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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第11話 真実を追う人、真実を恐れる人

 東棟二階の小会議室へ向かうあいだ、アリア・フォン・ルーヴェルトは自分の歩調が少しだけ速くなっていることに気づいていた。


 急いでいるつもりはない。けれど、教室の中に残ったあの空気から一刻も早く離れたい気持ちと、第一皇太子レオンハルト・エーヴェルシュタインに呼ばれたという事実への緊張が、知らず足を前へ押していた。


 廊下には夕方の光が細長く落ちている。窓の外では春の終わりの風が若葉を揺らし、学園の庭園は昼間よりいくぶん穏やかに見えた。だが学園の中を満たす噂と視線までは、風で流れてくれない。


 小会議室の前には、昨日も見かけた濃紺の礼装の青年――ユリウスが立っていた。レオンハルトの側近である彼は、アリアを見ると礼儀正しく一礼する。


「お待ちしておりました、ルーヴェルト嬢」


「お時間を頂戴して申し訳ありません」


「その台詞は、今の状況では少々不似合いですね」


 さらりと言われて、アリアは一瞬だけ目を瞬かせた。冗談なのか、本気なのか分からない口調だったが、少なくとも余計な同情は感じられない。


 それだけで、少しだけ息がしやすい。


 ユリウスは扉を開けた。


「殿下がお待ちです」


 中へ入ると、小会議室にはすでにレオンハルトがいた。昨日の夜会の礼装ではなく、今日は学園へ立ち寄る王族らしい簡素な濃色の上着姿で、窓際の卓上にはいくつかの紙が整然と並べられている。


 彼はアリアが入ってきても大仰な動きを見せず、ただ視線を上げて一言だけ告げた。


「座れ」


「はい」


 今日は昨日よりも少しだけ落ち着いて答えられた。


 ユリウスが扉を閉めると、レオンハルトは卓上の一枚を指で軽く叩く。


「昨日の手紙だ。現物は確保した」


 アリアの視線が自然とそこへ向く。見慣れたようで見慣れない筆跡。自分の字に酷似しながら、わずかに違う不快な文字列。


「紙質の違和感は正しかった。学園支給の便箋ではない。市中で流通しているものでも、やや質が高い部類だ」


「特定できるのですか」


「候補は絞れる」


 レオンハルトは簡潔に答え、別の紙をアリアの方へ滑らせた。


「それから、君の提出物をいくつか確認した。確かに筆跡は似せてある。だが完全ではない」


 その言葉に、アリアは思わず顔を上げた。


「見てくださったのですか」


「確認が必要だったからだ」


 当たり前のように返される。だがその当たり前が、今のアリアにはひどく重く、そしてありがたかった。


 誰かが自分の言葉を、ただの言い逃れとして切り捨てずに検証している。


 たったそれだけのことが、胸の奥で静かに響く。


 ユリウスが横から補足する。


「加えて、証言を整理してみると奇妙な点がいくつかございます」


 彼は紙を一枚取り上げ、淡々と読み上げた。


「図書室ですれ違ったとき冷たい目だった。提出物の質問に優しくなかった。廊下で気をつけてと言われて怖かった。――このあたりはすべて、“そう見えた”“そう感じた”という印象の話です」


「はい」


「一方で、明確に物を壊されたとか、暴言を吐かれたとか、直接的な被害を証言する者はまだおりません」


 まだ。


 その一語が嫌な現実味を持って響いた。


 つまり、この先それが出てくる可能性を彼らも見ているのだろう。


 レオンハルトはその沈黙をどう受け取ったのか、静かに言った。


「この段階で出てこないなら、むしろ後から出てくる方が不自然だ」


「ですが、相手が用意周到なら……」


「だから潰す」


 短い断言だった。


 アリアは息を呑む。


 そこに感情的な怒りは見えない。ただ、問題を問題として処理する冷たい精度だけがある。その強さが、今の彼女にはひどく心強い。


 ユリウスがさらに続ける。


「それと、昨夜の夜会以降、ローゼン嬢の周囲に集まっている人間を見ておりました。特に動きが目立つのは、侯爵令嬢ベアトリス嬢と、第二王子殿下に近い数名の男子生徒です」


 アリアは小さく眉を寄せた。


「ベアトリス様は、図書室の件を……」


「ええ。あの証言は実に都合が良い。否定しづらく、しかし決定打にはならない」


 ユリウスの口調には、わずかに皮肉が滲んでいた。


「さらに、昨夜以前から“婚約者として不適格なのでは”という話が、王都の一部で出回っていた形跡があります」


 その言葉に、アリアはゆっくりと背筋を冷やす。


 やはり。


 学園だけでは終わらない話だったのだ。


「君を学園内の悪役令嬢として仕立てることと、婚約解消の空気を作ることは、おそらく同じ線で繋がっている」


 レオンハルトの言葉は、アリアが昨夜ぼんやり感じていた不安を、はっきりと形にした。


「……殿下は、誰がそこまでしているとお考えですか」


「現時点で決めつけはしない」


 即答だった。


「だが、少なくともローゼン嬢一人で全てを回しているとは考えにくい。彼女が中心にいるにせよ、背後に誰かいるにせよ、周囲の誘導がある」


 アリアは卓上の紙へ視線を落とした。


 ミレイユ・ローゼン。儚げで、守られる側に見える少女。あの涙も震えも、すべてが演技だと断じるには、アリア自身まだ躊躇いがある。だが、少なくとも彼女の周囲で、自分を悪く見せるよう流れが作られているのは間違いない。


「……私は」


 気づけば、ぽつりと声が漏れていた。


「私は、彼女がそこまで悪意を持っているとは、まだ思いきれません」


 正直な言葉だった。


 レオンハルトはそれを咎めなかった。


「それでいい」


 むしろそう返されたことに、アリアは少し意外さを覚える。


「感情だけで敵を決めるのは、向こうと同じだ」


 その一言に、胸の奥が静かに打たれた。


 昨日までの婚約者は、まさに感情だけで自分を裁いた。怯える者を見て、それを真実だと信じた。だがこの人は違う。敵を作る時ですら、理で見ろと言う。


 その違いがあまりにも大きい。


 ユリウスが机の上へさらに数枚の紙を置く。


「時系列も整理しました。学園内でローゼン嬢に関する“気の毒な噂”が増え始めたのは、およそ三週間前です。その頃から第二王子殿下が彼女を気にかける様子が目立ち始めている」


 アリアは紙に記された日付を追った。


 三週間前。図書室。廊下。提出物。階段。小さな出来事の断片が、線として繋ぎ直されている。


「ここに来て、手紙の発見と夜会での公開断罪。流れとしては出来すぎている」


 レオンハルトは紙を見ながら言う。


「つまり、向こうは急いでいた可能性がある」


「急いでいた?」


「本来なら、もっとじわじわ悪評を積み上げてもよかったはずだ。だが夜会で仕掛けた。何か期限があったのか、あるいは私が気づく前に片をつけたかったのか」


 アリアは彼を見た。


「殿下は、以前からこの件に気づいておられたのですか」


「違和感はあった」


 ほんのわずかな間を置いて、彼はそう言った。


「君に関する噂が、妙に“出来すぎて”いた」


 その言葉に、アリアの心が小さく揺れる。


 噂に、気づいていた。

 自分の知らないところで。

 そして少なくとも、“出来すぎている”と思う程度には、気に留めていた。


「なぜ、私の噂を」


 そこまで言いかけて、アリアは言葉を飲み込んだ。


 なぜ、気にしたのですか。

 その問いは、今の自分にはまだ踏み込みすぎる気がした。


 だがレオンハルトは、アリアが最後まで言わずとも理解したらしい。


「王族の婚約は私にも無関係ではない。それだけだ」


 簡潔で、無駄がない。


 たしかにそれで十分説明はつく。だがそれだけではないのでは、とほんの少し思ってしまう自分がいて、アリアは心の内で慌ててそれを打ち消した。


 期待してはいけない。

 そういう感情に寄りかかるべきではない。

 今必要なのは、事実だ。


 レオンハルトは話を切り替えるように言った。


「しばらく一人で動くな」


 命令口調だった。


 アリアは瞬きをする。


「一人で、ですか」


「階段、廊下、図書室、庭園。どこで何を見られ、どう切り取られるか分からない。今の君は“何をしても悪く見える”状態に置かれている」


 それは痛いほど正しい指摘だった。


 冷たく見える。怖く見える。平然として見える。

 何をしても悪意に解釈される。

 ここ数日、身をもって知ったことだ。


「では、どうすれば」


「一人にならないことだ。少なくとも学園内では」


「エレノアと一緒にいれば……」


「多少はましだろう」


 多少は。


 その表現に少しだけ現実が滲んでいて、アリアはむしろ安心した。


 完璧な解決策などないのだ。あるのは少しでも傷を減らす手段だけ。その現実感がありがたかった。


「それから、君が接触していた可能性のある侍女や使用人の名を書き出せ」


 ユリウスが補足する。


「ローゼン嬢の周囲に出入りした人間と照らし合わせます。もし、金品の授受や伝言役がいるなら引っかかるかもしれません」


「分かりました」


 アリアは頷いた。


 ここまで具体的に“やるべきこと”として示されると、むしろ気持ちが落ち着く。昨日まではただ傷つき、耐えるしかなかった。だが今は違う。少なくとも、こちらには調べる側の動きがある。


 その事実が、沈みかけた心に少しずつ重みを与えてくれる。


 その時、ふいにレオンハルトがアリアを見た。


「昨夜から、まともに眠れていないな」


 唐突な指摘だった。


 アリアは少しだけ目を見開く。


「……そのように見えますか」


「見える」


 迷いのない返答。


「顔色が悪い。筆跡や紙質の違和感に気づく程度には冷静だが、無理をしている」


 そこまで言われると、もはや否定の余地がない。


 アリアは小さく息を吐いた。


「少しだけ、疲れております」


「少しではないだろう」


 昨日と似たようなやり取りだった。だが今日は、昨日ほど胸が痛まない。むしろ、無理を無理と見抜かれていることが、妙にくすぐったく、そして救いにも感じられた。


「……はい」


 観念して認めると、レオンハルトは満足したようでも、呆れたようでもない表情で頷いた。


「無理をするなとは言わない。君はたぶん聞かない」


「申し訳ありません」


「だが、倒れるな」


 その一言は、命令のようでいて、思った以上に優しかった。


 アリアは返事をする前に、一瞬だけ言葉を失った。


 倒れるな。


 ただそれだけの言葉なのに、喉の奥が熱くなる。昨日、誰も自分の心や身体がどうなるかなど見ていないと思っていたからかもしれない。


「……気をつけます」


 ようやくそう答えると、レオンハルトは話を終えるように立ち上がった。


「今日はもう戻れ。学園内での動きはこちらでも見ておく」


「はい」


 アリアも立ち上がる。


 だが扉の前で、ふと足が止まった。


 言うべきか迷う。けれど、今ここで言わなければ、きっと後悔する気がした。


「あの」


 振り返ると、レオンハルトが視線だけで先を促した。


「昨夜も、今日も……ありがとうございます」


 ありきたりな礼だった。けれど、飾る余裕はなかった。


 レオンハルトは少しだけ間を置いてから、静かに返した。


「礼を言うのは、まだ早い」


 それは前にも聞いた言葉だった。だが今日は、その続きがあった。


「真実がどこにあるか、まだ見えていない」


「はい」


「だが、見えるまで終わらせるつもりはない」


 アリアの胸が、大きく一度だけ揺れた。


 見えるまで終わらせない。


 その言葉は、今までの誰の言葉よりも強く、深く、彼女の中に落ちた。


 婚約者は自分を切り捨てた。

 周囲は悪評を広げた。

 教師たちでさえ慎重に距離を取った。


 けれどこの人は、終わらせるつもりはないと言う。


 それだけで、今日一日受けた無数の視線の痛みが、少しだけ違う意味を持つ気がした。


 アリアは深く一礼した。


「……承知しました」


 部屋を出るとき、廊下の空気は行きより少しだけ軽く感じられた。問題は何一つ解決していない。悪評は残ったまま。婚約も壊れたまま。けれど、真実を追う人がいる。真実を恐れて、急いでいる誰かもいる。


 それが分かっただけで、足元の闇にわずかな輪郭が生まれる。


 アリアはゆっくりと息を吐き、放課後の静かな廊下を歩き出した。


 ただ傷ついて終わるつもりはない。


 その思いだけが、ようやく彼女の中で、はっきりした形を取り始めていた。

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