第9話 ただ一人、信じると言った人
ルーヴェルト公爵家の馬車が夜の王都を走るあいだ、アリアはほとんど口を開かなかった。
窓の外には灯りの連なる通りが流れ、石畳を打つ車輪の振動が、ときおり身体の奥に残った緊張を揺さぶる。目を閉じれば、今でも大広間の光景が鮮やかに蘇った。
第二王子セドリックの厳しい声音。
婚約破棄の宣言。
ざわめく人々。
そして、それを切り裂くように響いた、第一皇太子レオンハルトの低い一言。
――随分と、雑な断罪だな。
その声だけが、今夜の悪夢の中に落とされた、たった一本の杭のように思えた。
「お嬢様」
向かいに控えていたリナが、何度目か分からぬほど慎重な声で呼びかける。
「……お水を、もう少しお持ちいたしましょうか」
「いいえ、大丈夫よ」
そう答えた自分の声が、思ったよりひどく掠れていて、アリアはかえって驚いた。
リナはそれ以上何も言わなかった。だが、その沈黙の奥に、言いたいことがいくつもあるのだろうと分かる。大丈夫なわけがない。そんなことは誰の目にも明らかだ。
それでも「大丈夫」と答えてしまうのは、もはや癖のようなものだった。
屋敷へ戻ると、玄関広間にはすでにクラウディアが待っていた。
夜会の途中で戻ってきた娘を見て、母はすぐに何が起きたかを察したらしい。公爵夫人としての仮面を保ちながらも、その目の奥には普段より一段深い緊張が宿っていた。
「下がっていいわ」
リナたちへ短く言い、クラウディアはアリアだけを見た。
「こちらへいらっしゃい」
連れて行かれたのは、家族しか入らぬ小さな談話室だった。火の落とされた暖炉の前に低い卓があり、夜にはほとんど使われない静かな部屋だ。そこで母はようやく、公爵夫人ではなく一人の母として口を開いた。
「詳しく聞かせなさい」
アリアは立ったまま、一瞬だけ迷った。
どこから話せばいいのか分からなかった。公開断罪からか、婚約破棄からか、あるいはその前から積み上げられてきた悪意からか。
けれど母のまっすぐな視線を受けたとたん、今夜だけは曖昧にごまかせない気がした。
「……殿下が、皆の前で」
言葉が少し詰まる。
クラウディアは急かさなかった。
「私を、ミレイユさんへの嫌がらせの中心だとおっしゃいました。そして、その場で婚約を解くと」
空気が静かに冷える。
母は一瞬だけ目を閉じ、それからゆっくり息を吐いた。
「やはりそこまで来たのね」
驚きではなく、苦い確認の声だった。
「知っておられたのですか」
「予兆はありました。最近、王家の近辺で第二王子殿下の婚約について妙な噂が増えていたの。あなたが冷たい、気位が高い、平民上がりを見下している――そういった、印象だけの話がね」
アリアの胸がゆっくりと沈む。
学園の中だけではなかったのだ。もう外側でも、舞台は整えられていた。
「では……」
「ええ。おそらく最初から、婚約解消まで含めて動いていたのでしょう」
母の口調は冷静だった。だがその冷静さの裏に、抑え込まれた怒りがあることを、アリアは初めてはっきり感じた。
「ただし、そこへ第一皇太子殿下が介入されたのは、相手方にとっても想定外だったはずよ」
アリアは顔を上げた。
「レオンハルト殿下が……」
「そう。先ほど、公的な伝達より早く、皇太子殿下側から使いが来たわ」
その言葉に、アリアは思わず息を呑む。
使いが。
「あなたに対する断罪は時期尚早であり、証拠の精査が必要だと。公爵家に対し、軽率な謝罪や自白に類する行動を控えるように、とのことでした」
淡々と告げるその内容に、アリアの心は大きく揺れた。
夜会の場で言葉をかけられただけではない。屋敷へ戻った後のことまで手を打っている。
それがどういう意味を持つのか、今のアリアにはまだ十分に測れない。けれど少なくとも、あの人は一時の気まぐれで口を挟んだのではない。
「……なぜ、そこまで」
ぽつりと漏らすと、クラウディアは娘をじっと見た。
「あなたは、どう思うの」
「分かりません」
正直に答えるしかない。
「私が無実だと信じてくださったわけではないと、おっしゃっていました。けれど……あの場で切り捨てるには、材料が足りないと」
自分で言いながら、その言葉がどれだけ救いだったかを思い出す。
切り捨てられなかった。
話を聞く価値があると思ってもらえた。
それだけで、あの時の自分はどうにか立っていられたのだ。
クラウディアはゆっくり頷いた。
「なるほど。でしたら、今はそれで十分です」
「十分、ですか」
「ええ。情ではなく理で動く方の方が、今のあなたには頼りになる」
その言葉に、アリアは何も返せなかった。
もしレオンハルトが優しい慰めをかけてきていたら、たぶん今の自分はもっと危うかっただろう。泣いて、縋って、弱ってしまったかもしれない。だが彼はそうしなかった。ただ不自然さを指摘し、証拠を見ようとした。
それが今の自分を、かろうじて保っている。
「今夜はもう休みなさい」
母は言った。
「明日からはさらに厳しくなるでしょう」
「……はい」
「学園にも行くことになる」
その一言に、アリアの指先がかすかに強張る。
行かねばならないことは分かっていた。けれど、改めて言葉にされると、胃の奥が冷たく縮む。
「逃げてはなりません。あなたが退けば、相手の筋書きを認めたことになる」
「分かっています」
「ただし、一人で背負い込むのもおやめなさい」
思いがけない言葉だった。
アリアが顔を上げると、クラウディアは珍しく少しだけ表情を緩めていた。
「あなたは昔から、助けを求めるのが下手すぎるの。だから余計に、周囲から“何を考えているか分からない”と思われる」
「……」
「今回は、それが裏目に出た部分もあるでしょう。悔しいでしょうけれど、そこから学びなさい」
厳しい。けれど、そこには間違いなく娘を立たせようとする意志があった。
「はい、お母様」
返事をした瞬間、ようやく少しだけ肩の力が抜ける。
母に信じてもらえている。
少なくとも、自分がただ感情的に罪を押しつけられているのだと分かってもらえている。
そのこともまた、今夜の小さな救いだった。
自室へ戻ったのは、夜もだいぶ更けてからだった。
侍女たちが湯浴みの支度を整えていたが、アリアはほとんど機械的にそれを済ませ、寝間着に着替える。鏡台の前に座ったとき、そこで初めて、自分の顔をまともに見た。
顔色が悪い。目の下には薄く疲れが落ちている。けれど、それ以上に目を引いたのは、自分の表情だった。
強張っている。
泣いてはいない。
だが明らかに、どこかが限界に近い。
「……ひどい顔」
小さく呟く。
その声に反応する者はいない。今夜ばかりは、侍女たちも空気を読んで早々に下がっていた。
一人きりになった途端、静寂が押し寄せてくる。
そしてその静寂の中で、ようやく、今夜のことが一つずつ現実味を持ち始めた。
婚約破棄された。
皆の前で、悪役令嬢のように扱われた。
誰も止めてくれなかった。
ただ一人を除いては。
レオンハルト。
その名を心の中で呼んだ瞬間、不意に喉の奥が熱くなる。
なぜ、あの人は助けたのだろう。
なぜ、話を聞くと言ってくれたのだろう。
まだ信じているわけではない、とあえて言ったのは、どういう意味なのだろう。
分からないことだらけだった。
けれど、分からないままでも一つだけ確かなことがある。
今夜、あの一言がなければ、自分は本当に折れていたかもしれない。
その事実を認めた瞬間、アリアの目から、ふいに涙がこぼれた。
「……っ」
慌てて口元を押さえる。
声は出したくなかった。泣き声など、誰にも聞かれたくない。ましてや今夜の自分には、泣く資格すらないような気がしていた。傷ついたのは自分だけではない、などと馬鹿げたことまで頭をよぎる。
だが涙は止まらなかった。
セドリックの言葉が、ようやく遅れて胸をえぐる。
私を信じなかった婚約者。
公の場で切り捨てた王子。
あれほど長く“務め”として支えてきた相手が、自分の話を聞くより先に、別の涙を信じたという事実。
悔しい。
悲しい。
そして何より、虚しかった。
「どうして……」
問いかけても答えはない。
どうしてこうなったのか。
どうして自分はここまで一人だったのか。
どうして、ただ一人だけが“待て”と言ってくれたのか。
泣くつもりなどなかったのに、涙は次々と頬を伝っていく。アリアは鏡の前から離れ、寝台の縁へ腰を下ろした。背筋を伸ばしていることすら難しい。
それでも、完全に崩れ落ちなかったのは、最後に聞いたあの言葉がまだ胸の奥に残っていたからだ。
――君は、この場で罪を認める必要はない。
誰も信じてくれないと思っていた。
少なくとも、聞く耳を持つ者などいないと。
だからこそ、その一言はあまりに大きかった。
しばらくそうして涙をこらえていたあと、アリアはようやく長い息を吐いた。
泣いても、何も変わらない。
今夜を越えた先に待つのは、さらに厳しい現実だ。
学園へ行けば視線を浴びるだろう。社交界にも噂は流れる。ミレイユはきっとまた守られるべき被害者として語られる。セドリックとの婚約も、もはや元には戻らない。
それでも、自分にはまだやるべきことがある。
濡れ衣を晴らすこと。
誰が何のために仕組んだのかを知ること。
そして、失った名誉をただ嘆くだけで終わらせないこと。
アリアは涙の跡を拭い、ゆっくりと顔を上げた。
鏡の中の自分は、少しだけひどい顔をしていた。けれどその目の奥には、先ほどまでなかった硬さがわずかに戻っている。
もう、ただ傷ついているだけではいられない。
そう思えたのは、母の言葉もあった。
そして何より、レオンハルトが“調べる価値がある”と言ってくれたからだ。
完全な救いではない。
信頼でもない。
けれど、確かな足場にはなり得る。
寝台へ入る頃には、空はすっかり深い夜に沈んでいた。
目を閉じても、まだあの大広間の光景はちらつく。だがその中に、銀の髪と静かな眼差しが差し込むと、悪夢は少しだけ輪郭を変える。
終わりではなかった。
あの夜会は、自分を潰すための舞台だった。
けれど同時に、それは誰が敵で、誰が少なくとも敵ではないのかを教える舞台でもあった。
アリアは薄く目を開け、天蓋の影を見つめた。
「……私、まだ大丈夫」
誰に聞かせるでもない小さな呟きだった。
大丈夫だと、本当はまだ言い切れない。
けれど、そう言わなければ朝を迎えられない気がした。
春の終わりの夜は静かで、ひどく長かった。
それでも、その長い夜の先へ進もうとするだけの小さな力が、今の彼女には確かに残っていた。




