表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

92/127

第92話 婚約者の沈黙は、時に最も強い返答になる

 婚約者の名で初めて拒んだ翌朝、アリア・フォン・ルーヴェルトは、自分でも少し意外なほど落ち着いて目を覚ました。


 昨夜は、もっと長く眠れないかと思っていた。

 セルディア侯爵家の若夫人へ、はっきりと線を引いた。

 それは間違いなく必要なことだったし、レオンハルトもユリウスも“よい”と言ってくれた。

 けれど、ああいう断り方をした以上、次は別の形で反応が返ってくるだろうとも分かっていた。


 だから、本来ならもっと胸がざわついていてもおかしくない。


 なのに今朝の心は、妙に静かだった。


「……慣れた、わけではないのだけれど」


 ベッドから起き上がりながら、小さくそう呟く。


 慣れたのではない。

 ただ、ようやく分かってきたのだ。


 婚約者という立場は、誰にでも笑顔で頷いていれば務まるものではない。

 受けるべきものと、受けてはならないもの。

 近づけるべき相手と、距離を保つべき相手。

 その線を、自分の手で引かなければならない。


 そのことを知ってしまったからこそ、昨日の“拒む”という一歩も、自分の中でちゃんと意味を持てているのだろう。


「おはようございます、お嬢様」


 リナが部屋へ入ってくる。


「おはよう」


 いつも通りの挨拶。

 だがリナはすぐに、鏡の前へ座ったアリアの顔を見て、少しだけ目を細めた。


「本日は、少しだけ静かなお顔です」


「最近、それをよく言われるわね」


「ええ。でも今日は、昨日までとも違います」


「どう違うの?」


 リナは髪を梳かしながら、言葉を選ぶように少し考えた。


「何かを受け止める前の静けさではなく、受け止めた後の静けさです」


 その表現が、驚くほどしっくりきた。


 たしかにそうだ。

 昨日、自分は婚約者としての最初の“拒む”をやった。

 受けるだけではなく、返した。

 だから今朝の静けさは、不安の前触れではなく、一つ越えた者の静けさなのかもしれない。


「ありがとう」


 アリアは鏡越しに小さく微笑んだ。


 朝食の席で、クラウディアは娘を見るなりすぐに察したらしい。


「昨日は、きちんと断れたようね」


 第一声がそれだった。


 アリアは少しだけ目を瞬いた。


「……お母様には、隠し事ができませんね」


「する必要もないでしょう?」


 その返しに、思わず少しだけ笑ってしまう。


「ええ。そうですね」


「どうだったの」


 クラウディアはカップを置き、静かに問う。


「怖かった?」


「はい。でも」


 アリアはひと呼吸置いてから答えた。


「思っていたより、後味は悪くありませんでした」


 それは本音だった。


 昔なら、誰かを拒むことは、そのまま“感じの悪い女”になることのようで怖かった。

 だが今は違う。

 昨日の拒絶は、自分を高く見せるためでも、相手を見下すためでもない。

 守るべき線を守るためのものだった。


 そう思えるだけで、ずいぶん違う。


「なら、いい変化よ」


 クラウディアはそう言って、小さく頷いた。


「婚約者という立場は、受け入れる力と同じくらい、受け入れない力も要るもの」


 アリアは静かにその言葉を受け止める。


「ただし」


 と、母は続けた。


「何でもかんでも言い返せばいいわけでもない」


「ええ」


「時には、沈黙の方が強いこともある」


 その一言は、朝の静かな食卓に深く落ちた。


 沈黙の方が強い。

 その意味を、アリアは考える。


 断るべき時は断る。

 でも、すべてに反応していては、相手の土俵へ乗ることにもなる。

 婚約者としての強さは、ただ鋭く返すことだけではないのだろう。


 その日の王宮入りは、予定より少し遅い時間だった。


 午前の予定は、王宮側から届いた書状の確認と、今後の行事予定のすり合わせ。

 大きな会食や茶会ではない。

 むしろ、こういう“合間”の方が油断ならない。


 王宮へ着き、南翼の小文書室へ案内されると、そこには若い文官補佐が二人と、見慣れぬ年配女官が一人いた。

 女官長補佐ではない。

 しかし、その立ち位置からして、王宮内の内務寄りの人間らしい。


「ルーヴェルト様」


 年配女官が、礼儀正しく頭を下げる。


「本日は、今後の招待状の扱いと返答先の整理について、少しご相談を」


 相談。

 その言葉に、アリアは心の中で小さく身構えた。


 昨日の今日だ。

 “婚約者の名”をどこまで使わせるか、探りが続いているのかもしれない。


「分かりました」


 席へ着き、差し出された書類へ目を通す。


 大筋は普通だった。

 今後アリア宛てに届く招待状や私信が増えることを見越し、王宮側でどこまで整理するか。どこから先をルーヴェルト家経由とするか。

 それ自体は必要な打ち合わせだ。


 だが、三枚目に目を移したところで、アリアの指先が止まる。


 “婚約者判断にて返答可”


 その文言が、いくつかの項目に紛れ込んでいたのだ。


 王宮小規模茶会。

 若手令嬢交流会。

 地方貴族家夫人との面談。

 それらの一部に、“婚約者判断”で返答を許すとある。


 違和感しかなかった。


 正式な婚約者であることと、独断で返答権を持つことは別だ。

 ここを曖昧にすれば、“婚約者のくせに勝手に動いている”という刃を、あとからいくらでも作られる。


「……こちら」


 アリアが静かに紙を示すと、年配女官が目を向ける。


「何か不備が?」


「不備というより、確認です」


 アリアは落ち着いて言った。


「この“婚約者判断にて返答可”という表現は、正式な決裁線として認められているものですか」


 空気が、一瞬だけ止まった。


 若い文官補佐の一人が、わずかに視線を泳がせる。

 やはり、と思う。


 年配女官は表情を崩さず答えた。


「実務上の便宜を考えまして」


「便宜は分かります」


 アリアは相手の言葉を遮らない程度に、しかしはっきりと返す。


「ですが、私にその権限が正式に明示されていない以上、この表現は曖昧すぎると思います」


 年配女官の目が、ほんの少しだけ細くなった。


「婚約者でいらっしゃるのですから、いずれは必要になる権限かと」


 その一言は、まるでこちらの慎重さの方が小さいように響く。

 だが、アリアはもうそこで焦らなかった。


 ここで反発すれば、“堅すぎる婚約者”になる。

 曖昧に受ければ、“勝手に動く婚約者”になる。


 ならば、どちらにも乗らない。


「いずれ必要になることと、今受け取ってよいことは別です」


 静かに言う。


「正式な決裁線が定まるまでは、私判断で返答するべきではありません」


 そこまでは、昨日の拒み方に近い。

 だが今回は、相手がさらに押してきた。


「ですが、それでは今後の流れが少々煩雑に――」


「構いません」


 アリアは微笑んだ。


 やわらかく。

 けれど、少しも譲らずに。


「婚約者という立場であるからこそ、曖昧な便宜はお受けしない方がよろしいと思います」


 そして、そこであえてそれ以上を付け加えなかった。


 責めもしない。

 疑いもしない。

 “誰がこんな文言を入れたのですか”とも言わない。


 ただ、受けない。

 理由も、十分にもっともらしい形で示した上で。


 沈黙が落ちる。


 長くはない。

 だが、相手には十分な長さだったはずだ。


 若い文官補佐が先に視線を落とした。

 年配女官も、さすがにそれ以上は押せなかったらしい。


「……承知いたしました」


 彼女は一礼し、書類を引き戻す。


「では、該当箇所は削除の上、通常の返答線へ戻します」


「お願いいたします」


 アリアはそれだけ返した。


 終わってみれば、会話はほんの数分だ。

 だがその数分の中で、かなり多くのものをかわした気がした。


 沈黙の方が強い。

 朝、クラウディアが言った意味が、今ならよく分かる。


 怒らない。

 問い詰めない。

 ただ、受け取らない。

 それだけで、相手はそれ以上の足場を失うのだ。


 文書室を出た時、リナが小さく息を吐いた。


「お嬢様」


「何?」


「今のは……本当にお見事でした」


「何もしていないわ」


「いいえ」


 リナは首を振る。


「何もしていないように見せて、きちんと拒んでおられました」


 その言い方が、まさに今の自分の感覚に近かった。


 強く切ることだけが拒絶ではない。

 沈黙と微笑みで、“ここから先へは入れません”と示すこともまた、婚約者の技なのだろう。


 夕刻、小会議室へ呼ばれると、レオンハルトはすでに報告を受けていたらしい。


「文書室で何かあったな」


 第一声がそれだった。


 アリアは小さく苦笑する。


「本当に、何でもご存じなのですね」


「必要だからな」


 その返答はいつも通りだ。

 だが今はもう、それを責める気にもならない。


 アリアは今日のやり取りを簡潔に伝えた。

 “婚約者判断にて返答可”という曖昧な表現。

 便宜の名を借りて、あとからいくらでも刃になるような権限。

 それを、あえて大ごとにせずに削除させたことも。


 話し終えると、ユリウスが低く唸るように言った。


「早いですね。もう“婚約者に自分から線を越えさせる”形へ切り替えてきた」


「ええ」


 アリアは頷く。


「昨日のような“こちらから頼ませる”形ではなく、今度は“最初から権限があるように見せる”形でした」


「そうだ」


 レオンハルトが短く言う。


「受ければ、あとで“婚約者のくせに勝手に返答した”と使われる」


「はい」


「断ったか」


「ええ。でも……」


 アリアは少し迷ってから言う。


「今日は、きっぱりと言い返したというより、受け取らないようにしました」


 その瞬間、レオンハルトの目がほんの少しだけ細まる。


「どういう意味だ」


「問い詰めず、疑わず、ただ“今は受け取れません”とだけ」


 短く説明すると、レオンハルトはしばらく黙っていた。

 そして、ゆっくりと頷く。


「それでいい」


 低い声が落ちる。


「婚約者の沈黙は、時に最も強い返答になる」


 アリアはその言葉に、静かに息を吸った。


 まさに今、自分が感じていたことを、そのまま言葉にされた気がした。


「……今朝、お母様にも似たことを言われました」


「そうか」


「ようやく少しだけ分かった気がします」


 アリアは小さく目を伏せ、それから言った。


「すべてを切り返さなくてもいいのですね」


「当然だ」


 レオンハルトは迷いなく言う。


「いちいち刃を抜けば、相手の土俵へ乗る。だが受け取らなければ、そもそも勝負にならない」


 その考え方は、王宮らしくて、そしてひどくこの人らしかった。


「……婚約者になると、学ぶことが増えます」


 思わず本音が漏れると、ユリウスがわずかに笑う。


「これでもまだ序の口でしょうね」


 それを聞いて、アリアは少しだけ肩を落としそうになった。

 だが同時に、もう不思議と逃げたい気持ちにはならない。


 微笑みを盾にし、沈黙を返答に変え、必要な時だけ言葉を置く。

 少しずつでも、自分はその席にふさわしい立ち方を覚え始めている。


「……でしたら、もっと覚えます」


 アリアがそう言うと、レオンハルトは静かに彼女を見た。


「ああ」


 短い。

 でも、その一言には確かな信頼があった。


 婚約者の名で、初めて拒んだ昨日。

 そして今日、婚約者の沈黙で初めて返した。


 小さな一歩ではある。

 けれど確かに、自分はこの場所で生きる技を、少しずつ身につけ始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ