第8話 皇太子殿下の一言
別室へ案内されるまでの廊下は、ひどく長く感じられた。
ほんの数分の距離でしかないはずなのに、アリア・フォン・ルーヴェルトには、大広間で浴びた無数の視線がまだ背中に貼りついているように思えた。婚約破棄。公開断罪。悪役令嬢。そんな言葉たちが、燭台の明かりの残像のように頭の内側へちらつく。
けれど、足を止めるわけにはいかなかった。
前を歩くのは、第一皇太子レオンハルト・エーヴェルシュタイン。彼は一度も振り返らず、けれど決して早すぎない歩調で進んでいく。その背には奇妙なほど隙がない。追いつけないほど遠くはなく、かといって寄り添うことを許す近さでもない。
その距離感が、今のアリアにはありがたかった。
優しげな言葉をかけられたら、かえって心が決壊してしまいそうだったからだ。
案内されたのは、大広間から少し離れた応接用の小部屋だった。高窓のある静かな部屋で、壁には控えめな金の装飾が施され、机と椅子がいくつか置かれている。今夜のために控室として使われていたのだろう。夜会の喧騒は扉一枚隔てた向こうにあり、ここだけが別の空間のように静かだった。
教師の一人が扉を閉め、どうしたものかと迷うように視線を揺らす。
「レオンハルト殿下、この部屋でよろしいでしょうか」
「構わない」
レオンハルトの返答は短い。
教師はアリアへ視線を向け、申し訳なさそうに一礼した。
「ルーヴェルト様、少々こちらでお待ちください。夜会会場の方は、こちらで何とかいたしますので……」
何とかいたします。
その言葉の曖昧さに、アリアはかえって現実味を覚えた。教師たちにとっても今夜の事態は想定外なのだ。王族同士が公の場で婚約破棄とその差し止めをぶつけ合うなど、誰が予想できただろう。
「承知しました」
アリアが答えると、教師はほっとしたように頷き、扉の向こうへ下がっていった。
部屋には、アリアとレオンハルトだけが残された。
静かだった。
あまりにも静かで、だからこそ自分の呼吸の浅さがよく分かる。アリアはその場で立ったまま、背筋を伸ばしていた。崩れてしまえば最後のような気がしたからだ。
「座れ」
低く落ち着いた声がした。
アリアは一瞬だけ迷ったが、素直に従った。膝が思っていた以上に強張っていて、椅子へ腰を下ろすだけの動作がひどくぎこちなく感じられる。
レオンハルトは彼女の向かいではなく、少し斜めの位置に立ったままだった。尋問するような真正面ではなく、かといって完全に対等な距離を演出するわけでもない。どこまでも自分の立ち位置を崩さない人なのだと、アリアはそんな場違いなことを考える。
「水を」
扉の外へ向けて短く告げると、すぐに控えていた侍従らしき者が静かに入ってきて、グラスを机へ置いて去っていった。やはり彼が来ていたのは偶然ではないのだろう。最低限の付き従いは当然いたはずだ。
アリアはグラスに手を伸ばしかけ、ふと止めた。
手が、ほんの少し震えていた。
見られたくなかった。だが、レオンハルトはその震えを見ても何も言わない。ただ、感情を挟まない視線で一度だけ確認しただけだった。
「飲め」
「……はい」
今度こそグラスを取り、喉を潤す。冷たい水が喉を通る感覚で、ようやく自分がどれほど喉を乾かしていたかに気づいた。
それでも、心の内側の熱は収まらない。
婚約破棄された。皆の前で。悪役令嬢の汚名まで着せられて。
その事実は変わらないのだ。
「少しは落ち着いたか」
レオンハルトの問いは、慰めるような響きではなかった。純粋な確認だ。
だからこそ、アリアは取り繕わずに答えられた。
「……分かりません」
「正直でいい」
その返答に、アリアは思わず彼を見た。
レオンハルトは相変わらず整いすぎたほど整った顔で、感情をほとんど表に出していない。だがその目には、大広間で周囲が向けていたような好奇も、セドリックのような失望もなかった。
「落ち着いていないのなら、そう言えばいい。今さら取り繕っても意味はない」
その言葉に、胸の奥がわずかに痛んだ。
今さら取り繕っても意味はない。
確かにその通りだ。もう十分すぎるほど見られ、測られ、決めつけられてしまったあとだ。完璧な公爵令嬢であろうとしても、今夜のあの場を無かったことにはできない。
「……申し訳ございません」
気づけばそんな言葉が出ていた。
レオンハルトの眉が、ほんのわずかに動く。
「何に対してだ」
「ご迷惑をおかけしたかもしれません」
「迷惑だと思うなら、私はあの場へ口を挟まない」
即答だった。
しかも、冷たく突き放すための言い方ではなく、単なる事実として。
そのことがかえってアリアの心を揺らした。
誰も信じてくれないと思っていた。少なくとも、見て見ぬふりをされるのだろうと。だがこの人は、皆の前で「雑な断罪だ」と言い切ったのだ。
なぜ。
その疑問が、今さらながら胸の奥から浮かび上がる。
レオンハルトはそれを見透かしたように、静かに言った。
「君が不思議そうな顔をしているな」
「……はい」
「なぜ私が口を出したのか、と思っているか」
アリアは小さく息を呑んだ。
図星だった。
「恐れながら、その通りです」
「簡単な話だ」
レオンハルトはわずかに視線を逸らし、大広間の方角を見るようにしながら言った。
「おかしかったからだ」
あまりに簡潔で、アリアは一瞬理解が追いつかなかった。
「おかしい、とは……」
「証拠が雑だ。証言も曖昧だ。印象を積み上げて一人を有罪に見せようとしているようにしか見えなかった」
淡々とした口調だった。
だが、その一言一言は、アリアがこの数日、自分の中で言葉にならずに抱えていた違和感とぴたり重なった。
手紙は偽造。
証言は印象ばかり。
怖かった、冷たかった、圧があった。
そういう曖昧なものが、いつの間にか「だから彼女が犯人だ」という空気へ変わっていた。
「君が潔白だと断言しているわけではない」
レオンハルトは続けた。
「だが、あの場で君に罪を認めさせるには、材料が足りなさすぎる」
アリアはその言葉を黙って聞いていた。
全面的に信じる、と言われたわけではない。無条件で庇う、とも言われていない。だが、それでよかった。
むしろ、それがよかった。
同情ではなく、理屈でおかしいと言ってくれること。感情ではなく、証拠の不足を指摘してくれること。その公平さが、今のアリアには何よりありがたかった。
「……私の話を、聞いていただけますか」
気づけば、そう口にしていた。
レオンハルトはすぐに答える。
「そのためにここへ通した」
その言葉が落ちた瞬間、アリアの胸の奥で張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ。
聞いてもらえる。
ただそれだけのことが、こんなにも苦しく、そして救いになるものだとは思わなかった。
「私は、ミレイユさんに手紙を書いておりません」
最初に出てきたのは、やはりその言葉だった。
「彼女に敵意を向けたことも、ありません。確かに親しくはありませんでしたし、私の態度が冷たく見えたことはあったかもしれません。でも、害そうとしたことは一度も」
「手紙の筆跡は」
「似せてあります」
「そう言い切る根拠は」
「私の字だからです」
その返答に、レオンハルトの目が少しだけ細くなる。続きを促すような視線。
アリアは息を整え、続けた。
「似ています。でも違うのです。“寄”の払いが浅い。“済”の角度が少し癖と違う。“わ”の筆圧も軽い。ぱっと見でごまかされる程度には似ていますが、長く自分で書いてきた字ですから、違和感が分かります」
話しているうちに、自分の声が少しずつ落ち着いていくのが分かった。言葉が整理されていく。感情ではなく事実として、見たものを説明できる。
「なるほど」
レオンハルトは短く頷いた。
「紙質にも違和感がありました。学園でよく使われるものより厚いのです。少なくとも、私が普段使うものでもありません」
「教師には言ったか」
「はい。ですが、それだけでは弱いでしょう。机から見つかったことの方が、皆様には強く映ったようで」
言いながら、アリアの口元にわずかな苦みが浮かぶ。
皆様。
便利な言葉だ。
その中には教師も、同級生も、婚約者も含まれている。
レオンハルトはしばらく黙していた。考えているのだろう。その沈黙は気まずいものではなく、情報を整理するための沈黙だった。
やがて彼は問いを重ねる。
「ローゼンと、直近で二人きりになったことは」
「ほとんどありません。廊下や図書室ですれ違ったことはあります。ですが、話らしい話をしたのは数えるほどです」
「第二王子との関係について、思うところはあったか」
その問いに、アリアの指先が少しだけ強張った。
当然、そこは問われるだろう。
「……婚約者である以上、気にならなかったと言えば嘘になります」
正直に答えるしかない。
「ですが、それと嫌がらせは別です。私は、自分が不愉快だからといって、そのような真似はいたしません」
「感情はあった」
「はい」
「だが行動には移していない」
「その通りです」
レオンハルトはもう一度、短く頷いた。
彼はアリアの言葉をすぐに信じたわけではないだろう。けれど少なくとも、感情と行動を分けて聞いている。そこがセドリックとは決定的に違った。
セドリックは、嫉妬していた可能性がある、それだけで十分だった。
だがこの人は、嫉妬したかどうかと、実際に手を下したかどうかを別々に見ている。
たったそれだけの違いが、こんなにも大きい。
「君の母君は」
不意に、レオンハルトが言う。
「この件を知っているか」
「はい。手紙のことまでは学園から報告があったようです。ただ……家として大きく動くことは難しいかと」
「当然だな」
それもまた、冷静な事実だった。
「王家が関わる婚約破棄となれば、公爵家が感情的に動けば立場を悪くする。君の母君は、今は耐えろと言ったのではないか」
「……どうしてお分かりに」
「言いそうだからだ」
あまりにあっさりした返答に、アリアはわずかに目を見開いた。
その反応が可笑しかったのか、レオンハルトの目元がほんの少しだけ緩む。笑った、というほどではない。けれど冷たい石像のようだった顔に、初めて人間らしい陰影が差した気がした。
「君の母君は有能だ。立場を知っている。おそらく、感情より先に損得を計算するだろう」
「……その通りです」
「君はそれが冷たいと感じたか」
問われて、アリアは少し考えた。
「いいえ。むしろ、信じているからこそ言われたのだと思っています」
「ならいい」
短い返答。
だがそれで十分だった。
また沈黙が落ちる。
今度の沈黙は、先ほどよりずっと柔らかかった。アリアはようやく、椅子の背に少しだけ体重を預けることができた。気づけば、肩に力が入り続けていたのだ。
その時だった。
扉の向こうで、軽い靴音が止まる。続いて控えめなノック。
「失礼いたします」
入ってきたのは、濃紺の礼装を着た青年だった。年の頃は二十代後半、整った顔立ちに理知的な眼差し。レオンハルトの側近だろうと一目で分かる。
「ユリウスです」
アリアへ軽く一礼したあと、彼はレオンハルトへ向き直った。
「広間の方はひとまず収まりました。教師陣が夜会を続行する形にしておりますが、噂は当然、完全には抑えられておりません」
「セドリックは」
「かなり不服そうですが、表立っては従っております。ローゼン嬢は別室で保護されています」
淡々と報告を受けながら、レオンハルトは一度も表情を変えない。
ユリウスと呼ばれた青年はそこで初めて、机の上に置かれた空のグラスとアリアの顔色を見て、状況をおおよそ察したようだった。
「……なるほど」
その一言に多くを込めたが、余計なことは言わない。やはり有能な人間なのだろう。
レオンハルトは簡潔に指示を出す。
「まず手紙の現物を押さえろ。筆跡見本と紙質も。証言者の名前を整理し、時系列を作れ」
「承知いたしました」
「それから、ローゼン嬢の周囲で急に動きが増えた人間を洗え。金の流れが見えるならなお良い」
その言葉に、アリアは思わず顔を上げた。
そこまで見ているのか、と。
レオンハルトは彼女の視線に気づいたのか、説明するように言う。
「脅迫状の偽装程度なら感情だけでもやれる。だが、曖昧な証言をあれだけ一斉に揃えるのは、多少なりとも誘導が必要だ。ならば、人か金が動いている可能性が高い」
理路整然としていた。
怒りも正義感も前面に出さず、ただ不自然な点から必要な手順を組んでいく。その有能さに、アリアは一瞬だけ息を忘れる。
ユリウスは「かしこまりました」と頷き、続けて問う。
「ルーヴェルト嬢の扱いは、いかがいたしましょう」
扱い。
本来なら少し棘のある言い方かもしれない。だが今はむしろ、その事務的な響きがありがたかった。庇護の対象として過剰に哀れまれるより、状況の一部として冷静に位置づけられる方が、よほど楽だ。
レオンハルトはためらいなく答える。
「今夜はこのまま帰せ。だが一人で動かせるな。学園内でも目を離すな」
ユリウスが一瞬だけ視線をアリアへ向け、それから小さく頷く。
「承知しました」
やがて彼が部屋を出ていくと、再び静けさが戻った。
アリアはその静けさの中で、ようやくひとつの事実を実感し始めていた。
終わりではなかったのだ。
大広間で婚約破棄を告げられた時、自分の何もかもがあそこで終わるのだと思った。公爵令嬢としての名誉も、婚約者としての立場も、きっと全部そのまま踏みにじられて終わるのだと。
だが今、自分の目の前で誰かが動いている。証拠を押さえ、証言を整理し、金の流れまで疑っている。
自分の言葉が、初めて“検討に値するもの”として扱われている。
そのことがあまりにありがたくて、同時に、危うかった。
緩めてはいけないと思っていたものが、ほどけそうになる。
「……あの」
アリアはかすれた声で言った。
レオンハルトが視線を向ける。
「ありがとうございます」
ありきたりな言葉だった。だが、それ以外にうまく見つからなかった。
レオンハルトは少しだけ黙り、それから淡々と返した。
「礼を言うのは早い」
「それでも、申し上げたかったのです」
誰も信じてくれないと思っていた。
少なくとも、まともに話を聞く者などいないと思っていた。
だからこそ、この短い時間の重みは大きかった。
レオンハルトは彼女をしばらく見ていたが、やがてごく静かに言った。
「私はまだ、君が無実だと言い切ってはいない」
「はい」
「だが、少なくともあの場で切り捨てていいほど、君の話は軽くない」
その言葉に、アリアの喉の奥がまた熱くなる。
全面的な信頼ではない。
けれど、切り捨てられなかった。
それだけで十分すぎた。
「今夜はもう戻れ」
レオンハルトは言った。
「夜会へ再び出る必要はない。公爵家へ話は通す」
「……分かりました」
立ち上がろうとして、アリアの足元がわずかにふらつく。すぐに踏みとどまったつもりだったが、レオンハルトは見逃さなかった。
「無理をするな」
「しておりません」
「している」
ぴしゃりと返され、アリアは言葉に詰まる。
レオンハルトはため息まじりに、しかしどこか呆れた調子で言った。
「君はどうやら、倒れるまで無理をしていないと言い張る類いらしい」
アリアは思わず目を瞬かせた。
そんなふうに言われたのは初めてだった。母なら「倒れる前に立ちなさい」と言うし、セドリックなら「もっと柔らかくなれ」と言っただろう。
けれど、この人は無理をしていること自体を事実として指摘する。
妙に、それが胸に残った。
「……善処いたします」
そう返すのが精一杯だった。
レオンハルトはそれ以上追及しなかった。ただ扉へ向かい、人を呼ぶ気配を見せる。
その背を見ながら、アリアは自分の内側にまだ震えが残っていることを知る。婚約破棄された事実は消えない。汚名もまだそのままだ。けれど、完全に一人ではないかもしれないという小さな感覚が、暗闇の中にかすかな灯りのようにともっていた。
扉が開かれ、外で待機していた者が現れる。
「ルーヴェルト嬢を馬車まで」
「かしこまりました」
レオンハルトの指示に従い、案内役が恭しく頭を下げる。
アリアは部屋を出る前、もう一度だけ彼を振り返った。
レオンハルトは窓辺に立ち、大広間の方角へ視線を向けていた。まるでこれから始まる面倒ごとを、静かに計算しているような横顔だった。
その横顔に向かって、アリアは小さく一礼する。
今度は言葉にしなかった。すると彼はほんの一瞬だけこちらを見て、わずかに顎を引いた。それが返礼なのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
部屋を出た途端、廊下の空気がまた冷たく感じられた。
夜会のざわめきはまだ遠くに続いている。今夜のことは、きっと明日には学園中へ、いや王都じゅうへ広がるだろう。婚約破棄も、断罪も、その中断も。
それでもアリアは、先ほど部屋に入る前とは少し違う足取りで歩いていた。
まだ傷は深い。
まだ何一つ取り戻していない。
けれど、初めて誰かが「おかしい」と言ってくれた。
その事実だけが、崩れかけた心の底でかろうじて支えになっていた。
馬車寄せへ向かう途中、窓越しに夜の庭園が見えた。春の終わりの空気は少し冷たく、噴水の水面が月明かりを揺らしている。
悪役令嬢と呼ばれた夜。
その続きが、こんな形で始まるとは思わなかった。
アリアは胸の前でそっと指を組み、誰にも聞こえないほど小さく息を吐いた。
まだ、終わっていない。
そう思えたことが、今夜唯一の救いだった。




