第96話 婚約者の隣で、初めて「いいえ」と言わせない
婚約者の名は、優しさだけでは守れない。
昨夜レオンハルトにそう言われた言葉が、翌朝になってもアリア・フォン・ルーヴェルトの胸の中へ静かに残っていた。
優しさを持つな、という意味ではない。
むしろ逆だ。
優しさをただの甘さにしないために、自分が何を守ろうとしているのかを見失うな、という意味なのだと、今のアリアには分かる。
それでもなお、その言葉は少しだけ重かった。
婚約者という立場は、思っていた以上に“情”の扱いを問う。
誰かへどこまで手を差し伸べるか。
誰かの失態をどこまで受け止めるか。
どこで拒み、どこで庇い、どこで一歩も譲らないか。
恋をしているだけなら、もっと単純でいられたかもしれない。
けれど今の自分は、恋と責任の両方を持ったまま立っている。
だからこそ、昨日までより少しだけ難しい。
「お嬢様」
リナが鏡越しにやわらかく声をかける。
「本日は、少しだけお顔が引き締まっておられます」
「そう見える?」
「はい。怖がっているというより、“今日は何が来ても受け止める”と決めていらっしゃるお顔です」
アリアは小さく息を吐いた。
「そうありたいのだけれど」
「もう、かなりそう見えます」
その返しに、少しだけ口元が緩む。
今日の予定は、午前に王宮内の小規模な接遇確認、午後には外部から来る有力伯家との短い面会。
形式上は“婚約者としての顔見せの延長”。
だが、その裏にあるものは分かりきっている。
婚約者として、どこまで口を出すのか。
どこまで影響を持つのか。
そして、どこで揺れるのか。
それを測る場だ。
王宮へ着くと、空気は昨日よりさらに静かだった。
静かであるほど、油断ならない。
南翼の控えの間で、女官長補佐と今日の進行を確認する。
席順に大きな乱れはない。
来客名簿も問題なし。
給仕順も自然だ。
整いすぎている、とアリアは思った。
こういう日は、場の外側より内側――会話の中へ刃が混ざることが多い。
案の定、午後の面会でそれは来た。
訪れたのは、フェルナー伯家の当主夫人と、その娘。
伯家としては堅実で、表向きは王家へ従順。
だが必要とあらばどちらへも身を寄せる器用さを持つ家だと聞いている。
面会の場は小さな応接サロン。
窓から入る午後の光はやわらかい。
茶器も花も上品で、会話だけを切り取れば穏やかな挨拶の時間にしか見えない。
「ルーヴェルト様」
フェルナー伯爵夫人は、最初から丁寧な笑みを崩さなかった。
「このたびは改めて、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「本当に、王都中が驚いておりますのよ。もちろん良い意味で」
“もちろん”とわざわざ付け足すところが、いかにも社交界らしい。
「ありがたいことです」
アリアは微笑みを保って返す。
「ですが、婚約者というお立場になりますと、以前にも増してお忙しいでしょうね」
「ええ。少しずつではありますが」
「そうでしょうとも。殿下の隣に立たれるのですもの」
そこまでは普通だ。
問題は、そのあとだった。
「ですから」
伯爵夫人は扇をわずかに傾けた。
「今後は、殿下が直接ご覧にならなくても済むような細かな案件を、ルーヴェルト様のところで一度お受けくださると、皆とても助かるのではないかと思いますの」
アリアは静かにカップを置いた。
また来た。
婚約者の名を、便利な窓口にしたいという話だ。
しかも今回は昨日までより一段進んでいる。
“招待枠”や“返礼”といった周辺の話ではない。
殿下が直接ご覧にならなくても済むような細かな案件。
つまり、皇太子本人へ行くはずの判断の一部を、婚約者のところで受ける前提を作りたいのだ。
それはもう、曖昧な便宜では済まない。
明確に線を越えようとしている。
「細かな案件、ですか」
アリアが問い返すと、伯爵夫人は柔らかく頷いた。
「ええ。例えば、若い家同士の引き合わせや、地方からの願い出の整理ですとか。もちろん大事には違いありませんけれど、殿下のお手を煩わせるほどではないことも多うございますでしょう?」
その物言いは上手かった。
皇太子を気遣う善意のように聞こえる。
だが実際には、婚約者が“選別の入口”になることを当然のように求めている。
しかも、ここでアリアが少しでも曖昧に頷けば、“婚約者も了承している”という形で後々いくらでも使われるだろう。
伯爵令嬢の方も、母の横で静かにアリアを見ていた。
興味深そうな、しかしどこか値踏みする目。
つまり、ここでの返答は、母に向けたものだけではない。
次の世代にも見られている。
「お気持ちは、ありがたく存じます」
アリアは静かに言った。
まず、相手の顔は潰さない。
けれど、それだけでは終わらせない。
「ですが、そのような形は、私からはお受けできません」
部屋の空気がぴたりと止まる。
伯爵夫人の扇が、わずかに止まった。
娘の目も少しだけ開かれる。
今までのアリアなら、“今はまだ難しいかもしれません”とぼかしたかもしれない。
けれど今は違う。
こういう話に曖昧さを残す方が、後でずっと厄介だともう知っている。
「まあ」
伯爵夫人は笑みを崩さずに言う。
「もちろん、正式な権限という意味ではございませんのよ。ただ、婚約者として一度お耳に入れていただくだけでも」
「それも同じです」
アリアはやわらかく、しかしはっきりと返した。
「婚約者であるからこそ、殿下のお耳に入る前の選別を、私的な場でお受けするべきではないと思っております」
その一言は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
言い切っても、胸はざわつかない。
むしろ、ようやく正しい位置に言葉を置けたような感覚がある。
伯爵夫人の目が、初めてほんの少しだけ鋭くなる。
「……ずいぶん、きっぱりなさるのですね」
来た、とアリアは思う。
ここからは“断ったこと”そのものを、感じの悪さへ落とそうとする段階だ。
だが、今日はその前に終わらせる必要があった。
「はい」
アリアは微笑みを崩さない。
「そうしなければならないことだと思っておりますので」
短く。
余計な説明を足さず。
言い訳もせず。
それだけで十分だった。
伯爵夫人は数秒だけ沈黙し、それから扇を閉じた。
「……なるほど。婚約者というのは、もっと“柔らかく取り持つ”ものかと思っておりましたわ」
その言葉には、わずかな棘があった。
けれど今のアリアには、その棘の先が見える。
柔らかく取り持つ。
それは聞こえはいい。
でも実際には、“都合よく曖昧でいてほしい”という要求にすぎない。
「必要なところでは、そうあるべきなのでしょう」
アリアは静かに答えた。
「ですが、最初から曖昧であってはいけないところもあると思っております」
伯爵令嬢が、そこで初めて小さく息を呑んだ。
たぶん彼女は今の返答を、“感じが悪い”とは受け取らなかったのだろう。
むしろ、婚約者とはこういうふうに線を引くものなのだと、少し驚きながら見ている顔だった。
面会はその後、大きくは荒れずに終わった。
だが、穏やかなまま終わったからこそ、アリアはよく分かっていた。
今の数分が、婚約者としての空気をまた少し変えたことを。
王宮を出る前、当然のように小会議室へ呼ばれる。
扉を開けると、レオンハルトは窓際ではなく机の前にいた。
その表情は静かだが、アリアを見る目はやはりすでに“何があったか”を知っている。
「来たか」
「はい」
「フェルナー伯家か」
「……もうご存じでしたか」
「ある程度は」
ユリウスが横で小さく肩をすくめる。
「相手が早すぎますからね。婚約者を“柔らかな窓口”にしたがる動きは、いずれ来ると思っておりましたが」
やはりそうなのだ。
「どう断った」
レオンハルトの問いに、アリアは今日のやり取りをそのまま話した。
殿下が直接見なくても済む細かな案件を、自分のところで一度受けるよう求められたこと。
それを、婚約者だからこそ受けられないと返したことも。
話し終えると、ユリウスが感心したように目を細めた。
「今度は、きちんと“いいえ”を言わせない形で迫ってきましたね」
「ええ」
アリアは頷く。
「お願いというより、当然の気遣いのように」
「だからこそ厄介だ」
レオンハルトが低く言う。
「そこで曖昧に頷けば、“婚約者自身がその役目を引き受けた”と後でいくらでも言える」
その通りだ。
柔らかな顔をした罠。
王宮と貴族社会がもっとも得意とするやり方かもしれない。
「断れたか」
短い問い。
「はい」
アリアも短く返した。
するとレオンハルトは、一拍置いてからはっきりと言った。
「いい」
その一言が、今のアリアには何より大きい。
「婚約者の名は、優しさだけでは守れない」
昨日の言葉の続きのように、彼は言う。
「だが、拒むべき時に拒めなければ、その名ごと相手に使われる」
アリアは静かに頷く。
「はい」
「今日は、そこを守れた」
守れた。
その言葉に、胸の中の張りつめていたものが少しだけほどける。
「……少しずつですが」
「十分だ」
レオンハルトは短く言い切った。
婚約者の名で、初めて“いいえ”と言わせない。
つまり、相手が“断られる前提のない頼み方”をしてきたところで、きちんと線を引く。
それは、思っていた以上に力の要ることだった。
けれど同時に、その力が自分の中に少しずつ育っているのも感じていた。
「殿下」
「何だ」
「私は、まだ時々、拒むことに慣れません」
「慣れる必要はない」
思いがけない返答だった。
「え?」
「慣れて軽くなる方が危うい」
低い声。
「必要な時に、必要なだけ拒め。それでいい」
その言葉は、今までで一番しっくり来る“婚約者の立ち方”だったかもしれない。
何でも斬る女になる必要はない。
でも、守るために必要な“いいえ”は、自分の意志で言えるように。
王宮の夕方の光が、窓の外でゆっくりと落ちていく。
アリアはその光を見ながら、自分がまた一つ、この席に必要な技を覚えたのだと静かに思っていた。




