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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第93話 婚約者の一礼が、王宮の空気を変える

 婚約者の沈黙で初めて返した翌朝、アリア・フォン・ルーヴェルトは、鏡の前で自分の姿を見つめながら、ようやくひとつの実感を持っていた。


 婚約者という立場は、言葉を多く持つことではないのかもしれない。


 むしろ逆だ。

 どこで言葉を使い、どこで沈黙し、どこで微笑みだけを置くのか。

 それを選べることが、この席に座るための強さなのだと、昨日ようやく少しだけ分かった気がしていた。


「お嬢様」


 リナが背後で髪を整えながら、小さく言う。


「本日は、昨日までより肩の力が抜けていらっしゃいます」


「そう見える?」


「はい。でも、気が緩んでいるのではなく……」


 そこで少し考え、リナはやわらかく言い直した。


「立ち方が定まり始めた方のお顔です」


 アリアは鏡越しに小さく笑った。


「最近、ずいぶん上手に言葉を選ぶようになったわね」


「お嬢様をお傍で見ておりますと、私まで少し勉強になりますので」


 その一言に、アリアの胸が静かにあたたかくなる。


 悪役令嬢と呼ばれていた頃、自分の周囲にはいつも“見るだけの目”が多かった。

 今は違う。

 見て、支え、変化を一緒に受け止めてくれる人がいる。


 それだけでも、自分はずいぶん遠くまで来たのだと思えた。


 この日の予定は、午前に王宮内の祈祷式への列席、午後に王宮内務側との小規模な顔合わせ。

 どちらも大きな晴れ舞台ではない。

 だが、こういう“日常に近い公的な場”ほど、婚約者の立ち方がそのまま見られるのだと、今のアリアはもう知っている。


 王宮へ着くと、いつもより少しだけ人の流れが多かった。

 祈祷式の日だからだろう。

 だがそれだけではない。


 正式発表から数日。

 婚約者としてのアリアを、王宮の人々はまだ新しい目で見ている。

 珍しさは薄れ始めている。

 けれど代わりに、“この先も本当にこの空気で立てるのか”を確かめる目が増えていた。


 南回廊を通って小礼拝堂へ向かう途中、王宮付きの年配女官が二人、少し離れた位置で頭を下げる。

 以前と同じような礼ではある。

 だが、わずかに角度が深い。


 それだけで、空気の変化は分かった。


「お嬢様」


 リナが小声で言う。


「今日も、見られておりますね」


「ええ」


「でも昨日までと少し違います」


「どう違うの?」


「試す目と、見定めた後の目が混ざっております」


 たしかにそうだとアリアも思う。


 すでに“ただの候補”として見る者は減った。

 今は“婚約者としてどう振る舞うか”を見る者と、“もうこの立場は動かない”と受け入れた者が混ざっている。


 その差は、大きいようでいて、実はとても繊細だ。


 祈祷式そのものは厳かに始まった。


 王宮内の小礼拝堂は、光の入り方がどこか静かで、朝の空気まで薄く洗われているように感じる場所だった。高い窓から落ちる光が石床へ細く伸び、祈祷師の低い声が、装飾の少ない壁に反響して消えていく。


 列席者は多くない。

 王宮に近い貴族家の者たちと、王家側の限られた顔ぶれ。

 そして、その中でアリアはもう、ただの来賓ではなく、皇太子の婚約者として定められた位置へ立っていた。


 それだけで、背中へ落ちる視線の質が変わる。


 始まる前、列の整えで小さなずれが起きた。


 本来、王家側へ一段近い位置に立つべき伯爵夫人が、誤って外側へ案内されていたのだ。

 目立つほどではない。

 だが、そのまま始まれば“婚約者が側にいながら気づかなかった”と後で十分に言われうる程度の乱れだった。


 アリアはすぐに声を上げなかった。


 昨日学んだばかりだ。

 すべてを言葉で切り返さなくてもいい。


 まず、祈祷式係の女官の視線へ入る位置へ半歩だけ動く。

 次に、自分の礼の角度をほんのわずかに変え、その夫人の位置へ自然に目線を向ける。

 そして、女官と視線が合った瞬間、ごく小さく首を引く。


 それだけで十分だった。


 女官は一瞬だけはっとして、流れを崩さぬよう夫人の位置を整えた。

 誰も恥をかかない。

 誰も騒がない。

 だが、場はきちんと戻る。


 祈祷が始まり、低く祈りの言葉が満ちる中で、アリアは自分の呼吸がいつもより少しだけ深くなっているのを感じた。


 前なら、こういう小さな綻びを見つけるたび胸がざわついた。

 今は違う。

 ざわつきはある。

 でも、そこで終わらない。

 どう動けば場を崩さずに戻せるか、その方へ意識が向く。


 それはたぶん、婚約者という席が少しずつ身体へ馴染み始めているということなのだろう。


 祈祷式が終わり、礼拝堂を出る流れの中で、先ほど位置を整えられた伯爵夫人が、アリアのすぐ横を通った。

 その時、夫人は立ち止まりこそしなかったが、ほんの一瞬だけ視線を寄せ、ごく小さく頷いた。


 言葉はない。

 けれど、それで十分だった。


 言葉にしない礼。

 王宮では、そういうものの方がよほど本音だったりする。


 午後の顔合わせは、内務寄りの管理官たちとの短い会だった。


 婚約者として今後増える招待、贈答、文書類の整理。

 形式だけ聞けば地味だ。

 だが、こういう地味な部分こそ、後から“勝手に動いた”“線を越えた”と使われる危険をはらんでいる。


 だからこそ、アリアは最初から気を抜かなかった。


 会の半ば、若い文官補佐が書類の束を差し出しながら、さらりと言った。


「婚約者様のお名前で返礼を先にお出ししておけば、先方も安心なさるかと」


 言い方は自然だった。

 だが、そこに含まれる危うさを、アリアはもう聞き逃さない。


 先に返礼を出す。

 婚約者の名で。

 正式な決裁線より前に。

 つまり、それは昨日と同じ種類の“便利そうに見える越権”だ。


 アリアは書類を受け取ったまま、すぐには返事をしなかった。


 沈黙。


 長くはない。

 だが、場にいる全員がその静けさを意識するには十分な長さ。


 若い文官補佐が、わずかに目を泳がせる。

 年配の管理官も、横目でこちらを見る。


 そしてアリアは、やわらかく微笑んだ。


「そのお気遣いは、ありがたく存じます」


 まず、相手の顔は潰さない。


「ですが、順序を曖昧にしたくはありません」


 静かに、しかし一切の迷いなく言う。


「婚約者としての名があるからこそ、返礼の線も正式な流れに従いたいのです」


 それだけ。


 余計な説明は足さない。

 疑いも責めも混ぜない。

 ただ、きちんと断る。


 先日のアリアなら、ここでさらに何か付け足したかもしれない。

 でも今は分かっている。

 正しい線を静かに置くこと自体が、最も強い返答になる時があるのだと。


 管理官が一度だけ咳払いをした。


「……その通りでございますね」


 若い文官補佐も、もうそれ以上は押せなかった。


「失礼いたしました」


 それで会は終わった。

 表向き、何事もなく。


 けれどアリアには分かる。

 今の数分で、“この婚約者は笑って受け流すだけではない”という印象がまた一つ積まれたのだ。


 夕刻、小会議室へ呼ばれた時、レオンハルトは書類から目を上げるなり言った。


「今日、また断ったな」


 第一声がそれで、アリアは思わず小さく息を漏らした。


「本当に、何でもご存じですね」


「必要なことはな」


「ええ。……また、少しだけ」


「今度は何だ」


 アリアは午後のやり取りを手短に伝えた。

 婚約者の名で先に返礼を出す提案。

 それが一見親切に見えて、実際には危うい線であること。

 だからこそ、沈黙を置いてから、きちんと順序を守ると返したこと。


 話し終えると、ユリウスが感心したように小さく頷く。


「もう、きちんと癖になり始めていますね」


「癖、ですか」


「はい。以前なら“感じよくしなければ”が先に立ったでしょう。でも今は、“どの線を越えさせてはいけないか”から先に見ている」


 その言葉に、アリアは少しだけ目を伏せた。


 たしかにそうだ。

 変わったのだろう。

 少しずつ。だが確実に。


「レオンハルト」


 ユリウスが横目で言う。


「これはもう、あなたが思っている以上に王宮向きかもしれませんね」


 レオンハルトは一拍置いてから、アリアを見た。


「だろうな」


 その短い返答が、なぜかとても嬉しかった。


「……でも」


 アリアは小さく言う。


「毎回、少しだけ怖いのです」


「そうだろうな」


「黙って返す方が、時には言い返すよりずっと難しい気がいたします」


 するとレオンハルトは、低くはっきりと言った。


「それが出来るから、強い」


 胸が、ひとつ大きく鳴る。


 強い。

 その言葉は何度かもらってきた。

 でも今のそれは、ただ耐えたことへの褒め言葉ではない。

 婚約者として、自分の立場と線を守れたことへの評価だった。


 アリアは静かに息を吸う。


「……少しずつ、覚えていきます」


「ああ」


「婚約者として」


「そうだ」


 短いやり取りのあと、小会議室の窓の外へ目をやると、王宮の庭は薄い夕闇に包まれ始めていた。


 婚約者の一礼。

 婚約者の微笑み。

 そして婚約者の沈黙。


 それら一つひとつが、少しずつ王宮の空気を変えていく。

 派手ではない。

 けれど、たしかに。


 アリアはその静かな変化の中で、自分がもう“巻き込まれているだけの少女”ではないことを、改めて感じていた。

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