第21話 アネットの過去
※アネット視点
私の故郷は、クロウディア王国の片隅にある、小さな村だった。村の周りには広い草原が広がり、少し離れたところには森があった。朝になると鳥たちが鳴き始め、畑仕事に向かう大人たちの声が聞こえてくる。大きな街のような立派な建物も、珍しい品物を売る店もない。それでも、私にとっては大切な場所だった。
「アネット! いつまで寝ているの!」
「うぅ……」
朝、階段の下からお母さんの声が響いてくる。
「もう朝よ! 早く起きなさい!」
「お、起きてるよー!」
「だったら、いつまで布団にくるまっているの!」
私は慌てて返事をした。
けれど、身体はまだ布団の中にある。今日は友達と広場で遊ぶ約束をしていた。早く起きなければいけないのは分かっている。
分かっているのだけれど……。
「姉ちゃん、また寝てるの?」
聞き覚えのある声がした。
次の瞬間、布団を勢いよく剥ぎ取られた。
「うわっ!? ちょっと、何するのよ!」
「だって、全然起きないんだもん!」
「起きるところだったの!」
「さっきも同じこと言ってたじゃん!」
弟のテオはけらけらと笑いながら、部屋の外へ逃げていった。
「待ちなさーい!」
追いかけようとして、私ははっとした。そうだ。友達との約束があるんだった!
「もう! こんなことしてる場合じゃない!」
私は大急ぎで着替え、髪をまとめると、階段を駆け下りた。食卓には、焼きたてのパンと温かいスープが並んでいた。
「おはよう、アネット」
「おはよう、お父さん!」
「おはよう。……ずいぶん慌てているわね」
お母さんが呆れたように笑った。
「だって、みんなと約束してるんだもん!」
「なら、明日からはもっと早く起きることね」
「うっ……分かってるよ」
「本当かなあ?」
テオが横から口を挟んできた。
「もう! 余計なこと言わないで!」
私が睨むと、テオはまた笑った。
その隣では、姉のシンシアまでくすくすと笑っている。
「アネットは昔から変わらないわね」
「お姉ちゃんまで!」
「はいはい。二人とも、朝ご飯が冷めるわよ」
お母さんにたしなめられ、私たちはようやく食事を始めた。賑やかで、騒がしくて、いつも誰かが笑っている。
そんな毎日が、私は大好きだった。
私は朝ごはんを食べ終えると、家を飛び出した。
「行ってきまーす!」
「走って転ばないようにね!」
「分かってるー!」
お母さんの声に返事をしながら、私は村の広場へ向かった。
「アネット、遅いぞ!」
「ごめん、ごめん!」
広場には、すでに友達が集まっていた。
草原を駆け回ったり、木の枝を剣に見立てて戦ったり。ときには村の外れまで探検に出かけて、大人たちに怒られることもあった。
その日も、私たちは木の枝を手に剣ごっこをしていた。
「今日こそ私が勝つんだから!」
「この前もそう言って負けただろ!」
「今日は違うもん!」
私は枝を構えた。
相手の攻撃を避け、隙を見つけて枝を振る。
カンッ、と乾いた音が鳴った。
「そこだーっ!」
相手の枝を弾き飛ばす。
「やった! 私の勝ち!」
「くっそー負けたー!」
「へへーん!」
私は得意げに胸を張った。
もちろん、本物の剣なんて持ったことはない。魔物と戦ったことだって、一度もなかった。それでも、こうして枝を振り回していると、自分が強くなったような気がした。
「アネットって、本当に剣が好きだよな」
「うん!」
「大きくなったら、騎士にでもなるのか?」
「うーん……どうだろう?」
私は枝を肩に担いだ。
騎士はかっこいいと思う。
でも、将来のことなんて、まだ何も決めていなかった。
大人になったら何をするのか。
どこで暮らすのか。
そもそも、大人になった自分がどんな人間になっているのか。
そんなこと、考えたこともなかった。だって、明日もきっと今日と同じようにやってくる。明日になれば、またみんなと遊べる。家に帰れば、お母さんの料理が待っている。お父さんも、お姉ちゃんも、弟もいる。
それが当たり前だったから。
お昼になると、私は家に帰った。
「ただいまー!」
「おかえり。手を洗ってきなさいね」
「はーい!」
食卓には、パンとスープ、それから畑で採れた野菜を使った料理が並んでいた。
「今日は何をして遊んでいたんだ?」
お父さんが尋ねた。
「剣の練習!」
「またか?」
「まただよ!」
私は笑った。
「今度は絶対に負けないんだから!」
「そうか。怪我だけはするなよ」
「分かってるって!」
お父さんは穏やかに笑った。
お母さんはそんな私たちを見て、呆れたように首を振る。
「本当に、男の子みたいなんだから」
「えーっ! いいじゃん!」
「ふふ。そうね」
お母さんは私の頭を撫でた。
「元気なのが一番よ」
私は嬉しくなって、笑った。
何でもない会話。
何でもない食事。
けれど、そんな時間が好きだった。
この家に帰ってくれば、みんながいる。何かあっても、きっと家族が助けてくれる。
だから私は、何も怖くなかった。
自分がどんな大人になるのかなんて、まだ分からない。
いつか村を出る日が来るのかどうかも分からない。
ただ、明日もこうして笑っていられれば、それでよかった。
その日は、いつもと変わらない穏やかな午後だった。私はテオと一緒に、家の前で遊んでいた。お姉ちゃんはお母さんの手伝いをしていて、お父さんは畑仕事をしていた。
空は青く、風も穏やかだった。
明日も、明後日も、こんな日が続く。
何の疑いもなく、そう思っていた。
――ドンッ!
突然、遠くから大きな音が響いた。
「……え?」
私は顔を上げた。
鳥たちが一斉に飛び立つ。
少し遅れて、地面がかすかに揺れた。そして、森の方角から、聞いたこともないような魔物の咆哮が響いた。
「な、何……?」
弟が不安そうに私の服をつかんだ。
次の瞬間、村の入口から叫び声が聞こえた。
「魔物だ!」
「魔物の群れだ、魔物大氾濫だ」
「みんな、逃げろーっ!」
私は、一瞬何を言われたのか分からなかった。
魔物の群れ?
どうして?なんでいきなり?
そのとき、家の扉が勢いよく開いた。
「アネット! こっちへ来なさい!」
お母さんだった。
その顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。お母さんが、こんなに怖い顔をしている。それだけで、何かとんでもないことが起きているのだと分かった。
「お母さん、どうしたの!?」
「いいから、早く!」
お母さんは私と弟の手をつかみ、家の中へ引っ張り込んだ。
「お姉ちゃんは!?」
「ここにいるわ!」
お姉ちゃんも、急いで荷物をまとめていた。外からは、悲鳴や怒号が聞こえてくる。窓の向こうを見ると、村の入口から魔物たちが押し寄せてきていた。一匹や二匹ではない。
数えきれないほどの魔物が、まるで波のように村へ流れ込んでくる。
「……うそ」
声が漏れた。
こんなの、知らない。
なぜ、これほど多くの魔物が一斉に現れたのか。
何が起きているのか。
誰にも分からなかった。
そのとき、扉が開いた。
「みんな、無事か!」
「お父さん!」
お父さんが帰ってきた。
けれど、その服は汚れ、息も切れていた。
「ここも危ない。すぐに避難するぞ!」
「あなた、村の人たちは……?」
「皆、逃げ始めている。だが、魔物の数が多すぎる!」
お父さんは私たちを見回した。
「絶対に離れるな。何があっても、家族から離れるんじゃないぞ!」
「……うん!」
私は強く頷いた。
お父さんがいる。
お母さんも、お姉ちゃんも、弟もいる。
みんな一緒なら、きっと大丈夫。
そう信じて、私たちは家を飛び出した。
村の中は、ひどい混乱だった。
人々が荷物を抱えて走り、子どもたちが泣き叫んでいる。家々の間を魔物が駆け抜け、あちこちから助けを求める声が聞こえた。私はお母さんの手を握りしめ、必死に走った。
「お母さん、怖い……!」
「大丈夫よ。手を離さないでね!」
「うん!」
お父さんが前を走り、お姉ちゃんは弟の手を引いていた。
みんな一緒だった。
だから、大丈夫。
そう思っていた。
けれど、逃げ道の先に魔物が現れた。
「こっちにもいるぞ!」
「道を変えろ!」
大人たちの叫び声が響く。
お父さんはすぐに別の道へと向かった。
私たちも、その後を追う。
けれど、どこへ向かっても魔物の姿があった。村のあちこちから、次々と魔物が押し寄せている。逃げる人々と、迫り来る魔物たち。
誰もが必死だった。
「アネット、走って!」
お母さんが叫んだ。
私は必死に足を動かした。
その瞬間、すぐ近くで大きな衝撃が起きた。誰かがぶつかり、誰かが叫び、テオの泣き声が遠くに聞こえた。
「くそっ、もうそこまで魔物が…」
お父さんがつぶやいた。
「お前たちは逃げろ。俺はここを魔法で食い止める。逃げるんだ。」
「あなた…でも…」
「いいから逃げるんだ」
お父さんはそういうと、火魔法を迫っていた魔物に放った。
私はとにかく必死に走った。そう、必死すぎて、ここでお母さんとテオ、お姉ちゃんと逸れてしまったことに気づかなかったのだ。
そして、私たちは避難した村人たちが集まる丘に出た。
私は家族を探した。けれど、姿が見えない。
「お母さん!」
返事はなかった。
「お父さん! お姉ちゃん! テオ!」
何度も叫んだ。
それでも、誰も答えてくれなかった。私は立ち上がり、必死に辺りを見回した。
どこにいるの?
どこへ行けばいいの?
どうして、みんないなくなっちゃったの?
頭の中が真っ白だった。
そのとき、ふと遠くに私たちの村が見えた。
見慣れた屋根や広場。
けれど、その家々は魔物に踏み荒らされ、壁が崩れ始めていた。
「……あ」
私は足を止めた。
昨日まで、そこにあったのに。
朝ご飯を食べた食卓も。
みんなと遊んだ広場も。
全部、そこにあったはずなのに。
「……やだ」
小さく呟いた。
「やだよ……」
帰りたい。
家に帰って、お母さんに迎えてほしい。お父さんに笑ってほしい。お姉ちゃんにからかわれて、弟と喧嘩して。
そんな、いつもの日常に戻りたい。
でも、目の前の光景は、私の願いなんて聞いてくれなかった。
村は壊れていく。
私の知っている村が。
私の大好きな故郷が。
目の前で、少しずつ失われていく。
家族がどこにいるのかも分からない。友達が無事なのかも分からない。
どうして魔物たちが一斉に押し寄せてきたのか、それさえ分からない。
何も分からなかった。
私はまだ、子どもだった。
魔物と戦う力なんてない。
誰かを守る力もない。
大人たちが何とかしてくれると、信じていた。
けれど、何もできなかった。
家族を探すことさえ、できなかった。
「……っ」
唇を噛みしめた。
悔しかった。
怖かった。
何より、もう一度みんなに会いたかった。でも、どれだけ願っても、再び家族と会うことはなかった。
その日、私は故郷を失った。
当たり前だと思っていた日常も。
大好きだった家も。
明日も明後日も続くと信じていた、家族との暮らしも。すべてが、遠いものになってしまった。
その後のことは、あまりよく覚えていない。
避難した人たちが集められ、村の外に臨時の避難場所が作られた。
大人たちは、家族や知り合いの名前を呼びながら、必死に行方を確かめていた。
私も、何度も家族の名前を伝えた。
お母さんのこと。
お父さんのこと。
お姉ちゃんのこと。
弟のこと。
けれど、すぐには何も分からなかった。
無事に逃げられたのか。
どこかで助けを待っているのか。
それとも――。
考えたくなかった。
私は、ただ待つことしかできなかった。誰かが家族を見つけてくれるのを。誰かが、みんなは無事だと言ってくれるのを。けれど、時間だけが過ぎていった。私は膝を抱え、何度も村の方角を見つめた。
もう一度、あの家に帰りたい。
お母さんの作ったご飯が食べたい。
お父さんの声が聞きたい。
お姉ちゃんや弟と、いつものように喧嘩がしたい。
そんなことばかり考えていた。
でも、願うだけでは何も変わらなかった。
私は、何もできなかった。
自分がこれからどうすればいいのかも分からない。
ただ、失ったものの大きさだけが、少しずつ胸に広がっていった。
そして、私は初めて思った。
もし、私に力があったなら。
もし、魔物と戦えるだけの力があったなら。
あの日、何かができたのだろうか。
家族を守れたのだろうか。
村の人たちを助けられたのだろうか。
答えは分からない。
過去に戻ることもできない。
それでも――
「……私、強くなりたい」
気がつくと、そう呟いていた。
誰かに聞かせるためではなかった。
誰かに慰めてもらうためでもなかった。
ただ、もう二度と、何もできずに大切なものを失いたくなかった。
それだけは、はっきりしていた。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
魔物と戦う力を身につけたい。
自分の身を守れるようになりたい。
そして、いつか大切な人が危険にさらされたとき、今度こそ手を伸ばせる人になりたい。
そのために、何をすればいいのか。
私は、知っていた。
村の外からやってきた冒険者たち。
魔物を討伐し、人々を守るために戦う人たち。
幼い頃の私には、遠い世界の住人のように思えていた。
けれど、今は違う。
私も、あの人たちのようになりたい。
「……冒険者に、なろう」
声に出してみる。
胸の奥が、少しだけ震えた。
怖くないわけではない。
魔物と戦うことが、どれほど危険なのかも分かっている。
それでも、もう何もできないままでいたくなかった。私は、もう一度、遠くの村を見つめた。あそこにあったものを、私は忘れない。
家族と過ごした日々も。
友達と笑い合った時間も。
帰れば誰かが迎えてくれる、あの温かな場所も。
全部、私の大切な思い出だから。
そして、いつか。
もう一度、誰かを守れる自分になりたい。
そう願いながら、私は小さく拳を握りしめた。
初めて自分の進む道を決めたのだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
今回は、アネットが冒険者を目指すことになった過去を描きました。当たり前だった日常を突然失い、何もできなかった悔しさを抱えたアネット。彼女の「強くなりたい」という思いは、あの日から始まったものでした。
次回もお楽しみに




