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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第95話 婚約者の名は、優しさだけでは守れない

 婚約者の名で初めて誰かを庇った翌日、アリア・フォン・ルーヴェルトは、王宮へ向かう馬車の中で窓の外を見ながら、昨日の出来事を何度も思い返していた。


 自分でも意外だった。


 あの場で身体が先に動いたこと。

 名簿へ落ちかけた蝋を見た瞬間に、ただ“大変”と思うより先に、“このままではあの女官へ責任が落ちる”と考えたこと。

 そして、それを止めるために、自分が膝をつくことへためらいがなかったこと。


 以前の自分なら、もっと迷っただろう。

 婚約者として目立ちすぎてはいけない。

 出しゃばって見られてはいけない。

 そう考えて一瞬遅れたかもしれない。


 でも、今は違った。


 婚約者だからこそ、守るべきものが増える。

 その実感が、少しずつ身体へ馴染み始めているのだ。


「お嬢様」


 リナが向かいから小さく声をかける。


「本日は、少しだけお顔が厳しいです」


「厳しい?」


「はい。怖がっているのではなく、考えていらっしゃるお顔です」


 アリアは窓に映る自分を少しだけ見た。


「そうかもしれないわ」


 昨日、レオンハルトは言った。

 婚約者の席は、もう自分一人を守ればいい席ではないと。


 その言葉が、思っていた以上に胸へ残っている。


 優しさは必要だ。

 でも、優しさだけでは守れない。

 あの場で女官を庇えたのは、ただ情に流されたからではない。

 責任の流れと、落ちる刃の先を見たからだ。


 そういう意味では、あれはもう“優しさ”ではなく、“判断”だったのかもしれない。


 王宮へ着くと、空気は昨日より少しだけ硬かった。


 大きなざわめきはない。

 けれど、視線の止まり方が違う。

 昨日の書類室での一件が、もう王宮の中をひとめぐりしたのだろう。


 婚約者が、自分で膝をついて女官を庇った。

 その出来事は、受け取り方によっていくらでも色を変える。


 気高くもある。

 甘くも見える。

 出しゃばりにも映る。

 あるいは、“婚約者らしい情のかけ方”だと持ち上げる者もいるだろう。


 つまり、また新しい見方の分岐点なのだ。


「ルーヴェルト様」


 南回廊を歩いていると、年配の侍女が立ち止まって礼を取った。


「昨日は、お見事でございました」


 その声は丁寧だった。

 だが、アリアはすぐに“何がお見事なのか”までは問わなかった。


「ありがとうございます」


 ただそれだけ返す。


 褒め言葉の形をしていても、中に何が混じっているかは分からない。

 婚約者になってからは、そういう“やわらかい刃”も増えた。


 この日の予定は、午前が王宮内の帳簿確認、午後には王家寄りの古い家格を持つ夫人たちとの短い立ち話だった。

 後者は特に厄介だと、アリアは予感していた。


 古い家格を持つ夫人たちは、露骨に敵意を見せない。

 その代わり、“教える”顔で試し、“慮る”顔で押し、“心配する”顔で線を越えてくる。


 優しさだけでは守れない相手だ。


 午前の帳簿確認では、目立った綻びはなかった。

 むしろ、妙に整いすぎているほどだ。

 それがかえって不気味だった。


 嵐の前、相手が一度引いて、こちらの油断を待つ。

 そういう間にも見える。


 そして、予想通り午後にそれは来た。


 立ち話の場は、王宮の西翼にある小サロンだった。

 壁には古い王家の織章。

 花は控えめ。

 そしてそこへ集まったのは、公爵夫人一人、侯爵夫人二人、伯爵夫人二人。

 皆、年は上。

 皆、笑みが穏やか。

 そして、穏やかな女たちほど怖いことを、アリアはもう知っている。


「ルーヴェルト様」


 最初に声をかけてきたのは、グランディル侯爵夫人だった。


「昨日のこと、少し耳にいたしましたの」


 来た、と思う。


 もちろん来るだろう。

 でも、やはり早い。


「そうでしたか」


「ええ。婚約者自らが女官を庇われたとか」


 その“庇われた”という言い方が、すでに評価を含んでいる。

 称賛にもできるし、甘いと切ることもできる言葉だ。


「大したことではございません」


 アリアは淡々と返した。


「そうかしら」


 侯爵夫人は扇をゆるく揺らす。


「婚約者という立場で、あまり現場へ情をかけすぎるのも考えものだと思いますわ」


 やはり、そこへ来た。


 情をかけすぎる。

 つまり、昨日の行動を“優しいが甘い”へ落としたいのだ。


「お気遣いありがとうございます」


 アリアは笑みを崩さない。


「ですが、私は情だけで動いたつもりはございません」


 その一言で、空気が少しだけ締まる。


 夫人たちは皆、表情こそ変えないが、耳は確実にこちらへ向く。


「まあ」


 今度は別の伯爵夫人が口を挟む。


「では、何で動かれたのです?」


 問い方はやわらかい。

 だが、本質は鋭い。


 アリアは一拍だけ置いた。

 急いで返さない。

 少し考えてから答える方が、この場ではよい。


「責任の流れを見たからです」


 そう言うと、何人かの目がわずかに細くなる。


「責任の流れ?」


「はい」


 アリアは静かに続ける。


「昨日のあの場で、もし私が何もせず立っていたら、責任はあの女官一人へ落ちたでしょう」


 そこまでは事実だ。

 誰も否定しない。


「ですが、それで終わる話ではなかったと思います」


「どういう意味かしら」


「婚約者がいる場で、王宮の女官が萎縮して失態を犯した」


 アリアは穏やかなまま言葉を置く。


「そう受け取られれば、あの失態はあの女官一人のものではなく、場そのもののものになります」


 サロンの空気が、また少しだけ変わる。


「ですから私は、あの女官を“甘やかした”のではなく、その場の責任が不必要に一人へ落ちないよう整えたつもりです」


 言い切ると、しばし沈黙が落ちた。


 伯爵夫人の一人が、やや意外そうに目を瞬いた。

 侯爵夫人も扇を止める。


 彼女たちはきっと、“優しくて結構ですわね”か、“浅慮でした”のどちらかへ持っていきたかったのだろう。

 だが今の返答は、そのどちらにも乗っていない。


 情ではなく判断。

 そして優しさではなく責任。


 そう返されると、切り口を一段変えなければならない。


「……ずいぶん、冷静にご覧になるのね」


 グランディル侯爵夫人がようやく言う。


「そうでなければ、婚約者という席では足りないと思っております」


 アリアは静かに答えた。


 以前の自分なら、ここで“まだ学ぶことばかりです”と少し引いたかもしれない。

 だが今は違う。


 婚約者の名は、ただ柔らかく礼を返すだけでは守れない。

 必要な時は、自分がどういう考えで立っているかを示さなければならない。


 侯爵夫人はしばらくアリアを見ていたが、やがて扇を閉じて小さく笑った。


「なるほど。では、ただの優しいお嬢様ではないのですね」


 その言葉が褒め言葉かどうかは分からない。

 けれど少なくとも、“甘い婚約者”という扱いはここでは崩れたのだろう。


「優しさだけでは守れないこともございますから」


 アリアがそう返すと、伯爵夫人の一人がほんの少しだけ息を漏らした。

 驚いたのか、感心したのか、半々といったところだろうか。


 短い立ち話は、その後は表向き穏やかに終わった。

 だがアリアの中には、はっきりしたものが残った。


 婚約者の名で誰かを庇う。

 それは美談にもできる。

 でも、そこへ酔ってはいけない。

 次には必ず、“それは甘さではないのか”という刃が来る。


 だからこそ、優しさの中に判断が要るのだ。


 夕刻、小会議室へ呼ばれると、レオンハルトはすでにその一件を聞いていた。


「今日は、昨日の件を使われたな」


 第一声がそれだった。


「ええ」


 アリアは頷く。


「優しさに見せて、甘さへ落としたかったのでしょうね」


「どう返した」


 アリアがそのまま話すと、隣でユリウスが小さく感心したように息を吐く。


「良い切り返しです」


「そうでしょうか」


「はい。情を否定せず、でも判断の話へ引き上げた」


 まさにそれが、今日の肝だったのだろう。


 レオンハルトも短く頷いた。


「いい」


「ありがとうございます」


「婚約者の名は、優しさだけでは守れない」


 低く、はっきりした声。


「だが、優しさを捨てればいいわけでもない」


 アリアは静かにその続きを待った。


「必要なのは、何を守るための優しさかを、自分で分かっていることだ」


 その言葉は、今日の自分の感覚とぴたりと重なった。


 昨日、女官を庇った。

 でもそれは、単に優しい女になりたかったからではない。

 場と責任の流れを守るためだった。


 そこが分かっているなら、次に“甘い”と言われても、もう揺らがない。


「……少しずつ、分かってきました」


 アリアがそう言うと、レオンハルトの目がわずかに細まる。


「そうだろうな」


 短い。

 けれど、今はその短さが心地よい。


 王宮の夕方の光が、窓の外でゆっくりと薄れていく。

 婚約者の名は、優しさだけでは守れない。

 けれど、優しさを持ちながら守ることもできる。


 その難しさごと、自分はこの席で覚えていくのだろうと、アリアは静かに思っていた。

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