第13話 社交界での再登場
三日後、王都の小規模な茶会に、アリアは母クラウディアとともに出席することになった。
本来なら、婚約破棄騒動の直後に公の場へ出るのは避けたくなるところだ。だが今のルーヴェルト家に必要なのは沈黙ではなく、むしろ「隠れていない」という事実だった。
クラウディアは朝から言った。
「今日は負け顔を見せてはなりません」
「はい」
「ただし、無理に笑う必要もないわ。堂々としていなさい」
その“堂々”が今まで裏目に出てきたのでは、と一瞬思わないでもなかった。だが母はそれを見越したように続ける。
「一人で戦う顔ではなく、家がついている顔をなさい」
アリアはその意味を理解し、静かに頷いた。
茶会の会場は王都でも格式高い侯爵家の離宮だった。華やかではあるが、夜会ほど大勢が集まるわけではない。だからこそ、噂はより濃く回る。
会場へ足を踏み入れた瞬間、あちこちの視線が向くのを感じた。
婚約破棄された公爵令嬢。
平民少女を虐めたと噂される令嬢。
皇太子が口を挟んだ問題の女。
さまざまな肩書きが、自分の後ろに貼りついて歩いているようだった。
それでもクラウディアは一歩も引かず、アリアを伴って人々の前へ出る。挨拶は完璧で、視線は冷静で、少しも娘を隠す様子を見せない。その姿がどれほど強い後ろ盾になるかを、アリアはこのとき初めて実感した。
だが、本当の意味で空気が変わったのは、その少し後だった。
ざわめきが広間の入口から広がる。
人々が一斉に振り向く。
アリアもつられて視線を向けると、そこに現れたのはレオンハルトだった。
黒に近い濃紺の礼装。余計な装飾を嫌うような簡潔さ。だが、その簡潔さがかえって彼の立場と美貌を際立たせる。
第一皇太子が、こうした小規模な茶会へ顔を出すこと自体が珍しいのだろう。場の空気が一気に引き締まる。
アリアの胸は、ひどく静かに大きく揺れた。
なぜここに。
偶然ではないのではないか。
そう思う間もなく、レオンハルトの視線がこちらを捉えた。
彼は迷いなく歩み寄ってくる。
その姿に、周囲の令嬢たちが息を呑むのが分かった。
「ルーヴェルト公爵夫人」
「レオンハルト殿下」
クラウディアが優雅に一礼する。アリアもそれに続いた。
「ご機嫌麗しゅう、殿下」
ありきたりな挨拶のはずなのに、声が少しだけ硬くなる。自分でもそれを感じていた。
レオンハルトは一瞬だけアリアを見てから、母へ向けて言った。
「少し、お嬢息女をお借りしても?」
周囲の空気が、今度こそ明確に変わった。
公の場で。
しかもこれだけ噂の渦中にある令嬢を。
皇太子が自らエスコートする。
その意味を、誰もが一瞬で理解しただろう。
クラウディアはさすがにわずかに目を細めたが、すぐに微笑を整えた。
「娘でよろしければ、どうぞ」
差し出されたのはレオンハルトの腕だった。
アリアはほんの一瞬だけためらった。だが、ここで躊躇う方がかえって悪い。そっと手を添えると、彼はそれを当然のように受け止め、そのまま会場の中央寄りへと歩き出す。
ざわめきが背中に押し寄せる。
「まさか……」
「本気なの……?」
「ただの保護ではなくて?」
「でも、公の場でここまで……」
アリアは耳が熱くなるのを感じた。
守る。
庇う。
それだけではない種類の意味が、今の行動にはあった。
レオンハルトは歩調を合わせながら、低く言った。
「顔を上げろ」
アリアは少しだけ驚いて彼を見る。
「今さら怯えた顔を見せるな」
「……怯えているつもりは」
「つもりでなく、見え方の話だ」
それは叱責ではなく、指示だった。
アリアは小さく息を吸い、言われた通り顔を上げた。すると、確かに周囲の視線の受け止め方が変わる。噂の中で縮こまる令嬢ではない。皇太子に伴われ、真っ直ぐ前を見る公爵令嬢。
その構図は、人々の中の物語を少しだけ塗り替える。
テラスに面した位置まで来ると、レオンハルトは歩みを止めた。
「昨夜までより、ましな顔だな」
不意の言葉に、アリアは一瞬反応が遅れた。
「……お褒めいただいているのでしょうか」
「事実を言っただけだ」
相変わらず簡潔だ。だがそれでも、彼なりに状態を見てくれているのだと分かる。
「殿下は、どうしてここへ」
「必要だと思った」
それだけだった。
必要。
その二文字に、アリアの胸がまた小さく揺れる。
この人はいつもそうだ。余計なことは言わない。だが、言わないまま、必要な行動だけは取る。
だからこそ重い。
「周囲が勝手な物語を作るのなら、こちらも見せるべきものを見せる」
レオンハルトは広間を一瞥して言う。
「君が一方的に切り捨てられる立場ではないと」
アリアは言葉を失った。
助けられている。
しかも、公の場で。
これ以上ないほど分かりやすい形で。
それがありがたく、同時に怖かった。これほどの後ろ盾を与えられて、自分は本当にそれに応えられるのだろうか、と。
「……ありがとうございます」
ようやく絞り出したその一言に、レオンハルトは短く「まだ早い」と返した。
だがその直後、近くを通りかかった年配の貴婦人へ、彼は自然な仕草でアリアを紹介した。
「ルーヴェルト嬢だ」
まるで、何の問題もない令嬢を扱うように。
その一事だけで、茶会の空気は目に見えて変わった。
悪役令嬢として遠巻きに見られていたアリアが、皇太子に伴われて当然のように公の場へ出ている。
その事実は、噂好きな社交界の人々にとって新しい餌であると同時に、迂闊に彼女を貶めにくくする枷にもなった。
元婚約者より格上の存在が、あえて自分の近くへ置く。
その意味を、誰も軽くは見られない。
アリアはようやく、自分が“公の場で選ばれる”ことの重みを知った。
それは、ただ庇われるよりもずっと強い。




