第26話 森に消えた人々
馬車が少女を乗せて再び走り出してから、しばらくが経ちました。
少女はアネットさんの隣に座り、膝の上で小さな手をぎゅっと握りしめています。先ほどよりは落ち着いたようですが、その表情から不安が消えることはありません。
「もうすぐ村に着くよ。お父さんのこと、ちゃんと調べようね」
アネットさんが優しく声をかけると、少女はこくりとうなずきました。
「……うん」
「ところで、お名前を聞いてもよろしいですか?」
わたくしが尋ねると、少女は少しだけ顔を上げました。
「エマ……」
「エマさんですね。教えてくださってありがとうございます」
名前を呼ばれたエマさんは、ほんの少しだけ表情を和らげました。
その様子を見て、わたくしは胸をなで下ろします。まだ幼いこの子にとって、今は何もかもが不安なのでしょう。せめて、わたくしたちがそばにいる間だけでも、安心してもらいたいものです。
「エマちゃん、お父さんはどんな人なの?」
アネットさんが尋ねました。
「えっとね……いつも、わたしを守ってくれるの。お仕事から帰ってきたら、一緒にご飯を食べて、それからお話をしてくれるんだよ」
エマさんはそう言って、少しだけ笑いました。
「そっか。優しいお父さんなんだね」
「うん! だからね、きっと今日はね、帰ってくるの!」
その言葉には、父親を信じる気持ちが込められていました。わたくしは、かける言葉を見つけられませんでした。
必ず帰ってくると約束することはできません。森で何が起きているのか、わたくしたちはまだ何も知らないのですから。
それでも。
この子の願いを、簡単に諦めるわけにはいきませんでした。
「……ええ。まずは何が起きたのか、確かめましょう」
わたくしが答えると、エマさんは再びうなずきました。
やがて、馬車の進行方向に小さな村が見えてきました。
森に近い、こぢんまりとした村です。周囲には畑が広がり、木造の家々が並んでいます。しかし、村に近づくにつれて、わたくしは妙な違和感を覚えました。
人の姿が、ほとんど見当たらないのです。
畑には道具が置かれたままになっており、家の前には薪が積まれています。人が暮らしている形跡はあるのに、村全体がひっそりと静まり返っていました。
「……何だか、静かだね」
アネットさんも気づいたようです。
「ええ。何かあったのでしょうか」
馬車が村の入口で止まると、近くの家から年配の女性が一人、慌てた様子で出てきました。
「エマ! ああ、よかった……!」
「おばあちゃん!」
エマさんは馬車から降りるなり、女性のもとへ駆け寄りました。女性はエマさんを強く抱きしめ、何度も頭をなでています。
「どこへ行っていたんだい! 心配したんだよ!」
「ごめんなさい……。お父さんを探しに行ったの」
「まったく、この子は……!」
叱る声には、安堵がにじんでいました。
どうやら、エマさんは父親を探すために村を飛び出し、そのまま道に迷ってしまったようです。女性はしばらくエマさんを抱きしめたあと、わたくしたちに向き直りました。
「この子を連れてきてくださったんですね。本当にありがとうございます」
「いえ。偶然、道端で出会ったのです。ところで……」
わたくしは言葉を選びながら尋ねました。
「森で、何が起きているのでしょうか?」
その瞬間、女性の表情が曇りました。
「……森に、とんでもない魔物が現れたんです」
女性は震える声で話し始めました。
数日前、村の近くの森で、これまで見たこともない巨大な魔物が目撃されたのだそうです。
最初は森の奥にいるだけで、村に被害はありませんでした。しかし、日が経つにつれて魔物は森の外側へ移動し、村の近くにまで姿を現すようになりました。
家畜が襲われ、森へ入った者が戻らなくなる。
このまま放置すれば、いずれ村そのものが危険にさらされる。
そう考えた村の大人たちは、魔物を討伐するために森へ向かったのだそうです。
「それが、昨日の朝のことです。夕方になっても誰一人帰ってこなくて……。今朝になっても、何の連絡もありません」
女性は唇をかみしめました。
「村に残った者たちも、どうすればいいのかわからなくて……。助けを呼びに行こうにも、森に近づくのは危険ですし」
「そんな……」
アネットさんの表情が険しくなりました。
「じゃあ、エマちゃんのお父さんも、その中に?」
「ええ。この子の父親も、討伐に参加しました」
女性はエマさんの肩を抱き寄せました。エマさんは何も言わず、うつむいています。
わたくしは静かに息を吸いました。
森に向かった人々が、全員戻っていない。
単に魔物が強かったというだけではないのかもしれません。何か予想外の事態が起きた可能性もあります。
「その魔物について、もう少し詳しく教えていただけますか?」
「詳しく、と言われましても……。森へ行った者たちが見たという話では、家ほどもある大きな獣のような姿だったそうです。ただ、普通の獣とは違って、全身が硬い何かに覆われていたとか……」
「硬い何か、ですか?」
「ええ。詳しいことは、森から戻った者がいないので……」
わたくしはアネットさんと顔を見合わせました。
巨大な体に、硬い外皮。
少なくとも、村の人々だけで対処できる相手ではなかったのでしょう。
「森の入口まで案内していただくことはできますか?」
わたくしが尋ねると、女性は驚いたように目を見開きました。
「まさか、あなたたちが森へ行くつもりですか!?」
「はい。わたくしたちは冒険者です。まずは状況を確認したいと思います」
「ですが、危険です! 村の大人たちが束になっても倒せなかった魔物なんですよ!」
わたくしは口を開きかけました。しかしその前に、
「危険なのは私たちも分かってます。でも、助けに行かないと、ね?」
そう、アネットは言いました。
女性は困惑した様子でわたくしたちを見つめました。
そのとき、後ろからテオさんが口を開きました。
「森へ入る前に、できることはあります。まずは、村の人たちがどこまで調べたのか確認しましょう。魔物の目撃場所や、最後に村人たちが見られた場所がわかれば、無駄に危険を冒さずに済みます」
落ち着いた声でした。
わたくしは、なるほどとうなずきました。
確かに、焦って森へ飛び込むのは得策ではありません。情報が少ない今だからこそ、できる限りの準備が必要です。
「おっしゃるとおりですね。ほかに、森へ向かった方々の装備や、持っていった道具についても教えていただけますか?」
「ええ、わかりました。村長なら、もう少し詳しいことを知っているはずです」
女性はそう言うと、村の奥を指さしました。
「こちらです。ご案内します」
わたくしたちは、女性の後について歩き始めました。
その途中、家の陰からこちらをうかがっていた村人たちが、少しずつ姿を現しました。
不安そうな顔。祈るように組まれた手。そして、森の方角へ何度も向けられる視線。誰もが、帰ってこない家族や仲間を案じているのでしょう。
その光景を見て、わたくしは改めて決意しました。
わたくしたちにできることがあるのなら、力を尽くしたい。
もちろん、必ず全員を助けられると断言することはできません。それでも、何もせずに見過ごすことだけはしたくありませんでした。
村長の家に着くと、年配の男性がわたくしたちを迎えました。
事情を説明すると、男性は深くうなだれました。
「……冒険者の方々ですか。来てくださったことには感謝します。しかし、森へ入るのは本当に危険です」
「魔物の姿を、もう少し詳しく教えてもらえますか?」
アネットさんが尋ねました。
村長はしばらく考え込んだあと、ゆっくりと口を開きました。
「目撃した者の話では、四本の脚を持ち、巨大な岩のような体をしていたそうです。歩くたびに地面が揺れ、木々をなぎ倒して進んでいたとか……」
「岩のような体……」
テオさんが小さくつぶやきました。
「それから、魔物の鳴き声を聞いた者もいます。獣のうなり声というより、岩同士がこすれ合うような、ひどく不気味な音だったそうです」
村長の説明を聞きながら、わたくしは頭の中で情報を整理しました。
巨大な体。硬い外皮。そして、岩のような音。
これまでに出会った魔物の中にも、体の一部が硬質化したものはいました。しかし、村長の話に当てはまる魔物には、すぐに心当たりが浮かびません。
「森へ向かった方々が最後に目撃された場所は、わかりますか?」
「森の北側です。古い採掘場へ続く道があるのですが、その付近で魔物が目撃されたそうです」
古い採掘場。
森の中に、何か秘密があるのでしょうか。
「わかりました。まずは、その場所を目指してみます」
わたくしが告げると、村長は深く頭を下げました。
「どうか……どうか、よろしくお願いします」
その声には、すがるような響きがありました。
村長の家を出たあと、わたくしたちは森へ向かう準備を始めました。
エマさんは祖母のもとに残り、わたくしたちを心配そうに見送っています。
「お姉ちゃんたち……お父さんを、お願い」
その小さな声に、わたくしは足を止めました。
「エマさん。わたくしたちも、できる限りのことをします」
そう答えると、エマさんは小さくうなずきました。
わたくしたちは村の入口で馬車の御者さんに事情を説明し、しばらく待ってもらうことにしました。
「無理はするなよ。森の中で何かあったら、すぐに引き返すんだ」
御者さんの忠告に、わたくしたちはうなずきました。
そして、森へと続く道に足を踏み入れます。
木々の間から差し込む陽光は、少しずつ弱くなっていました。
鳥のさえずりは聞こえず、風が葉を揺らす音だけが響いています。
まるで、森そのものが何かを警戒しているかのようでした。
「……嫌な感じがするね」
アネットさんが、いつになく真剣な声で言いました。
「ええ。わたくしも、そう思います」
テオさんは周囲に目を配りながら、静かに歩いています。
その視線は、足元に残された痕跡や、折れた枝、踏み荒らされた地面を見逃しません。
「この先、何かが通った跡がある」
テオさんの指摘に、わたくしたちは足を止めました。
地面には、明らかに普通の獣とは異なる、大きな足跡が残されていました。
その周囲では、太い木の幹が何本も折れています。
「……ずいぶん大きいね」
アネットさんが息をのみました。
わたくしはしゃがみ込み、足跡の縁を慎重に確かめます。
深く沈み込んだ地面。踏み荒らされた草。そして、足跡の先に続く、森の奥へと伸びた道。
この先に、村人たちが探している魔物がいるのでしょう。
そして、森へ入った人々も。
「皆さん、警戒を怠らないようにしましょう」
わたくしが告げると、アネットさんは剣の柄に手を添え、テオさんも静かにうなずきました。
わたくしたちは、足跡を追って森の奥へと進みます。
まだ、魔物の姿は見えません。
しかし、折れた木々の向こうから、かすかに何かを引きずるような音が聞こえてきました。
わたくしたちは顔を見合わせ、足を止めました。
森の奥で、一体何が起きているのでしょうか。
そして、村人たちは無事なのでしょうか。
答えを確かめるため、わたくしたちは音のする方へと、慎重に歩を進めました。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
エマの父親たちを探すため、森へと足を踏み入れたリーネたち。村人たちが最後に目撃された場所へ向かう途中です。果たして、森では何が起きているのでしょうか。
次回も読んでいただけるとうれしいです!




