。
四人を倒してやろうとも思っていない。
ただ。
離したくなかった。
ここで手を離したら、またいつもの自分に戻る。
なぜか、そんな気がした。
通行人が警察を呼んだ。
四人は逃げた。
田辺は道路脇に座り込んでいた。
唇から血が出ていた。
シャツのボタンも一つ飛んでいる。
「大丈夫か?」
知らない男が立っていた。
五十代くらい。
落ち着いた雰囲気の男だった。
「……大丈夫に見えます?」
田辺が言うと、男は笑った。
「見えないな」
田辺も笑った。
切れた唇が痛んだ。
男は隣にしゃがんだ。
「四人いたのに、よく離さなかったな」
田辺が男を見る。
「見てたんですか」
「ああ」
「助けてくださいよ」
「警察には連絡した」
「そうですか」
男は少し黙った。
「怖くなかったのか?」
「怖かったですよ」
「なら、なぜ離さなかった?」
田辺は考えた。
自分でも答えが分からない。
「……離したら、負ける気がして」
男の目つきが変わった。
「勝てると思ってたのか?」
「まさか」
田辺は笑った。
「四人ですよ」
「じゃあ、何に負ける?」
田辺は答えられなかった。
男は立ち上がった。
ポケットから黒いカードを取り出す。
書かれていたのは電話番号だけだった。
「興味があったら電話してくれ」
田辺はカードを見る。
「何の?」
男は答えない。
「名前くらい教えてくださいよ」
男は少し笑った。
「佐川」
それだけ言って、人混みへ消えていった。
田辺は三日間、そのカードを財布に入れていた。
怪しい。
どう考えても怪しい。
捨てようと何度も思った。
四日目。
仕事を終え、帰りの電車に乗った。
今日も昨日と同じ一日だった。
部下の資料を見る。
会議に出る。
決裁する。
メールを返す。
帰る。
明日も同じだろう。
来週も。
来月も。
来年も。
田辺は財布を開いた。
黒いカードを取り出した。
そして、電話をかけた。
数日後。
田辺は佐川と向かい合っていた。
テーブルの上にはタブレットが置かれている。
画面には、黒を基調とした専用サイトが表示されていた。
「審査は通った」
佐川が言った。
「今日から君も会員だ」
田辺は画面を見る。
見慣れない名前がいくつも並んでいる。
「まずユーザーネームを決めてもらう」
「本名じゃないんですね」
「使いたければ止めない。だが、ほとんどの人間は別の名前を使う」
佐川がタブレットを差し出した。
「何にする?」
田辺は入力欄を見つめた。
会社では田辺部長。
家では父親。
それ以外の自分など、考えたこともなかった。
しばらく黙ったあと、口を開く。
「……路傍の石」
佐川が眉を上げた。
「路傍の石?」
「はい」
「ずいぶん地味だな」
田辺は苦笑した。
「道端に転がってる石ですよ」
佐川は黙って聞いている。
「誰も見ない。誰も気にしない。そこにあってもなくても、誰も困らない」
少し間を置く。
「今の自分には、ちょうどいいかなと」
佐川は数秒、田辺を見た。
やがて小さく笑った。
「そうか」
タブレットを指す。
「なら入力しろ」
田辺は文字を打つ。
《路傍の石》
登録。
画面に、その名前が表示された。
佐川が立ち上がる。
「いい名前じゃないか」
「そうですか?」
「ああ」
佐川は田辺を見る。
「石はな、案外しぶとい」
そして今。
田辺は黒い具足を着て土俵に立っている。
《路傍の石》
自分で選んだ名前が、観客から呼ばれている。
「路傍の石、下がれ!」
相手が再び前へ出る。
田辺も下がる。
土俵際。
これ以上は下がれない。
相手が勢いよく踏み込んできた。
怖い。
やっぱり怖い。
拳をまともに受ける。
黒い具足が鈍い音を立てた。
身体が揺れる。
だが倒れない。
相手がさらに押し込んでくる。
その瞬間。
田辺は相手の腰へ両腕を回した。
技術などない。
ただ、しがみつく。
あの夜と同じだった。
「うおっ」
相手が体勢を崩す。
田辺は押した。
足に力を入れる。
押す。
相手も押し返してくる。
身体が軋む。
肺が痛い。
視界が滲む。
腕の力が抜けそうになる。
それでも離さない。
離さない。
離さない。
相手が田辺の背中を叩く。
黒い具足に衝撃が響く。
田辺は前へ出た。
一歩。
もう一歩。
相手の足が土俵際にかかる。
田辺は声にならない声を上げた。
最後に全身で押した。
相手の踵が土俵の外へ落ちた。
歓声が上がった。
田辺は勢いのまま膝をついた。
何が起きたのか理解できない。
審判が田辺の腕を取る。
高く掲げる。
「勝者――路傍の石!」
歓声。
田辺は呆然としていた。
勝った。
自分が。
運動経験もない。
格闘技経験もない。
そんな自分が、誰かと戦って勝った。
田辺は黒い籠手に包まれた自分の手を見る。
五十二年生きてきた。
営業成績を褒められたこともある。
昇進した時は嬉しかった。
家を買った。
子供が生まれた。
それなりに嬉しいことはあった。
だが。
これは、そのどれとも違った。
身体中が痛い。
息が苦しい。
具足の中は汗でびっしょりだ。
明日は間違いなく筋肉痛になる。
それでも。
田辺は笑った。
観客席の奥に佐川がいた。
目が合う。
佐川は何も言わない。
ただ、小さく頷いた。
田辺も頷き返した。
路傍の石。
誰にも拾われず。
誰にも見向きもされず。
ただ道端に転がっている石。
その石が今夜。
初めて誰かの目に映った。
田辺の武者人生は、ここから始まった。




