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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第91話 婚約者の名で、初めて拒む

 婚約者という立場は、不思議なものだとアリア・フォン・ルーヴェルトは思う。


 名を与えられる前は、曖昧さに苦しんだ。

 近いのに何者でもないように振る舞わねばならず、守られているのに、まだ自分からは何も返せぬような、じれったい時間が続いていた。


 けれど、いざ名を得てみれば、今度はその名そのものが、甘さと重さを同時に連れてくる。


 皇太子の婚約者。

 その言葉はもう誰にも否定できない。

 だからこそ、こちらを利用しようとする者も、試そうとする者も、以前よりはっきりと増えた。


 今朝もそうだった。


 王宮へ向かう支度を整えながら、アリアは胸元で静かに息を整えていた。

 今日は午前に王宮内の文書確認、午後には王家寄りの貴族家から訪れる若い夫人との顔合わせが予定されている。


 ごく軽い予定に見える。

 だが、こういう“軽く見える日”ほど油断はできない。

 正式な晩餐会や大きな儀礼では、皆それなりに構える。

 その代わり、日常に近い場の方が、人は本音を混ぜやすいのだ。


「お嬢様」


 リナが最後に襟元を整えながら言った。


「本日は、少しだけ静かなお顔です」


「緊張していないように見える?」


「いえ。緊張はなさっております。でも昨日までと違って、受けるだけではなく、選ぶ側のお顔です」


 選ぶ側。


 その言葉が、今のアリアにはしっくりきた。


 婚約者という立場は、ただ見られるだけではない。

 どこで受け、どこで返し、どこで線を引くか。

 その判断もまた求められる。


「ありがとう」


 アリアは鏡の中の自分へ、小さく頷いた。


 王宮へ着くと、午前の空気は比較的穏やかだった。

 書類確認も滞りなく進み、女官長補佐とのやり取りもごく自然に終わる。

 細かなずれはないわけではない。

 だが、最近のような露骨な綻びは見当たらない。


 それがかえって、少しだけ不気味だった。


 嵐の前の静けさ、というほど大げさではない。

 けれど、“今日は別の角度から来るかもしれない”という予感だけが、胸のどこかに残る。


 午後、顔合わせの場に用意されたのは、王宮の南翼にある比較的小さな応接サロンだった。


 来るのは、王家と縁の深いセルディア侯爵家の若夫人と、その義妹である令嬢。

 表向きは“婚約後の挨拶”。

 だが実際には、今後どこまで距離を詰められる相手かを探る意味合いもあるのだろう。


 セルディア侯爵家は、表立って敵対する家ではない。

 だが、風見鶏のように立ち位置を変えることでも有名だった。

 味方になれば頼もしい。

 だが甘く見せれば、すぐにこちらの線を越えてくる。

 そういう家柄だと、クラウディアからも聞かされている。


「ルーヴェルト様」


 若夫人は、入室したアリアを見るなり、いかにもやわらかな笑みを浮かべた。


「改めまして、このたびはおめでとうございます」


「ありがとうございます」


 礼を返す。

 若夫人は二十代半ばほどだろうか。

 愛想のよい目元をしている。

 だが、その目の奥で何かを測っているのはよく分かった。


「本当に、あっという間でしたわね」


 座るなり、そう言う。


「殿下のご寵愛がどれほど深いのか、王都中が今さら驚いておりますの」


 その“ご寵愛”という言い方に、アリアは内心で小さく息をついた。


 来た。

 そう思う。


 婚約を、まず恋情だけのものへ矮小化したいのだ。

 そうすれば、その次に“でも婚約者となると別ですわよね”と持っていきやすい。


「ありがたいことに、皆様から過分なお言葉をいただいております」


 アリアは淡々と返した。


 若夫人は扇を揺らしながら、少し身を乗り出す。


「でも、婚約者ともなると大変でしょう? 王宮のお仕事も、もう半ば殿下の代理のように動かれることもあるのでしょうし」


 半ば代理。

 そこまで大げさではない。

 だが、誇らしげに否定すれば“出しゃばる婚約者”へ見せられる。

 謙遜しすぎれば“では何もできないのですね”と返される。


 つまり、ここでも試されているのだ。


「代理というほどではございません」


 アリアは静かに言った。


「ただ、必要な役目を少しずつ学んでおります」


「まあ、なんて慎ましいの」


 若夫人はそう言って笑う。

 だが、その“慎ましい”に含まれる響きは褒め言葉だけではない。


 横に座る義妹令嬢が、ここで初めて口を開いた。


「でもルーヴェルト様は、今後もっと表へ出られるのではありませんか?」


「そういう機会は増えるかもしれません」


「でしたら」


 令嬢は少しだけ首を傾ける。


「こちらからも、いろいろご相談申し上げやすくなりますわね」


 その一言に、アリアの中で何かが静かに固まる。


 相談。

 つまり、婚約者という立場を使って便宜を求めたいということだ。


 まだ婚姻も正式に整いきっていない段階で。

 しかも、こういう柔らかな場で、まず“親しさ”を作ってから線を越えようとしている。


 婚約者の名で、最初に求められるもの。

 それは祝福ではなく、こういう“近道”なのだろう。


「ご相談、ですか」


 アリアはやわらかく問い返した。


「ええ。例えば、今後の王宮行事の席順や、若い令嬢たちの招待枠ですとか」


 若夫人が自然に話を継ぐ。


「もちろん、今すぐどうこうではありませんの。ただ、ルーヴェルト様のお立場なら、事前に少しお考えを伺えるだけでも助かる方は多いでしょう?」


 言い方は上手い。

 頼み込むのではなく、“皆が助かる”話に見せる。

 そして“あなたの立場ならできるでしょう”と半ば当然のように置いてくる。


 以前のアリアなら、ここで少し揺れたかもしれない。

 無下に断って感じが悪く見えたくない。

 けれど、曖昧に頷けば線を越えられる。


 まさに、婚約者になった今だからこそ来る種類の刃だった。


 アリアはゆっくりとカップを置く。


 微笑みは崩さない。

 けれど、内側の姿勢は静かに決めた。


「恐れ入ります」


 まずは礼を置く。


「ですが、そのようなことは、私的な場でお受けするべきではないと思っております」


 空気が、ほんのわずかに張る。


 若夫人の扇が止まる。

 義妹令嬢も瞬きを忘れたように見えた。


「まあ」


 若夫人が、やや遅れて笑みを戻す。


「そのような大げさな意味ではなくて」


「ええ。存じております」


 アリアはやさしく言う。


「ですから、なおのことです」


 その一言で、線を引く。


「私は今、婚約者という立場をいただいております。だからこそ、その立場に寄りかかるようなことは、私から先にしてはならないと考えております」


 若夫人の目が、わずかに細くなる。

 だが表情は崩れない。

 それはこちらも同じだった。


「必要なことがございましたら、正式な流れを通していただくのがよろしいかと」


 丁寧に。

 だが、曖昧さは残さない。


 義妹令嬢が少しだけ口を引き結ぶ。

 若夫人は、数秒ぶんの沈黙のあと、ようやく小さく笑った。


「……やはり、ルーヴェルト様はしっかりしていらっしゃるのね」


 それは褒め言葉のようでいて、今回は少しも褒めていない。

 断られた側の、かすかな棘が混じっている。


 アリアは変わらず微笑む。


「そうであれたらと努めております」


 応接の時間は、その後も表向き穏やかに終わった。

 だが、最後まで“こちらの線を探る会”であったことは明らかだった。


 サロンを出たあと、リナが小声で言う。


「今のは……」


「ええ」


 アリアは静かに頷いた。


「初めて、婚約者の名で拒んだわ」


 その言葉を口にして、自分でも少しだけ驚く。


 悪役令嬢と呼ばれた頃の自分なら、ああいう場で“きちんと断る”ことは難しかった。

 感じよくかわして曖昧にしようとしたかもしれない。

 でも今は違う。


 婚約者だからこそ、曖昧にしてはいけないこともある。

 そのことが、ようやく身体へ落ちてきていた。


 夕刻、小会議室へ呼ばれると、ユリウスがいつもより先に顔を上げた。


「どうでしたか」


「祝福の顔をした探り、でした」


 アリアがそう答えると、レオンハルトの目がすっと細くなる。


「具体的には」


 アリアは、セルディア侯爵家の若夫人たちとのやり取りを、そのまま伝えた。

 若い令嬢の招待枠。

 王宮行事の席順。

 “少しお考えを伺えるだけで”という言い回し。

 そして、それを私的な場では受けないと、きちんと断ったことも。


 話し終えると、部屋の空気が一瞬だけ静まり、それからユリウスが小さく息を吐いた。


「……早いですね」


「何がでしょう」


「婚約者の名を、便宜の通路にしたがる動きです」


 やはりそうか。

 アリアは胸の内で静かに理解する。


 敵意だけではない。

 利用したいという“好意的な顔”もまた、婚約者に向けられる刃の一つなのだ。


「断ったか」


 レオンハルトの問いは短い。


「はい」


「どう断った」


 アリアがほぼそのまま答えると、彼は一拍置いてから言った。


「いい」


 それだけ。

 だが、その“いい”はいつもより少し深かった。


「婚約者の席では、受けるべきものと拒むべきものの線を、自分で引けなければならない」


 低い声が続く。


「今日の君は、それを引けていた」


 その言葉に、アリアの胸の奥が静かにあたたかくなる。


「……少しだけ、怖かったです」


 正直にそう言うと、レオンハルトは当然のように答える。


「だろうな」


「以前なら、ああいう場で拒むのはもっと怖かったと思います」


「今は違うか」


「ええ」


 アリアはゆっくり頷く。


「今は、何を守るために拒むのかが分かるから」


 その一言に、レオンハルトの視線がまっすぐ落ちる。


「そうだ」


 短い。

 でも、それで十分だった。


 婚約者の微笑みは、刃にも盾にもなる。

 柔らかく受け入れれば、相手はそこから中へ入ってくる。

 だが同じ微笑みでも、線を引く時には盾になる。


 今日、アリアは初めて、その使い分けを自分の手で覚えた気がしていた。

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