王宮編第1話 残された者たち
同じ頃。
クロウディア王国、王宮。
王太子執務室には、いつも以上に多くの書類が積み上げられていた。
「…………」
ハインリッヒは、目の前の書類の山をじっと見つめていた。
朝から何枚の書類に目を通しただろう。
十枚。
五十枚。
いや、それ以上だ。
ようやく一つの山を片付けたと思ったのに、机の端にはまた新しい書類が置かれている。
「……まだあるのか?」
「はい」
すぐそばに控えていた側近が答える。
「先ほど届いたものです」
「…………」
ハインリッヒは無言で書類を受け取った。
内容を確認する。
領地からの報告書。
各部署からの確認書類。
貴族からの申請。
行事に関する書類。
どれも王太子として目を通さなければならないものだった。
しかし
「……おかしい」
ハインリッヒは眉間に皺を寄せた。
「なぜ、こんなに多い?」
「……と、申されますと?」
「以前は、ここまで書類が残っていなかったはずだ」
側近は答えに詰まった。
確かに、その通りだった。
以前ならば、ハインリッヒが執務室で確認する書類の量は、今ほど多くはなかった。もちろん仕事がなくなっていたわけではない。それでも、ここまで追われることはなかった。
「アイリーン様は、殿下の執務をよくお手伝いされておりました」
「……そうだったな」
ハインリッヒは書類を眺めながら、しばらく黙り込んだ。
婚約者だった頃のアイリーンは、王太子妃となるための教育を受けながら、すでに王宮での仕事にも関わっていた。
書類に目を通し、必要なものを整理する。各方面から届いた報告にも目を通し、ハインリッヒに伝えるべきことをまとめる。そうして、ハインリッヒが本当に判断しなければならないものだけを残していた。
「……だから、か」
ハインリッヒは小さく呟いた。
今まで、当たり前のように片付いていた仕事。それが誰かの手によって支えられていたことに、今になって気づいた。
「ところで」
ハインリッヒは書類から顔を上げた。
「リリアーヌの王妃教育はどうなっている?」
「はい。予定通り進めております」
「そうか。問題はないのか?」
「……」
側近が、一瞬だけ言葉を濁した。
「何かあるのか?」
「いえ、大きな問題があるわけではございません。ただ……」
「ただ?」
「リリアーヌ様は、まだ王妃教育を受け始めたばかりですので」
「……そうだったな」
ハインリッヒは思い出した。リリアーヌは、これまで王妃になるための教育を受けてきたわけではない。
突然、王太子妃候補となった少女だ。礼儀作法や一般的な教養は身につけている。光魔法という大きな才能も持っている。しかし、王妃として必要な知識となれば話は別だった。
王国の歴史。
政治。
外交。
貴族社会の仕組み。
各領地の情勢。
王族としての振る舞い。
平民として育ってきた彼女には、学ばなければならないことは、いくらでもある。
「……どの程度まで進んでいる?」
「現在は、王国史と貴族制度を中心に学んでおります。それから、外交についても基礎から」
「なるほど」
ハインリッヒは頷いた。
「リリアーヌは真面目に取り組んでいるか?」
「それは、はい」
側近は迷いなく答えた。
「毎日の課題も欠かしておりません。分からないことがあれば、そのままにせず教官へ質問されています」
「そうか」
そこまで聞いて、ハインリッヒは少し安心した。
少なくとも、本人にやる気がないわけではないらしい。
「ですが、まだ時間が必要でしょう。何せ基礎からですからね…それに……」
「それになんだ?」
「大変申し上げにくいのですが、なかなか覚えられないそうで……」
側近の言葉に、ハインリッヒは黙った。
それは当然のことだった。
数年かけて身につけるはずだったものを、短期間で覚えられるはずがない。
「……分かった。引き続き頼む」
「承知しました」
側近が一礼する。
そのときだった。
扉が軽く叩かれた。
「殿下」
「入れ」
入ってきたのは、別の側近だった。
その腕には、また大量の書類が抱えられている。
「……」
ハインリッヒは、思わず額に手を当てた。
「こちら、本日中に確認をお願いしたいものです」
「本日中……?」
「はい」
「…………」
ハインリッヒは、ゆっくりと書類を受け取った。
机の上に置く。
積み上がっていた山が、また高くなった。
「……減るどころか増えているな」
思わず、ため息が漏れた。
「申し訳ございません」
「いや、お前が悪いわけではない」
そう言って、ハインリッヒは書類を一枚手に取った。
以前なら。
このうちのいくつかは、アイリーンが目を通していた。重要なものだけを自分のところへ持ってきてくれた。そのことが、今になって身に染みて分かる。自分はずっと、それを当然のことだと思っていた。
「……アイリーン」
小さく、その名を呟いた。
しかし、返事が返ってくることはない。
彼女はもう、この王宮にはいないのだから。
その頃、
王宮の別の部屋では、リリアーヌが王妃教育を受けていた。
「では、こちらの問いに答えてください」
「はい」
目の前に並べられた資料を見ながら、リリアーヌは答える。
「現在のクロウディア王国では――」
けれど、言葉が途中で止まった。
「……申し訳ありません。分かりません」
「そうですか。では、次の問題です」
「はい」
リリアーヌは悔しそうに唇を噛んだ。
分からない。
知らない。
知らないことばかりだった。
けれど、だからといって諦めるつもりはなかった。
「もう一度、教えてください」
「分かりました」
教官が説明を始める。
リリアーヌは必死にノートへ書き込んでいった。
知らなければ覚えればいい。
できなければ、できるようになるまで努力すればいい。
そう思っていた。
けれど、学べば学ぶほど、自分が知らなかったことの多さを思い知らされる。
休憩の時間になっても、リリアーヌはノートを閉じなかった。
「リリアーヌ様。少しお休みになられてはいかがですか?」
「……大丈夫です」
「ですが――」
「大丈夫です」
少し強い口調になってしまった。
侍女が目を丸くする。
「……すみません」
リリアーヌは小さく頭を下げた。
「分からないことが多すぎて……少しでも早く覚えないといけないと思って」
「リリアーヌ様……」
「わたしは、王太子殿下のお役に立ちたいのです」
そう言って、再びノートへ視線を落とす。
彼女は必死だった。
けれど、その必死さゆえに、余裕を失っていた。
その頃、王太子執務室では
「殿下」
「なんだ?セドリック」
「少し、お耳に入れておきたいことがございます」
先ほどとは別の側近が口を開いた。
彼は、代々王家に仕えてきた家の出身だった。
祖父も、そのまた祖父も王家に仕えてきた。
王宮の事情にも詳しく、ハインリッヒからの信頼も厚い人物だった。
「リリアーヌ様の王妃教育についてですが」
「ああ」
「やはり、まだまだ時間が必要かと」
「……そうだな」
「それに加えて、現在は殿下ご自身のご負担も増えております」
ハインリッヒは黙っていた。
「アイリーン様がいらっしゃった頃は、王太子妃としての教育を受けながら、すでに多くの実務を担っておられました」
「……」
「今のリリアーヌ様と比べるのは、酷かもしれませんが――」
そこで、側近は一度言葉を止めた。
「やはり、アイリーン様であれば、と考えてしまうことがございます」
「…………」
ハインリッヒの手が止まった。
そのとき。
「……アイリーン様なら?」
部屋の入口から、か細い声が聞こえた。
全員が振り返る。
そこには、リリアーヌが立っていた。
「リリアーヌ……?」
ハインリッヒが立ち上がる。
リリアーヌは、じっと側近を見つめていた。
「……わたしでは、駄目なのでしょうか」
「いえ、決してそのような意味では――」
「でも……」
リリアーヌの声が震えた。
「わたしだって……頑張っています」
ぽろりと、涙がこぼれた。
「毎日、勉強しています。知らないことばかりだから……少しでも早く覚えようって……」
「リリアーヌ様……」
「なのに……」
涙を拭おうとする。
けれど、次から次へと溢れてくる。
「アイリーン様なら、って……」
「リリアーヌ」
ハインリッヒが声をかける。
「……ごめんなさい」
リリアーヌは俯いた。
「わたし……少し、席を外します」
「待て」
ハインリッヒが呼び止める。
しかし、リリアーヌは首を横に振った。
「今は……一人にしてください」
そう言って、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静寂が落ちた。
「…………」
ハインリッヒは、ゆっくりと側近へ視線を向けた。
「殿下、私は――」
「お前は、今、自分が何を言ったのか分かっているのか?」
低い声だった。
側近の顔から血の気が引く。
「申し訳ございません。ですが、私は事実を――」
「事実?」
ハインリッヒの声が鋭くなる。
「まだ王妃教育を受けている途中の者と、長年そのための教育を受け、実務まで担っていた者を比べて何になる?」
「…………」
「リリアーヌは、まだ何も知らない。それでも、毎日必死に学んでいる」
ハインリッヒは拳を握った。
「それを、お前は分かっていたはずだ」
「……申し訳ございません」
「謝れば済むと思っているのか?」
室内の空気が凍りつく。
「お前には、今日限りで王太子付きの職を解いてもらう」
「……!」
側近が目を見開いた。
「殿下……! 私の家は、代々王家に――」
「だから何だ?」
ハインリッヒは冷たく言い放った。
「王家に仕えてきた家だから、何を言っても許されるとでも思ったか?」
「いえ……!」
「リリアーヌを傷つける言葉を、私の目の前で口にした。それだけで十分だ」
側近は何も言えなくなった。
やがて深く頭を下げる。
「……承知しました」
そのまま部屋を出ていった。
残された側近たちは、誰も口を開かなかった。
誰もが分かっていた。
今回の処分は、王宮にとって小さな出来事ではない。
代々王家に仕えてきた家の人間を、王太子が自ら解雇したのだ。
その話が王の耳に入るまで、そう時間はかからなかった。
その日の夕刻。
「……何?」
国王は報告を聞き、眉をひそめた。
「王太子が、あの家の者を解雇したというのか?」
「はい」
「理由は?」
「リリアーヌ様の前で、アイリーン様と比較する発言をしたため、と」
「…………」
国王はしばらく黙り込んだ。
そして、ふと机の上に置かれた書類へ目を向ける。
「ところで」
「はい」
「最近、王太子の執務量が増えているという話を聞いたが」
「はい。アイリーン様がいなくなってから、殿下が処理される書類が増えております」
「……そうか」
国王は椅子に深く身を預けた。
アイリーン。
婚約を破棄され、この王宮から姿を消した公爵令嬢。
彼女がいなくなったことで、王太子の仕事が増えた。
そして今度は、リリアーヌを巡って王宮内部で問題まで起きている。
「……一体、何が起きている?」
国王は、誰にともなく呟いた。
その頃。
王都の街では、
そんなことが起きているとは知らないアイリーンが、アネットとともに明日の依頼について話していた。
二人の知らないところで、王宮もまた、少しずつ動き始めていたのだった。
第8話を読んでいただき、ありがとうございました!
今回は、アイリーンがいなくなった後の王宮の様子をメインに書きました。
これから王宮とアイリーンたち、それぞれの物語がどう動いていくのか、楽しみにしていただけたら嬉しいです!
これからもよろしくお願いします!




