日常の変化
昼過ぎ。
安達は取引先へ向かっていた。
ビジネス街の歩道は、昼休みを終えた会社員で混み合っている。
スマートフォンを見ながら歩く者。
電話をしながら足早に駅へ向かう者。
コンビニの袋を提げてビルへ戻る者。
誰もが自分の目的地だけを見ていた。
安達も腕時計を確認する。
次のアポイントまで二十分。
少し余裕がある。
交差点を曲がったところで、妙なものが目に入った。
男が一人、歩道の端に跪いていた。
五十代くらいだろうか。
白いシャツに紺色のスラックス。
片膝を地面につき、植え込みの縁に片手をついている。
その横を何人もの人間が通り過ぎていく。
誰も声をかけない。
安達も一度は通り過ぎた。
数歩進む。
止まる。
振り返った。
男はまだ同じ姿勢だった。
安達は引き返した。
「大丈夫ですか?」
男がゆっくり顔を上げた。
「……ああ」
意識はしっかりしている。
「立てます?」
「ちょっと脚に力が入らなくてな」
「向こうにベンチありますよ」
安達は腕を差し出した。
「悪いね」
男の腕を取る。
思ったより身体が重い。
太っているわけではない。
むしろ締まっている。
シャツ越しにも肩や腕の厚みが分かった。
安達は男を近くのベンチまで連れていった。
「救急車、呼びます?」
「いやいや、そこまでじゃない」
「持病とかですか?」
「ないよ。健康だけが取り柄だ」
男は笑った。
その時、安達は気づいた。
左目の下が青黒く変色している。
かなり大きな痣だった。
「その顔……」
「ああ」
男が目の下に触れる。
「これ?」
「殴られたんですか?」
「まあ、似たようなもんだ」
安達の表情が変わった。
「誰かにやられたんですか?」
「違う違う」
男は笑った。
「自分から作ったようなもんだ」
「自分から?」
「趣味でな」
安達は黙った。
目の下に青痣を作る趣味。
意味が分からない。
「ずいぶん激しい趣味ですね」
「そうかもしれんな」
男はそれ以上説明しなかった。
安達は男の脚を見る。
右脚を少し伸ばしたままにしている。
「脚もその趣味ですか?」
男は一瞬だけ安達を見る。
「まあな」
「何やってるんです?」
「秘密」
冗談めいた言い方だった。
だが、その一言だけ妙にきっぱりしていた。
安達はそれ以上聞かなかった。
しばらくすると、男が膝に手を置いて立ち上がった。
今度は問題なく立てた。
「もう大丈夫だ」
「本当ですか?」
「ああ。情けないところを見られたな」
男はシャツの皺を伸ばした。
「助かったよ」
「いえ」
「君、名前は?」
「安達です」
「安達君か」
男は少し笑った。
「今どき珍しいな」
「何がです?」
「みんな俺の横を通っていっただろ」
安達は周囲を見る。
人の流れは何も変わっていない。
「気づかなかっただけじゃないですか」
「そういうことにしておこう」
男は軽く手を上げた。
「ありがとう」
「無理しないでくださいよ」
「ああ。次はもう少し加減するさ」
男が歩き出す。
安達はその背中を見送った。
数歩。
右脚がわずかにぎこちない。
目の下の痣。
鍛えられた身体。
脚の痛み。
そして――趣味。
安達の頭に、一瞬だけ地下の土俵が浮かんだ。
黒い甲冑。
赤い胴丸。
硬いものを殴る音。
まさかな。
安達は首を振った。
スマートフォンを見る。
アポイントまで十一分。
「やば」
早足で取引先へ向かう。
それでも、さっきの男が妙に頭から離れなかった。
数日前までなら、喧嘩でもしたのだと思っただろう。
だが今は違う。
自分は知ってしまった。
この街には、昼間の顔とは別の顔を持つ者がいる。
安達は歩きながら、行き交う人々を見た。
スーツ姿の男。
工事現場から出てきた作業員。
配送車から荷物を降ろす男。
何の変哲もない人々。
その中にいるのかもしれない。
夜になれば、別の姿になる武者が。
安達は小さく笑った。
東京が以前とは少し違って見えた。




