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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第88話 婚約者に向けられる最初の刃

 皇太子の婚約者として迎えた最初の朝が終わり、最初の一日が過ぎた時、アリア・フォン・ルーヴェルトはようやく理解した。


 婚約とは、祝福される立場になることではない。

 祝福と同時に、今までよりもずっと明確な敵意を受け取る立場になることなのだと。


 王宮から戻る馬車の中で、アリアは窓の外へ視線を向けたまま、何度も静かに息を吐いた。


 学園では祝意もあった。

 戸惑いも、羨望も、露骨な距離の取り方もあった。

 けれどあれは、まだ分かりやすい部類なのだろう。


 もっと厄介なのは、にこやかに言葉を交わしながら、その実、どこに刃を入れれば最も効くかを測ってくる者たちだ。


「お嬢様」


 向かいの席で控えていたリナが、小さく声をかけた。


「お疲れですか」


「ええ。少しだけ」


「学園の空気が、やはり変わっておりましたものね」


「学園だけではない気がするの」


 アリアがそう言うと、リナは少しだけ表情を引き締める。


「何か、ございましたか」


「はっきりとはまだ分からないわ。でも」


 アリアは膝の上で指を組んだ。


「王宮での視線が、昨日までとまた違ったの」


 婚約者。

 その名前が正式に出たことで、これまでは曖昧だった距離感が、急に具体的な利害へ変わった。

 誰が近づくべきか。

 誰が牽制すべきか。

 誰が、今のうちに“釘を刺しておく”べきか。


 王宮はそういう場所だ。


 屋敷へ戻ると、予想していたより早くユリウスからの呼び出しが来た。


 短い伝言だった。


 『今夜、王宮へ。急ぎではないが、早い方がいい』


 その文面だけで、アリアは少しだけ背筋が冷えるのを感じた。


 急ぎではない。

 だが、早い方がいい。

 つまり、大事だが慌てて騒ぐ類の話ではないということだ。


「行くわ」


 アリアはすぐにそう答えた。


 王宮へ向かう道中、胸の鼓動は思っていたより静かだった。

 怖くないわけではない。

 けれど今の自分は、以前のように“何が起きるのか分からないまま裁かれる”側ではない。

 少なくとも、何かが来るなら受け止める準備をして向かえる。


 それだけで、ずいぶん違った。


 小会議室へ入ると、レオンハルトとユリウスがいた。


 机上には、すでに数通の封書が開かれている。

 王宮内の報告書ではない。

 おそらく、外部貴族から届いたものだ。


「来たか」


 レオンハルトの声はいつも通り低く、落ち着いていた。

 だがその静けさの下にある張りつめ方が、アリアには分かった。


「はい」


 席へ着くより先に、ユリウスが口を開く。


「婚約発表を受けて、すでにいくつか反応が来ています」


「……祝意ではないものも、ですか」


「ええ」


 やはり、と思う。

 そしてその“やはり”が、胸に重く落ちる。


 ユリウスは一枚の封書を手に取った。


「表向きは祝意を述べながら、“時期尚早ではないか”“王宮内の整理が整う前の発表は早計ではないか”といった文言を入れてくるものがいくつか」


「つまり、反対ですわね」


「婉曲ですが」


 ユリウスは淡々と答える。


「もっと直接的なものもあります」


 そう言って別の書面を開く。


「ルーヴェルト嬢が、一度大きな醜聞の中心に置かれたことを蒸し返し、“王家の婚約者として象徴性に難がある”とする声」


 アリアは目を伏せた。

 やはり、そこを使ってくる。


 悪役令嬢。

 婚約破棄。

 冤罪だと整理されつつあっても、“一度そう見られた”という事実だけは、敵にとって格好の材料なのだ。


「他には」


 レオンハルトが短く促す。


 ユリウスはもう一枚を差し出した。


「こちらはさらに厄介です。“婚約発表後の王宮内で、すでに一部女官たちがルーヴェルト嬢の指示系統に戸惑っている”という内容です」


 アリアは顔を上げた。


「そんな……」


「事実ではありません」


 レオンハルトが即座に言う。


「だが、もっともらしい」


 その通りだった。

 完全な嘘ではなく、もっともらしい半端な嘘。

 そういうものが一番広がりやすい。


 婚約者になったばかりの令嬢が、王宮内で早くも出しゃばっている。

 女官たちが扱いに困っている。

 そういう形に持っていきたいのだろう。


 アリアは静かに息を吸った。


 婚約者に向けられる最初の刃。

 それは、予想していた以上に早く、そして巧妙に来た。


「……私が婚約者になったから、ですね」


「そうだ」


 レオンハルトははっきり言う。


「候補なら、まだ潰しようもあった。だが今は違う」


「だから、“不適切だった”ことにしたいのですね」


「ええ」


 今度はユリウスが頷く。


「決まった以上、止めるためには“決定そのものが誤りだった”と後から言える材料が必要です。そのための下地を、今から作ろうとしている」


 理屈は分かる。

 分かるからこそ厄介だ。


「では、どう対処するのですか」


 アリアが問うと、レオンハルトは迷いなく答えた。


「まず、君は変わるな」


「……また、それですか」


「また、だ」


 短いやり取りなのに、少しだけ救われる。


「今ここで、君が“婚約者らしくしよう”と不自然に振る舞えば、向こうの思うつぼだ」


 レオンハルトの声は低く確かだった。


「急に威厳を作るな。急に距離を取るな。急に優しくもしすぎるな」


 アリアは思わず小さく息を吐く。


「難しいことをおっしゃいます」


「だから私が言っている」


 その一言が、妙にこの人らしい。


「君はこれまで通り、必要なところで立て。必要なところで引け。それで十分だ」


 婚約者になったからといって、別人になるな。

 そういうことなのだろう。


「そして」


 レオンハルトは少しだけ声を落とした。


「刃が来たなら、今度は婚約者として返せ」


 アリアは目を瞬いた。


「婚約者として?」


「そうだ」


 彼はまっすぐ言う。


「曖昧な立場なら耐えるしかなかったことも、今は違う。君にはもう、守るべき線も、返すだけの正当性もある」


 その言葉は大きかった。


 候補の頃は、何を言っても“まだその立場ではない”と返されかねなかった。

 だが今は違う。

 皇太子の婚約者。

 その名があるからこそ、守るべき線も、踏み込んでいい線も、以前より明確になっている。


「……分かりました」


 アリアは静かに頷く。


「怖い?」


 不意に、レオンハルトが問う。


 以前なら、その問いに一瞬詰まっただろう。

 けれど今は違った。


「怖いです」


 素直に答える。


「でも、前よりは分かりやすいです」


「どういう意味だ」


「もう、私がどこを守るべきか分かっているからです」


 その言葉に、ユリウスがわずかに目を上げた。

 レオンハルトの目も、ほんの少しだけやわらぐ。


「そうか」


 それだけ。

 でも、それで十分だった。


 会議室を出る時、アリアは机上の封書をもう一度見た。


 祝福。

 敵意。

 もっともらしい反対。

 婉曲な悪意。


 これから先、そういうものはもっと増えるだろう。

 婚約したから終わりではない。

 婚約したからこそ、ここからが本当の戦いなのだ。


 回廊へ出ると、夜の王宮は変わらず静かだった。

 けれど今のアリアには、その静けさの中に無数の目があることが分かる。


 婚約者に向けられる最初の刃。

 それは、甘い未来の始まりではなく、甘さを守るために立ち続けなければならない現実の始まりだった。


 それでも、アリアは足を止めなかった。


 もう自分は、ただ傷つくだけの令嬢ではない。

 皇太子の婚約者として、正面から立つと決めたのだから。

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