第14話 リーネの告白
リベルデの街は、どこを歩いても活気に満ちていました。
港には大小さまざまな船が停泊し、荷を運ぶ人々の声が飛び交っています。潮の香りに混じって、焼きたてのパンや香辛料の匂いが漂ってきました。
「うわぁ、あれ見て! 魚があんなにいっぱい!」
「本当ですわね。あちらのお店には、見たことのない果物まで……」
「ねえ、あとで見に行こうよ!」
「ええ、もちろん」
アネットさんは目に映るものすべてが珍しいらしく、あちらこちらへと視線を動かしていました。わたくしも初めて見るものばかりです。これまで、わたくしが訪れたことのある場所といえば、王都と領地、それから王族や貴族が集まる催しの会場くらいでした。こうして何の予定もなく街を歩くことが、こんなにも楽しいことだなんて知りませんでした。
「……あら?」
ふと、道端に立てられた掲示板が目に留まりました。依頼の張り紙や商店の広告に混じって、新聞も何部か置かれています。号外でしょうか。
「新聞だ! ねえ、リーネ。ちょっと見ていこうよ!」
「そうしましょう」
アネットが新聞を一部手に取ります。わたくしも、何気なく別の一部へと手を伸ばしました。
そして。
その一面に目を落とした瞬間、わたくしの指先が止まりました。
『王太子ハインリッヒ殿下、リリアーヌ嬢とのご結婚!』
大きな見出しの下には、二人の姿を描いた挿絵が掲載されていました。純白の婚礼衣装をまとった女性と、その隣に立つ男性。淡い金色の髪。桃色の瞳。
見間違えるはずがありません。
ハインリッヒ殿下。
そして、リリアーヌ・クロンセチア。
わたくしの、かつての婚約者と。
わたくしの代わりに、その隣へ立った女性。
「……っ」
息が詰まりました。
新聞を持つ手に、力がこもります。
そうですわね。
当然のことです。
わたくしとの婚約は破棄されたのですから、お二人が結婚することに何の不思議もありません。
分かっています。
そんなことは、ずっと前から分かっていたはずなのに。紙面の中の二人は、幸せそうに微笑んでいました。
わたくしがいなくても、何も変わらない。わたくしがいなくなったところで、誰も困らないのです。
「リーネ?」
アネットさんの声に、はっと顔を上げました。
「どうしたの?」
「……何でもありません」
わたくしは新聞を閉じました。
笑わなくては。
いつも通りに。
そう思うのに、うまく口元が動きませんでした。
アネットはしばらくわたくしを見つめていましたが、やがて手にしていた新聞をそっと下ろしました。
「……ねえ。ちょっと休もうか」
それ以上、アネットさんは何も聞きませんでした。
わたくしは小さく頷きました。
近くの食堂に入り、窓際の席に腰を下ろします。注文した飲み物が運ばれてきても、わたくしはなかなか口をつけられませんでした。
アネットさんも、いつもならあれこれ話しかけてくるところなのに、今は静かに向かい側へ座っています。
その気遣いが、かえって胸に沁みました。
「……ごめんなさい」
「ん? 何が?」
「せっかく街を楽しんでいたのに、わたくしのせいで……」
「そんなの気にしなくていいよ」
アネットはあっさりと言った。
「街は逃げないもん。またあとで見に行けばいいし!」
いつもの調子でした。
明るくて、あまりにも自然で。
だからこそ、張り詰めていたものが、少しずつ緩んでいきます。
「……アネットさん」
「うん?」
「先ほどの新聞に載っていた方々は……わたくしにとって、少しだけ、特別な方々なのです」
何から話せばいいのか分りませんでした。どこまで話していいのかも。けれど、黙ったままでいることも、もう苦しかったのです。
「わたくしは以前、王太子殿下の婚約者でした」
「えっ……!」
アネットが目を丸くしました。
「じゃあ、あの人が……?」
「ええ。ハインリッヒ殿下ですわ」
わたくしはテーブルの上に視線を落とした。
「わたくしは、バルコス公爵家の娘として生まれました。母はわたくしを産んですぐに亡くなり、父は宰相を務めておりました。幼い頃から、王太子殿下の婚約者として育てられてきたのです」
礼儀作法も、歴史も、政治も。そして魔法も。王太子妃となるために必要なことは、ひと通り学んできました。それが、わたくしの役目だと思っていたから。
「けれど、殿下は別の女性を愛していらっしゃいました。その方が、リリアーヌ様ですわ」
「……それで、婚約がなくなっちゃったの?」
「ええ。殿下のお誕生日を祝う夜会で、皆の前で婚約を破棄されました」
あの日の光景が、脳裏によみがえります。
華やかな夜会。
大勢の貴族たち。
わたくしを見つめる無数の視線。
そして、わたくしの隣に立つはずだった人が、別の女性へと手を差し伸べた瞬間。
「……父も、わたくしを見捨てました」
声が、少しだけ震えた。
「父はリリアーヌ様を新しい娘として迎え入れるとおっしゃいました。わたくしには……もう、居場所がありませんでした」
言葉にするたび、胸の奥が痛みました。
忘れたかったのです。
いいえ、忘れたつもりでした。
もうあの家には戻らない。あの人たちのことなど考えない。自分の力で生きていくのだと、何度も自分に言い聞きかせてきました。
それなのに。
新聞のたった一枚の挿絵を見ただけで、こんなにも心が揺さぶられてしまうとは…
「それで、家を出たのです。冒険者になろうと思ったのは……ほかに、行く場所がなかったから」
最後の言葉は、思ったよりも小さな声になりました。アネットさんは何も言いませんでした。ただ、じっとわたくしの話を聞いていました。
「……わたくしは、ずっと頑張ってきたつもりでした」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
「王太子妃になるために、必要なことを学んで。殿下のお隣に立っても恥ずかしくないように、努力してきたつもりだったのです」
指先が震えます。
「それなのに、最後には……わたくしでは駄目だったのだと、そう言われたような気がして……」
駄目だった。
何がいけなかったのでしょう。
もっと美しく振る舞えばよかったのでしょうか。
もっと人の目を惹く女性であれば。
もっと、リリアーヌ様のように――
「……っ」
視界が滲みました。
慌てて俯きましたが、少し遅かったようです。
ぽたり、と。
テーブルの上に、雫が落ちました。
「……あ」
泣いています。
わたくしは今、泣いていました。
そう自覚した途端、堪えていたものが崩れてしまいました。
「……ごめ、なさい……」
声が震える。
「ごめんなさい、アネットさん……こんな、つもりでは……」
「リーネ」
アネットが、そっと呼んだ。
「謝らなくていいよ」
その声は、いつもよりもずっと優しかった。
「……でも、わたくし……」
「うん」
「もう、終わったことなのに……っ。わたくしは、もう、あの家の人間ではないのに……どうして、こんなに……」
言葉が続きませんでした。
涙が止まらない。
あの夜、家を出たとき以来です。その時以来、泣いてはいなかったのに。
泣いてしまえば、もう一歩も進めなくなる気がしたから。
だから、ずっと我慢していました。
悲しくないふりをして。
平気なふりをして。
もう過去のことだと、自分に言い聞かせて。
けれど、本当は。
悲しかったのです。
悔しかったのです。
誰かに、頑張ったねとただ、言ってほしかったのです。わたくしは、あの家で過ごした日々を、すべて嫌いになれたわけではなかったのです。
父に認めてほしかった。
婚約者に、選んでほしかった。
いつか、自分のことを大切に思ってくれる人がいるのだと、信じたかった。そんな気持ちを、まだ捨てきれていなかったようです。
「……っ、うぅ……」
両手で顔を覆いました。
涙を見られたくはありませんでした。こんな弱い自分を、知られたくはありませんでした。けれど、アネットさんは席を立つと、わたくしの隣へ回ってきた。
「……リーネ」
彼女は何も言わず、わたくしの背中にそっと手を添えた。
ぽん、ぽん、と。
不器用なくらい、ゆっくりと。
「……泣いていいよ」
その一言で、また涙が溢れました。
「無理して笑わなくていいから」
アネットさんは、ただそう言いました。励ましの言葉も忘れればいいとも、もう気にするなとも言いませんでした。ただ、わたくしが泣くことを、許してくれたのです。
わたくしはしばらく、彼女の隣で泣き続けました。
どれくらい時間が経ったのでしょう。ようやく涙が落ち着いた頃には、もうすっかり午後になっていました。
「……お見苦しいところを、お見せしましたわ」
わたくしがそう言うと、アネットは呆れたように眉を下げた。
「また謝ってる」
「……そう、ですわね」
「いいんだよ。泣きたいときは泣けばいいんだから」
そう言って、アネットは自分の飲み物を手に取った。それから、ふと思い出したように口を開く。
「そういえばさ」
「……何でしょう?」
「リーネって、やっぱり貴族のお嬢様だったんだね」
思わず顔を上げた。
「……やはり?」
「うん。だって、喋り方もそうだし、食事のときの仕草とか、すごくきれいだもん。立ち方も歩き方も、なんていうか……普通の人とは違う感じがするんだよね」
アネットは、悪気のない顔で笑った。
「だから、どこかのお家のお嬢様か、没落しちゃった貴族なのかなって思ってた!」
「……ふふっ」
わたくしは思わず笑ってしまいました。まさか、そんなふうに思われていたとは。
「ある意味では、間違っていませんわね」
「え?」
わたくしは、膝の上で手を重ねました。
「……没落貴族、というのとは少し違いますけれど」
視線が、テーブルの上の新聞へと向かいます。
「わたくしは、もうバルコス公爵家の人間ではありませんから」
口にしてみると、その言葉はひどく冷たく響きまひた。
家名を失ったわけではない。
血筋が変わったわけでもない。
それでも、あの家にはもう帰れない。帰りたいのかどうかさえ、分かりませんでした。ただ、あの家で過ごした時間が、すべて無意味だったとは思いたくはないのです。そんな自分が、まだどこかにいるようです。
「……そっか」
アネットさんは、それ以上詳しく聞こうとはしませんでした、ただ、わたくしの隣に座ったまま、窓の外へ目を向けた。
「じゃあさ」
しばらくして、彼女が言った。
「今は、リーネがどこの家の人かなんて、そんなに大事じゃないんじゃない?」
「……え?」
「だって、今ここにいるリーネは、リーネでしょ?」
あまりにもまっすぐな言葉だった。
「私は、リーネと一緒に冒険してるんだもん。貴族だったとか、どこの家の人だったとか、それだけでリーネのことを決めたりしないよ」
アネットさんは、少しだけ照れたように笑いました。胸の奥がほんの少しだけ温かくなりました。この子は、わたくしの過去を否定しません。だからといって、それだけでわたくしを見ようともしません。
今、ここにいるわたくしを、そのまま受け入れようとしてくれています。
それが、嬉しかったのです。
けれど。
それでも、まだ。
新聞の一面に描かれた二人の姿を思い出すと、胸の奥はちくりと痛みました。あの家を出たからといって、あの人たちへの気持ちまで、きれいに捨てられたわけではありませんでした。
「……アネットさん」
「ん?」
「ひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろん!」
わたくしは、膝の上で重ねていた手をほどきました。そして、ほんの少しだけ迷ったあと、口を開きました。
「……わたくしの、本当の名前をお教えしますわ」
アネットが目を瞬かせる。
「本当の名前?」
「ええ。リーネというのは、冒険者として名乗っている名前ですから」
リーネ。
そう名乗ることにしたのは、あの家の自分と、これからの自分を切り離したかったから。
けれど、今は。
この子には、知っていてほしいと思った。
「わたくしの本当の名は、アイリーン。アイリーン・バルコスです。」
声に出した瞬間、胸が締めつけられた。もう名乗ることはないと思っていた名前。
誇りに思っていた名前。
そして、今では口にするだけで、少しだけ苦しくなる名前。
アネットさんは、しばらく黙っていました。それから、ふわりと笑いました。
「アイリーン……。きれいな名前だね」
「……ありがとうございます」
「でも、リーネって呼んでもいいんだよね?」
その問いに、わたくしは目を見開いた。
「……ええ。もちろんです」
「よかった!」
アネットは、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、これからもリーネって呼ぶね!」
「……はい」
返事をしながら、わたくしは小さく微笑んだ。自分の名前を名乗ることが、こんなにも勇気のいることだとは思いませんでした。それでも、アネットさんになら話せました。まだ、すべてを話せたわけではありません。まだ、過去を振り切れたわけでもありません。
けれど、ほんの少しだけ。
わたくしは、自分のことを誰かに知ってもらえた気がしました。
「……そろそろ、行きましょうか」
わたくしがそう言うと、アネットは勢いよく立ち上がった。
「うん! まだまだ見たいところがいっぱいあるんだから!」
その明るさに、思わず笑みがこぼれる。食堂を出る前に、わたくしはもう一度だけ新聞を見た。
幸せそうに微笑む二人。
胸の痛みは、まだ消えません。
きっと、すぐには消えないのでしょう。それでも。
わたくしは新聞から目を離し、アネットの後を追いました。
今はまだ、それでいい。
そう思うことにしました。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
今回は、リーネがアネットに自分の過去を打ち明けるお話でした。二人の冒険はまだまだ続きます。これからも、リーネとアネットを見守っていただけるとうれしいです!




