第10話 悪評は消えず、傷だけが残る
翌朝、アリア・フォン・ルーヴェルトが目を覚ましたとき、最初に胸へ落ちてきたのは重たい現実だった。
昨夜のことは夢ではない。
第二王子セドリック・ヴァルディスは、王立学園の春の親睦夜会という最も人目のある場で、アリアをミレイユ・ローゼンへの嫌がらせの中心人物と断じ、婚約破棄を宣言した。
その断罪は、第一皇太子レオンハルト・エーヴェルシュタインの介入によって途中で止められた。けれど、止まったからといって、傷が消えるわけではない。
むしろ、あれほど派手に中断されたからこそ、噂はもっと醜く広がる。
それが分かっていたから、朝の光は少しも優しく感じられなかった。
天蓋の向こうから差し込む淡い陽射しは柔らかい。窓の外では鳥が鳴き、庭師が剪定した薔薇の枝先に朝露が残っている。世界は驚くほどいつも通りだ。
だが、アリアの中では何かが決定的に変わっていた。
寝台から起き上がり、鏡台の前に座る。昨夜は泣いた。ずっと張り詰めていたものが、部屋へ戻った途端に切れてしまった。泣いたこと自体は悔しかったが、不思議と後悔はしていない。あれだけのことがあって、一滴も涙を流さない方が、きっとどこか壊れていた。
けれど、泣いたからといって楽になったわけでもなかった。
目の下にはわずかに疲れが残り、頬の色はまだ薄い。侍女のリナが慎重に髪を整えながら、何度も何かを言いかけては飲み込んでいる気配がする。
「リナ」
鏡越しに呼ぶと、彼女は小さく肩を震わせた。
「はい、お嬢様」
「今日は、変に気を遣わなくていいわ」
「……ですが」
「気を遣われると、かえってつらいの」
正直にそう告げると、リナは一瞬だけ目を伏せ、それから深く頭を下げた。
「承知いたしました」
その返事は短かったが、余計な慰めを押しつけないだけで十分だった。
朝食の席には母クラウディアだけでなく、珍しく父もいた。ルーヴェルト公爵は普段、朝の時間にはすでに執務へ向かっていることが多い。つまり今日は、それだけ状況が重いということだ。
公爵は娘が席につくと、いつもより静かな目で彼女を見た。
「よく出てきた」
第一声がそれだった。
アリアは少しだけ驚いたが、すぐに一礼する。
「おはようございます、お父様」
「おはよう」
そこで会話は一度途切れる。給仕が朝食を並べ、クラウディアが静かに紅茶を口へ運ぶ。食器の触れ合う音だけが、妙に大きく感じられた。
やがて父がナイフを置いた。
「昨夜の件、正式な報告はまだだが、十分に聞いている」
「はい」
「学園へは行くのだな」
問いというより確認だった。
アリアは、母と同じことを父も口にするのだろうと分かっていた。
「行きます」
短く答えると、父は小さくうなずく。
「そうしろ」
それだけだった。
庇うでも責めるでもなく、ただ行けと言う。だが、その簡潔さの中に、ルーヴェルト家当主としての意思があった。逃げるな。姿を消すな。消えた瞬間に相手の物語が完成する――そういう意味だ。
クラウディアが静かに続ける。
「ただし、覚悟はしておきなさい。昨夜のことで、悪評はさらに広がっているはずよ」
「はい」
「婚約破棄だけが独り歩きし、“なぜそうなったか”については相手に都合よく脚色されるでしょう」
その言葉が冷静なだけに、アリアの胸は少し痛んだ。
事実だ。人は結末だけを見る。第二王子が婚約者を見限った。その一点だけで十分に面白く、そこへ“平民少女への嫌がらせ”という分かりやすい理由が添えられれば、噂は勝手に育つ。
アリアは指先を膝の上でそっと重ねた。
「分かっています」
そう答えたものの、本当に分かっているのかは自分でも怪しかった。頭では理解している。だが実際に、それを全身で浴びることがどれほど苦しいかは、学園へ行ってみなければ分からない。
朝食を終え、馬車へ向かう頃には、空はすっかり晴れていた。
皮肉なほどの上天気だった。
王立学園の正門前はいつも通り多くの馬車で混み合っていたが、そのざわめきの質は明らかに違った。ルーヴェルト家の紋章入りの馬車が止まった瞬間、周囲の空気がはっきりと変わる。
見られている。
それも、昨日までとは比べものにならないほど露骨に。
扉が開き、アリアが降り立った途端、さざ波のように囁きが広がった。
「本当に来たわ」
「来ないと思っていた」
「でも、あれだけのことがあって平然としているなんて……」
「平然としているから怖いのよ」
「皇太子殿下が庇われたって聞いたけれど」
「だからって、婚約破棄された事実は変わらないでしょう?」
一つひとつは小さな囁きだ。けれど、無数に集まれば針になる。
アリアは正面だけを見て歩いた。
振り向かない。立ち止まらない。
それしか出来ない。
校舎へ入ると、さらに空気は重くなる。廊下の端で話していた上級生が口を閉じ、下級生があからさまに距離を空ける。教師とすれ違ったときでさえ、その表情にはどこか扱いに困るような緊張があった。
昨日までのような“疑い”ではない。
今日はもう、“やはり何かあったのだろう”という前提で見られている。
教室の扉を開けた瞬間、ざわめきが途切れた。
それはほんの数秒だったが、アリアにはずいぶん長く感じられた。全員の目が向き、次の瞬間、何事もなかったように会話が再開する。だが、その何事もなさが、かえって残酷だった。
自席へ向かう途中、隣の列の女子生徒がさっと椅子を引いた。通りやすくするため、というには少し過剰な動きだった。彼女自身もそれに気づいたのか、気まずそうに顔を伏せる。
アリアは何も言わなかった。
言えるはずがない。
「アリア様」
エレノアがすぐにやって来た。今朝の彼女はいつも以上にきっぱりした顔をしている。
「おはようございます」
「おはよう」
その一言だけで、少しだけ息がしやすくなった。
エレノアは机の横へ立つと、周囲へ聞こえないように低く言う。
「最悪ですわ」
「見れば分かるわ」
「昨夜のことが尾ひれをつけて広がっています。“殿下が公の場で切り捨てたほどのことをしていた”とか、“皇太子殿下は王家の体面のために止めただけだ”とか、もう好き放題です」
アリアはまぶたを一度閉じた。
王家の体面のため。
そういう解釈は十分あり得る。いや、むしろ多くの人間にとってはその方が納得しやすいだろう。皇太子が公正を期して止めたのではなく、騒ぎを大きくしないために口を挟んだだけ。そう思った方が、彼らの中で世界は簡単に整理できる。
「……そうでしょうね」
「そんな顔をなさらないでくださいませ」
「どんな顔をしているのかしら、私」
「今にも全部諦めそうなお顔です」
エレノアの率直さに、アリアは少しだけ息を呑んだ。
そんなつもりはなかった。けれど、自分では気づかないほど表情に出ていたのかもしれない。
「諦めてはいないわ」
小さく答えると、エレノアはじっとアリアを見てから、ようやく少しだけ表情を和らげた。
「でしたら、よろしいですわ」
だがその直後、教室の前方がざわめいた。
ミレイユ・ローゼンが入ってきたのだ。
彼女は今朝、制服の色まで薄く見えるほど青ざめていた。目元は赤く、昨夜ほとんど眠れなかったのが誰の目にも分かる。細い指で教本を抱きしめ、扉のところで一瞬ためらったあと、そっと中へ入ってくる。
その姿を見た途端、何人もの女子生徒が駆け寄った。
「ミレイユさん、大丈夫?」
「無理しないで休んでも……」
「殿下のお心遣いもあったのでしょう?」
“殿下のお心遣い”。
その言葉がアリアの胸の奥を冷たく撫でた。
セドリックはきっと、昨夜のあとも彼女を気遣ったのだろう。あるいは、自分のしたことを正しいと思うために、そうする必要があったのかもしれない。
ミレイユは囲まれながら、困ったように首を振っている。
「わ、私なんて……。皆様の方こそ、ご迷惑を……」
「そんなことありませんわ」
「あなたは悪くないもの」
「むしろ、一番傷ついたのはあなたでしょう?」
その言葉に、教室のあちこちで同意の気配が生まれる。
一番傷ついたのは彼女。
では、自分は何なのだろう。
傷つけた側。
切り捨てられて当然の側。
そういう空気が、もう完全に出来上がっていた。
アリアは視線を落とした。
見ているだけで息が詰まりそうになる。けれど顔を逸らせば、それもまた「後ろめたいから」と受け取られるだろう。
一時間目が始まり、教師が入ってきても、室内の緊張は容易にほどけなかった。講義の最中でさえ、誰かの視線が自分の頬を掠めるように感じる。ノートへ文字を書こうとしても、ペン先がわずかにぶれる。
そして、もっとつらかったのは、教師の態度だった。
露骨に責めるわけではない。
だが、明らかに慎重なのだ。
まるで、いつ何が起きてもおかしくない危うい生徒を扱うように。指名するときも、何かを受け取るときも、ほんの少しだけ間がある。そのわずかな間が、アリアにはたまらなく堪えた。
授業が終わるたび、廊下ではさらにひどい囁きが飛び交っていた。
「皇太子殿下が庇っても、結局あれだけのことを言われたんでしょう?」
「婚約破棄は取り消されないのかしら」
「でも、公爵令嬢だし、また何とかなるのでは」
「何とかなるなら怖いわね。だって、あんなに堂々としているんですもの」
堂々としている。
平然としている。
冷たい。
怖い。
そのどれもが、アリアにとっては単に“崩れないようにしている”だけの結果だった。けれど人は、その表面しか見ない。
昼休みになっても、状況は好転しなかった。
エレノアが今日もサロンへ行こうと言ってくれたが、そこですら安らげるわけではないのは昨日で分かっている。だが食堂へ行けばもっと多くの目に晒されるだろう。結局、二人は令嬢用サロンへ向かった。
入った瞬間、そこにいた数人の令嬢が会話を止めた。誰も露骨な無礼はしないが、それだけで十分だった。
アリアは窓際の席へ座り、出された軽食を見つめた。
食欲がない。
けれど、食べなければ倒れる。
倒れれば、それこそ何を言われるか分からない。
フォークを手に取り、小さく切った果物を口へ運ぶ。味はした。だが喉が細くなったようで、飲み込むのに時間がかかる。
「アリア様」
エレノアが心配そうに顔を覗き込む。
「少し外の空気を吸われます?」
「いいえ……ここにいる方がまだましよ」
そう答えたものの、実際にはどこにも“まだまし”な場所などなかった。
学園のどこへ行っても視線がある。
家へ帰っても、そこには王家との関係という現実がある。
自分が安心して息をつける場所は、もうどこにもないのかもしれない。
その考えに行き当たった瞬間、アリアは胸の奥がひどく空洞になるのを感じた。
「……傷だけが残るのね」
思わず漏れた呟きに、エレノアが目を見開く。
「何ですって?」
「いいえ」
慌てて首を振る。だが、一度言葉になってしまったものは消えなかった。
悪評は消えない。
昨夜、レオンハルトが中断してくれたことで、即座に終わらされることはなかった。だが、その代わりに“疑われた令嬢”“婚約破棄された公爵令嬢”という傷だけが、はっきりと残ってしまった。
何も決着していないのに、自分だけがもう傷ついた側としてそこにいる。
その事実が、どうしようもなく苦しかった。
午後の授業では、ついに別の学年の教師にまで妙な目で見られた。すれ違いざま、気遣うような、しかし距離を取るような、曖昧で厄介な視線。
アリアはそのたび、胸の内側で何かが削られていくのを感じた。
放課後、教室の空気が少しだけ緩んだ頃だった。
生徒たちが帰り支度を始める中、教室の扉のところへ見慣れない制服姿の侍従が現れた。王家付きの人間だと一目で分かる質の高い装いに、室内のざわめきがまた止まる。
「アリア・フォン・ルーヴェルト様」
名を呼ばれた瞬間、全員の視線が彼女へ集まった。
アリアは静かに立ち上がる。
「何かしら」
「第一皇太子殿下より、お言葉を預かっております」
その一言で、教室中の空気が変わった。
驚き、好奇、嫉妬、恐れ――さまざまな感情が一斉に揺れるのが分かる。エレノアですら目を見開いていた。
侍従は周囲のざわめきを意に介さず、淡々と続けた。
「本日の放課後、少しお時間を頂きたいとのことです。場所は東棟二階、小会議室。ご都合が悪くなければ」
都合が悪いはずがない。
だが、それを口にすること自体がまた別の噂を生むだろう。
アリアは一瞬だけ躊躇し、それでも答えた。
「承知しました」
侍従は恭しく一礼し、それ以上何も言わず去っていく。
彼がいなくなったあとも、教室内には妙な沈黙が残った。
誰も口には出さない。だが、皇太子がわざわざ呼び出した、その事実だけで新しい噂の種になることは明らかだった。
エレノアがすぐに立ち上がり、アリアのそばへ来る。
「……本気ですのね」
「どういう意味?」
「皇太子殿下ですわ。昨日の一言だけで終わらせるおつもりではない、という意味です」
アリアは返事をしなかった。
胸の奥では、別の感情がゆっくりと広がっていたからだ。
昨日、話を聞く価値があると言ってくれた。
今度は、学園の真ん中でこうして呼び出しを寄越した。
それがどれほど大きな意味を持つか、分からないほど自分は鈍くない。
けれど同時に、怖さもあった。
期待してはいけない。
勝手に救いだと思ってはいけない。
そう思うほどに、あの静かな眼差しと言葉が胸へ残る。
「アリア様」
エレノアが少しだけ柔らかな声で言う。
「行ってくださいませ」
「ええ」
「そして、ちゃんと話してきてください。今のあなたには、それが必要ですわ」
その言葉に、アリアは小さく息を吐いた。
そうだ。必要なのだ。
悪評は消えない。傷だけが残っている。
けれど、その傷をただ抱えて耐えるだけでは、たぶんもう足りない。
誰かが話を聞くと言うのなら、きちんと話さなければならない。
このままでは終われないのだから。
窓の外では、春の終わりの陽射しがゆっくりと傾き始めていた。
放課後の学園は相変わらずざわめいている。噂も、視線も、痛みも消えない。
それでも、そのざわめきの向こうに、昨日とは少し違う道が見え始めている気がした。
傷はまだ生々しい。
だが、その傷を見て見ぬふりをしない人が、少なくとも一人いる。
その事実だけで、アリアはどうにか次の一歩を踏み出す気になれた。




