美学
男に連れられて入った建物は、工場のようでもあり、博物館のようでもあった。
壁一面に甲冑が並んでいる。
黒。
赤。
紺。
金。
教科書で見たような大仰なものもあれば、胴と肩だけを守る簡素なものもある。
入口近くには陣笠と胴だけの足軽装備。
その奥には赤備え。
さらに進むと、大きな前立てを持つ兜や、派手な装飾を施した具足まで並んでいる。
「……これ、全部使うんですか?」
「使うために作ってある」
謎の男が答えた。
安達は一番近くにあった黒い胴を指で軽く叩いた。
コン。
想像していた鉄の音ではない。
「鉄じゃない?」
「カーボンだ」
奥から別の声がした。
作業着姿の男が出てくる。
五十代くらいだろうか。
首からメジャーを下げていた。
「正確にはカーボンだけじゃない。場所によってアラミドも使う。内側には衝撃吸収材。見た目だけ昔で、中身は現代だ」
男は安達を見る。
「こいつが?」
「ああ」
謎の男が答える。
「安達君だ」
作業着の男が安達を上から下まで見る。
「身長」
「百七十五です」
「体重」
「七十四」
「競技歴は?」
「高校でラグビー。大学で少しMMAを」
「ポジション」
「フランカーです」
作業着の男が少し笑った。
「なるほど」
「何がですか?」
「鎧を見れば分かる」
意味が分からない。
男は壁に掛けられた二つの甲冑を下ろした。
一つは赤い胴丸。
もう一つは全身を覆う黒い具足だった。
「持ってみろ」
安達は黒い方を持ち上げた。
「重っ」
「十一キロ」
次に胴丸。
明らかに軽い。
「こっちは?」
「四・八キロ」
倍以上違う。
「昨日見た試合と同じだ」
謎の男が言った。
「黒い方が防御力は高い。でも重い。赤い方は守れる場所が少ない代わりに動ける」
安達は胴丸を眺める。
「じゃあ、軽い方が有利じゃないですか?」
作業着の男が鼻で笑った。
「腹に一発もらってから同じことを言え」
「……なるほど」
「それに鎧は軽ければいいってものでもない」
男は黒い具足の肩を叩いた。
「組み合えば重さそのものが武器になる。百キロ近い総重量で押されたら、軽装の奴は簡単に下がる」
安達は昨日の黒い武者を思い出した。
赤い胴丸を土俵際まで追い詰めた姿。
あれは単なる体格差ではなかったのかもしれない。
「じゃあ、自分の戦い方で選ぶ?」
「半分正解だ」
作業着の男が言った。
「半分?」
「残り半分は美学だ」
男が奥を指した。
そこには明らかに戦闘効率とは無関係な甲冑が並んでいた。
巨大な前立て。
金色の装飾。
派手な吹返し。
赤と金で統一された具足。
「……これで戦うんですか?」
「戦う」
「邪魔じゃないですか?」
「邪魔だ」
即答だった。
安達は思わず笑った。
「じゃあ何で」
「着たいからだよ」
作業着の男は当然のように答えた。
「勝つことだけ考える奴は、どんどん装備を削る。軽くして、視界を広くして、必要なところだけ守る」
別の甲冑を見る。
「逆に、戦いにくくなってでも自分が好きな姿で土俵に立つ奴もいる」
壁の一角に、巨大な「愛」の前立てを模した兜が置かれていた。
安達でも分かる。
直江兼続だ。
「これも?」
「ああ。本人が直江兼続に惚れ込んでる」
「重そうですね」
「兜だけで二キロ近い」
「絶対邪魔でしょ」
「本人に言ってみろ。殴られるぞ」
謎の男が笑った。
作業着の男は、壁一面の甲冑を見上げた。
「甲冑ってのはな、守るためだけの道具じゃない」
安達も視線を向ける。
黒漆。
赤備え。
金箔。
巨大な前立て。
同じ形のものは一つもない。
「軽ければ強い。視界が広ければ戦いやすい。余計な飾りを全部捨てれば、もっと合理的になる」
男はそこで笑った。
「でも、それだけなら甲冑である必要がない」
安達が振り返る。
「プロテクターでいいってことですか?」
「そうだ」
男は直江兼続を模した兜を持ち上げた。
大きな『愛』の前立てが照明を反射する。
「こんなもの、戦うだけなら邪魔だ」
「ですよね」
「重い。視界も悪くなる。掴まれるかもしれん」
それでも男は、その兜を丁寧に台へ戻した。
「それでも、これを着て土俵に立ちたい奴がいる」
安達は黙って聞いていた。
「赤備えでなければ嫌な奴もいる。黒一色じゃなきゃ気が済まない奴もいる。傷を直さず、そのまま残す奴もいる。逆に毎試合、漆みたいに磨き上げてくる奴もいる」
「そこまでこだわるんですか」
「こだわるさ」
男の声が少し強くなった。
「甲冑を着るってのは、自分が何者なのかを決めることだからな」
男は並んだ具足を指していく。
「速さを選ぶ奴。重さを選ぶ奴。威圧感を選ぶ奴。歴史を背負う奴。誰かへの憧れを着る奴。自分だけの形を作る奴」
安達の目が、一つ一つの甲冑を追う。
「勝つために削るのも美学だ。重くても派手な甲冑を着るのも美学だ」
男は続けた。
「大事なのは、他人に決めてもらわないことだ」
「自分で決める」
「そうだ」
男が頷く。
「土俵に上がった瞬間、客はまず甲冑を見る。その次に戦い方を見る。そして最後に、その二つが同じ人間から出ているかを見る」
安達は少し考えた。
「同じ人間?」
「見た目だけ派手で、戦い方が臆病ならすぐ分かる。逆に地味な足軽具足で、何度倒されても前に出る奴もいる」
男は笑った。
「そういう奴の甲冑は、そのうち格好よく見えてくる」
安達は壁を見る。
さっきまで防具の種類にしか見えなかった。
今は違う。
どれも、その中に入る人間の生き方を待っているように見えた。
男が言った。
「強い甲冑なんてものはない」
安達が見る。
「強い武者に似合う甲冑があるだけだ」
しばらく安達は何も言わなかった。
その言葉を、頭の中で転がしていた。
作業着の男がメジャーを手に取る。
「さて。お前の話に戻るぞ」
安達の肩幅を測る。
胸。
腰。
腕。
脚。
数字を書き込んでいく。
「フランカーだったんだろ」
「はい」
「タックルは?」
「得意でした」
「なら最初は重装にするな」
男が胴丸を安達の身体に当てた。
「肩を自由にしろ。腰も動くようにする。下半身も軽く」
「頭は?」
作業台の上に二種類の防具が置かれる。
一つは兜。
もう一つは透明なフェイスガードを備えた現代的なヘッドギアだった。
「兜なら防御力は上がる。その代わり重い。視界も狭くなる」
「こっちは?」
「実戦用。軽い。よく見える。だが格好は悪い」
安達は二つを見比べた。
合理性か。
美学か。
「どうする?」
安達は少し考えた。
兜を手に取る。
鏡の前でかぶってみる。
重い。
左右を見る。
確かに視界が狭い。
外す。
次にヘッドギア。
軽い。
圧倒的に動きやすい。
「最初は、こっちにします」
ヘッドギアを置く。
「胴丸も軽いやつで」
作業着の男が頷いた。
「勝ちに行く装備だな」
「まず勝てるかどうかも分からないんで」
安達は笑った。
「それでいい」
男は貸出用の黒い胴丸を安達へ差し出した。
「着てみろ」
安達はスーツの上着を脱いだ。
ネクタイを外す。
そして初めて、甲冑に腕を通した。
胴を締める。
肩を回す。
腰を落とす。
軽く前へ踏み込む。
思ったより動ける。
安達は鏡を見る。
そこに映っているのは、自分の顔だった。
だが、さっきまでの自分とは少し違って見えた。
作業着の男が後ろから言った。
「今は借り物だ」
安達は鏡から目を離さない。
「そのうち、自分のが欲しくなる」
「そんなもんですか」
「なる」
男は即答した。
「その頃には分かるよ」
「何がです?」
「お前が、どんな武者なのかだ」
安達はもう一度、鏡の中の自分を見た。
まだ何者でもない。
だからこそ、少しだけ楽しみだった。




