第12話 守られることに慣れていない令嬢
レオンハルトに呼ばれた翌日、アリアは自分でも分かるほど、周囲を見る目が少し変わっていた。
悪評は消えない。視線も消えない。
けれど、その中にどんな種類の意図が混ざっているのかを、ただ受けるだけでなく見ようとする余裕が、ほんのわずかだが生まれていた。
朝の教室でも、相変わらず囁きは止まない。
「また来たのね」
「さすがに神経が太いわ」
「でも昨日、皇太子殿下に呼ばれていたでしょう?」
「まさか、取り入ったのでは……」
その言葉に一瞬だけ胸が冷えたが、アリアはすぐに“そう来るのか”と思い直した。
なるほど。今度はそういう方向へ持っていくのだ。
冷たい悪役令嬢。
婚約破棄された可哀想な令嬢。
そして今度は、皇太子に取り入る計算高い女。
どれだけ役を上塗りすれば気が済むのだろう。
「おはようございます、アリア様」
エレノアがいつものように来て、声を潜めた。
「今朝の噂は“皇太子殿下に泣きついた”ですって」
「泣きついてはいないわ」
「知っております。だから余計に腹立たしいのです」
アリアは小さく息を吐く。
「昨日、殿下に言われたの。一人で動くなって」
「まったくその通りですわ」
エレノアは即答した。
「今日からわたくし、可能な限りご一緒します」
「迷惑ではなくて?」
「今さらです」
きっぱりと返され、アリアは少しだけ目を細めた。ありがたさが先に立つ。誰かと一緒にいるだけで、本当に少しはましなのだと、昨日までの経験で身に染みていた。
授業の合間、エレノアと連れ立って廊下へ出ると、今までよりあからさまに“観察”されている感覚があった。特に令嬢たちの目が鋭い。まるで何か新しい材料を探しているように。
それでも、エレノアが横にいるだけで受け止め方が違う。
自分一人で歩いているときのような、無防備に晒される痛みが少し薄れるのだ。
二時間目のあとの短い休み時間、アリアが窓辺で息をついていると、教室の前方で小さな混乱が起きた。
ミレイユが持っていた教本を落としたのだ。
何人かの女子生徒が慌てて拾う中、別の男子生徒が先回りするようにかがみ込み、彼女へ手渡す。
「大丈夫?」
「あ、ありがとうございます……」
その光景自体は何でもない。だが、ミレイユが受け取るとき、ちらりとアリアの方を見て、すぐに視線を逸らした。その一瞬で、周囲の何人かがまた微妙な空気を作る。
何も起きていない。
それでも、“何かありそうだった”という印象だけは残る。
アリアはその不自然さに、逆に冷静になった。
毎回こうなのだ。具体的な加害はなく、ただ印象だけが積み上がる。
「……本当に、うまいわね」
思わず漏らすと、隣のエレノアが眉をひそめた。
「何がですの?」
「何も起きていないようで、ちゃんと空気だけは作っていくところ」
エレノアは少し黙ってから、小さく頷いた。
「ええ。だから厄介ですわ。何もしていない側ほど、自分からは手を出しづらい」
昼休み、アリアはエレノアとサロンへ向かう途中で、ふと後ろから呼び止められた。
「ルーヴェルト様」
振り返ると、そこにいたのは見覚えのある女子生徒だった。同じ学年だが、特別親しいわけではない。彼女は周囲を気にするようにしながら、控えめに言葉を続ける。
「あの……わたくし、別にローゼンさんの味方というわけではないのです。ただ、その……少し、お気をつけになった方がよろしいかと」
エレノアがすぐに警戒を滲ませる。
「どういう意味ですの」
「ここ数日、ベアトリス様たちが“次はもっとはっきりした形で出るかもしれない”とおっしゃっているのを聞いてしまって……」
アリアの胸がわずかに強張った。
「次、とは」
「分かりません。けれど、夜会でうまくいかなかったから、別の形で……と」
そこまで言うと、その生徒は青ざめたように首を振る。
「ごめんなさい、変なことを……! ただ、何となく不安で……失礼します」
彼女はそれ以上関わることを恐れるように、足早に去っていった。
エレノアが小さく息を呑む。
「やはり、まだ終わっておりませんわね」
「ええ」
アリアは短く答えたが、内心では奇妙な落ち着きもあった。
もう来ると分かっているからだ。
向こうが次を用意している。
それは怖い。けれど、何も知らずに待っているよりはましだった。
サロンで昼食を取っている最中、アリアはふと気づいた。いつもならこうした警告を受けても、自分だけで抱え込み、誰にも話さぬまま耐えようとしただろう。
だが今は違う。
「……後で、殿下に伝えた方がよいかしら」
その言葉に、エレノアが顔を上げる。
「もちろんですわ」
「でも、あまり頼りすぎるのは……」
「頼ることと、状況を伝えることは違います」
エレノアの言葉は迷いがなかった。
「アリア様は、守られることに慣れていないだけです」
その指摘は図星だった。
アリアはフォークを置き、しばらく窓の外を見た。風に揺れる木々は穏やかだ。なのに、自分だけが今までずっと、守られないように育ってきた気がする。
弱みを見せないこと。
助けを求めないこと。
それが公爵令嬢としての矜持だと思ってきた。
けれど、それで本当に良かったのか。
レオンハルトは、一人で動くなと言った。
エレノアも、伝えるべきだと言う。
母ですら、抱え込むなと言った。
ならば、今までの自分のやり方を少し変えるべきなのかもしれない。
放課後、アリアは学園を出る前に、ユリウスへ伝言を頼むことにした。直接会うほどでもない小さな情報かもしれない。だが、“次があるかもしれない”という警告を黙って抱える方が危険だ。
東棟の回廊でユリウスを見つけた時、彼は少しだけ意外そうに目を細めた。
「ルーヴェルト嬢からこちらへ来られるとは珍しい」
「ご迷惑でしょうか」
「いいえ。むしろ歓迎します」
さらりと返され、アリアは一瞬だけ言葉に詰まる。
歓迎。
そんな言葉を今の自分に向ける人がいることに、まだ慣れない。
事情を伝えると、ユリウスは真顔になった。
「それは有益です。ありがとうございます」
「大げさでは……」
「大げさかどうかを決めるのは、こちらです」
それもレオンハルトに少し似た言い方だった。
「殿下にもお伝えします。今後、授業間の移動もなるべく単独にならぬように」
「そこまでしていただく必要が――」
「ございます」
ぴしゃりと切られ、アリアは口をつぐむ。
守られることに慣れていない。
エレノアの言葉が蘇る。
たしかにその通りだ。
自分は今まで、与えられる助力に対して、まず“そこまでしてもらう価値が自分にあるのか”を考えてしまう。けれど今は、価値がどうこうではなく、使える手は使わなければならないのだ。
「……ありがとうございます」
「今度こそ、それで結構です」
ユリウスの返しに、アリアはほんの少しだけ表情を和らげた。
屋敷へ戻る馬車の中で、アリアは窓の外を眺めながら考えていた。
守られることは、弱さではないのかもしれない。
助けを求めることは、負けではないのかもしれない。
むしろ、独りで耐える方が都合よく利用される局面もある。
それを学ぶには、少し遅すぎたかもしれない。けれど今からでも遅くはない。
まだ終わっていないのだから。




