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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第89話 婚約者の席は、甘くも容赦なく

 正式な婚約発表から二日。


 アリア・フォン・ルーヴェルトは、王宮の回廊を歩きながら、自分の足音が以前よりわずかに違って聞こえることに気づいていた。


 気のせいなのかもしれない。

 けれど、同じ石床を踏んでいても、もう“皇太子のそばにいる令嬢”として歩いていた頃とは違う。

 今の自分は、はっきりと名を持ってここにいる。


 皇太子の婚約者。


 その名は、守りにもなる。

 だが同時に、以前よりずっと容赦なく見られる印でもあった。


 王宮の空気は、発表前よりむしろ静かになったように見える。

 あからさまなざわめきは減った。

 露骨な探りも減った。

 けれどそれは、関心が薄れたからではない。逆だ。


 もう“どうなるのか”を面白がる段階は終わった。

 これからは、“婚約者として本当に立てるのか”を見定める段階に入ったのだ。


 それは、以前よりずっと冷たい。


「お嬢様」


 半歩後ろを歩くリナが、小さく囁く。


「本日は、女官方の視線がまた少し違いますね」


「ええ」


 アリアは視線を前へ向けたまま答える。


「噂を見る目ではなくなってきたわ」


「はい。“失敗を待つ”お顔と、“見極める”お顔が混ざっております」


 的確な表現だと思った。


 失敗を待つ者はいる。

 それは消えていない。

 だが同時に、“婚約者としてどう振る舞うのか”を確かめようとする者も増えた。

 祝福すべき相手なのか。

 距離を詰めるべき相手なのか。

 それとも、今のうちに線を引いておくべき相手なのか。


 皆、自分なりに値踏みしているのだ。


 この日のアリアには、王宮内の小規模な昼食会への同席が予定されていた。


 正式な晩餐会ほど大げさではない。

 だが、参加する顔ぶれは軽くない。

 王宮に近い若手貴族家の子弟数名と、その母親たち。

 さらに重臣家の縁者が二人。

 表向きは“婚約発表後の顔見せ”だが、実際にはもっと分かりやすい場だった。


 婚約者としての最初の席。

 だからこそ、皆が見る。


 控えの間へ入ると、女官長補佐がいつもより引き締まった顔で待っていた。


「ルーヴェルト様、本日の席順最終確認でございます」


「ありがとうございます」


 差し出された紙を受け取り、アリアはすぐに目を通す。


 前なら、王宮側が整えてきた資料をまず信じただろう。

 今は違う。

 婚約者になったからといって油断はしない。

 むしろ婚約者だからこそ、確認の精度を上げるべきだと知っている。


 上段。問題なし。

 主位側、良し。

 若手子弟の並び――。


「……こちら」


 アリアはすぐに指先を止めた。


「シュタインベルク子爵家のご子息が、リーベルト伯家令嬢の上席側になっております」


 女官長補佐が紙を覗き込む。


「本当ですね」


「子爵家と伯家の並びとしてだけなら不自然ではありませんが、今回は伯家令嬢側が王宮側の客位扱いです。逆にすると、先方の母君が“我が家を軽んじた”と取るかもしれません」


 女官長補佐の目がわずかに細くなる。


「……気づいていただけて助かります」


 その言い方に、アリアは内心で小さく息をついた。


 やはり今日も、小さな綻びは仕込まれている。

 露骨ではない。

 大騒ぎになるほどでもない。

 けれど、“あの婚約者はまだ細部が見えていない”と言わせるには十分な程度のずれ。


 静かな刃。

 それが、婚約者になった今もなお続いている。


「今のうちに直しましょう」


 アリアは淡々と言った。


「あと、この列だけではなく、客位注記のついた家格順をもう一度全体照合してください」


「承知いたしました」


 女官長補佐がすぐに動く。

 最近、王宮内の一部はもうアリアの指示を“出しゃばり”ではなく、“必要な補正”として受け取るようになっていた。

 それ自体は大きな変化だ。


 だが同時に、その変化が面白くない者もいるのだろう。


 昼食会そのものは、表向き極めて穏やかに進んだ。


 王宮内の小広間。

 明るい昼の光。

 控えめな花。

 軽い食事。

 そして、にこやかな会話。


 けれど、そこに座る者たちの視線は少しも軽くない。


「ルーヴェルト様」


 最初に声をかけてきたのは、重臣家の縁者である侯爵夫人だった。

 笑みはやわらかい。

 だが、そのやわらかさの奥にある刃は見える。


「ご婚約、改めておめでとうございます」


「ありがとうございます」


「本当にお似合いですこと」


 そう言ってから、夫人はわずかに目元を細めた。


「でも、婚約者という立場は、以前とはまた違うご苦労もおありでしょう?」


 探っている。

 どこまで自覚しているのか。

 どこまで浮かれていないのか。


「ええ」


 アリアは静かに答える。


「以前より、ずっとはっきり見られていると感じます」


「まあ」


 夫人は少しだけ楽しげに扇を傾けた。


「ご自覚はおありなのですね」


「必要だと思っておりますので」


 短く、それ以上は膨らませない。

 すると夫人は一瞬だけ意外そうな顔をし、それから微笑みを戻した。


「でしたら安心ですわ」


 その“安心”が本心だけではないことは分かる。

 けれど、以前のようにそこで一方的に切られた感じはしなかった。

 少なくとも今は、“婚約者として応じるかどうか”を見られている。


 それは、候補時代より一段ましだ。


 別の席では、若い令嬢たちの視線がもっと分かりやすい。


 羨望。

 諦め。

 嫉妬。

 その全部が、以前より露骨ではない代わりに、もっと重く沈んでいる。


 その中の一人、子爵令嬢がやや硬い顔で言った。


「ルーヴェルト様は、もうすっかり王宮の方ですのね」


 その言い方は、褒め言葉のようでいて、半歩距離を置く響きがあった。

 “こちらとは違う”

 そう言いたいのだろう。


 アリアは小さく首を振る。


「まだ、そう言い切れるほどではございません」


「でも、婚約者でいらっしゃるのでしょう?」


「ええ」


 そこは否定しない。


「でしたら、もう以前のような学園の令嬢とは違うのでは?」


 そこへ来たか、とアリアは思う。


 婚約者になったことで、身近さを失った女。

 そういう形へ押し込めたいのだろう。

 だが今ここで“ええ、違います”と言えば鼻持ちならない。

 かといって“同じです”も違う。


 アリアは一拍だけ考え、それから答えた。


「以前と同じではいられません」


 子爵令嬢の目が少しだけ動く。


「でも、それは高いところへ行ったからではなく、責任が増えたからです」


 その返答に、周囲の空気が少しだけ変わった。


 高くなったからではなく。

 責任が増えたから。


 それは婚約者になった今の自分を、一番正しく表す言葉の一つだった。


 昼食会の終盤、アリアはさらに一つ、小さな異変に気づく。


 本来なら女官が先に下げるはずの皿が、一卓だけ遅れているのだ。

 しかもその卓には、先ほどの重臣家縁者と、北方側の若い夫人が同席している。


 もしここでもたつけば、“婚約者の差配が乱れている”と見える位置だった。


 アリアはすぐに立ち上がるのではなく、まず背後の給仕へ小さく視線を送った。

 次に、半歩だけ位置をずらし、女官側の視界へ入る。

 それだけで、補佐の女官がはっとして動いた。


 皿は自然な流れで下げられ、場は崩れない。


 大きなことではない。

 でも、今の一瞬を見ていた者は少なくなかった。


 その中には、“やはり目が利く”と見る者もいれば、ますます面白くなさそうに眉を寄せる者もいた。


 祝福と敵意のあいだ。

 それが今の自分の席なのだと、アリアは改めて思う。


 昼食会が終わり、人の流れが少し緩んだところで、女官長補佐がそっと近づいてきた。


「本日も助かりました」


「皆様が動いてくださったからです」


「いえ。婚約者という立場で、あそこまで自然に場へ手を入れられるのは、簡単ではありません」


 その言葉に、アリアはほんの少しだけ目を伏せた。


 婚約者という立場で。

 そうだ。

 今の自分はもう、その立場で見られている。


 王宮を出る前、当然のように小会議室へ呼ばれた。


 扉を開けると、レオンハルトは一人ではなかった。

 ユリウスもいて、机上にはまた封書が増えている。


「来たか」


「はい」


「今日の昼食会は」


「静かでした」


 アリアがそう言うと、ユリウスが小さく笑った。


「それは王宮的な意味で、ですね」


「ええ。とても」


 アリアは席へ着き、今日あった細かなずれや、席上でのやり取り、皿の遅れの件まで手短に伝えた。


 話し終えると、レオンハルトが一言だけ言う。


「上出来だ」


 短い。

 でも、それだけで十分だった。


「婚約者として最初の刃は」


 彼は静かに続ける。


「受けた上で、返せている」


 その言葉に、アリアの胸の奥が静かに熱を持つ。


 候補だった頃なら、“受け止める”だけで精一杯だったこと。

 今はもう、“返す”という言葉で評価されている。


「……ありがとうございます」


「礼はいらない」


 そう言ってから、レオンハルトは少しだけ声を落とした。


「だが、ここから先はもっと露骨になる」


「はい」


「今日のように“婚約者としてどうか”を試すだけでは済まなくなる」


 アリアは頷く。


 分かっている。

 婚約者に向けられる最初の刃は、まだ小さい。

 これからもっと、本格的に王宮の政治と外部貴族の思惑が絡んでくるのだろう。


「それでも」


 アリアは静かに言う。


「今日、自分がどこへ立っているのかは、よく分かりました」


「どういう意味だ」


「私はもう、祝福されるか否かを待つだけの立場ではないのですね」


 レオンハルトの目が、わずかに細められる。


「そうだ」


「婚約者として、祝福も敵意も受けながら、自分で立つ位置を守る側なのだと」


 そう言った瞬間、自分の中で何かがさらに定まる。


 レオンハルトは一拍置き、それから低く答えた。


「ようやく実感したか」


「ええ」


「なら、いい」


 短いやり取り。

 けれど、それが今はひどくしっくり来た。


 婚約者としての最初の朝。

 そして最初の刃。

 その一日を越えて、アリアはもう、ただ選ばれたことに喜ぶだけの位置にはいなかった。


 ここからは、本当に共に立つ時間なのだ。

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