第87話 婚約者としての最初の朝
翌朝、アリア・フォン・ルーヴェルトは、目を覚ました瞬間に胸の奥へ静かに落ちてくる現実で、自分がもう昨日までとは違う場所に立っているのだと知った。
皇太子の婚約者。
その言葉は昨夜、王宮の正式な告知によって、とうとう誰の目にも否定できぬものとなった。
“近しい令嬢”でも、“有力な候補”でもない。
もう曖昧な余地を残さぬ名を、自分は与えられ、そして受け取ったのだ。
部屋の中はいつも通りだった。
朝の光が薄絹のカーテン越しに差し込み、庭では鳥が鳴いている。遠くで使用人たちの足音が微かに響く。何一つ特別ではない朝のようでいて、自分の胸の内側だけが決定的に変わっていた。
「……本当に、始まったのね」
小さくそう呟く。
昨日、レオンハルトは言った。
終わったのではなく、始まったのだと。
そして、それはまさにその通りなのだろう。
婚約が定まった。
だがそれは、ようやく入口に立ったにすぎない。
これからは社交界の目も、王宮の期待も、敵意も、祝福も、全部が“婚約者”という名を前提にこちらへ向かってくる。
怖くないわけではない。
でも、不思議と胸の芯は静かだった。
「おはようございます、お嬢様」
リナが入ってくる。
いつもの礼。いつもの声音。
けれど今朝ばかりは、その目元に抑えきれぬ熱がある。
「おはよう、リナ」
「……眠れましたか」
「少しだけ」
正直にそう言うと、リナが小さく笑う。
「でしょうね」
そして少しだけ躊躇ってから、静かに続けた。
「改めまして……おめでとうございます」
その一言に、アリアは思わず目を細めた。
昨夜も祝福は受けた。
けれど、こうして日常の朝の中で改めて言われると、胸への落ち方が違う。
「ありがとう」
「本日は、きっと屋敷の中も少し違います」
「そうでしょうね」
「皆、表立って騒ぎはいたしませんが……とても喜んでおります」
その言葉はあたたかかった。
悪役令嬢と囁かれ、婚約を切られ、屋敷の中にまで沈んだ空気が流れた時期を思えば、今こうして“喜ばれている”というだけで、胸の奥がじんとする。
鏡の前に座ると、リナが髪を整えながら言った。
「本日からは、装いの見え方も少し変わります」
「婚約者だから?」
「はい。以前と同じお召し物でも、皆様の受け取り方が変わります」
その言葉は、まさにこれからの現実そのものだった。
服も、立ち姿も、目線も、言葉も。
今までは“皇太子の隣にいる令嬢”として見られていたものが、今日からは“皇太子の婚約者”として見られる。
それは、ほんの少しの差のようでいて、実際には大きい。
「では、私もそれに見合うように立たなければいけないわね」
そう言うと、リナは迷いなく頷いた。
「お嬢様なら、きっと」
朝食の席には、クラウディアと公爵が揃っていた。
アリアが入った瞬間、二人の視線が静かに向く。
派手な祝福はない。
けれどその代わりに、家の中心として娘を見つめる、深くて落ち着いた眼差しがあった。
「おはようございます」
「おはよう、アリア」
クラウディアの返答はいつも通りだ。
だが、そのあとに続く言葉は少し違った。
「今朝は、もう“娘”というだけではいられない朝ね」
アリアは小さく頷く。
「はい」
公爵が静かに言った。
「本日から、外は確実に動く」
「ええ」
「祝意もあれば、牽制もある。婚約者として、ルーヴェルト家を見る目も変わる」
家の話だ。
当然そうなる。
自分の婚約は、自分一人の恋では終わらない。
家にも、王家にも、外の貴族にも波を起こす。
それが分かるからこそ、昨日の誓いは重かった。
「分かっています」
アリアがそう答えると、公爵は一度だけ頷いた。
「ならよい」
長い言葉ではない。
けれどその一言に、“もう子ども扱いはしない”という認め方が含まれている気がした。
王立学園へ向かう馬車の中、アリアは窓の外を見ながら何度も深く息を吸った。
今日は確実に、昨日よりさらに見られる。
王宮で正式告知があった以上、学園へ届くのも時間の問題ではない。
むしろ、もう届いていると考える方が自然だろう。
正門へ着いた瞬間、その予想はすぐ現実になった。
ざわめきが、明らかに違う。
昨日までの“そうらしい”ではない。
今日はもう、“そうなった”を前提とした空気だ。
「本当に決まったのね」
「昨日、王宮で正式に……」
「ルーヴェルト様が」
「皇太子殿下の婚約者に」
「やっぱり……」
囁きが一斉に広がる。
視線は熱い。
けれど以前よりざらつきが少ない。
嫉妬や探りは残っているのに、それでももう“覆せない現実”として受け止められている。
アリアは顔を上げたまま歩く。
胸の鼓動は速い。
けれど、足は迷わない。
校舎へ入ると、廊下の先からエレノアが駆けてきた。
「アリア様!」
その声には、昨日以上の喜びがにじんでいる。
「おはよう」
「おはようございます! ……ではなくて、本当に、本当におめでとうございます!」
さすがに今日は隠しきれないらしい。
周囲の令嬢たちも、もはや聞こえぬふりはしていない。
「ありがとう」
アリアがそう返すと、エレノアは両手を胸の前で組んで言った。
「もう今朝から大変ですのよ! 皆様、半ば覚悟していたくせに、実際にそうなると落ち着かなくて!」
「そうでしょうね」
「でも、それだけではありませんわ。今朝は、昨日までお高く止まっていた方々まで、どういう顔で接するべきか困っていらっしゃるのです」
その言葉に、アリアは少しだけ苦笑した。
たしかにそうだろう。
悪役令嬢と見下していた相手が、今や皇太子の婚約者になったのだ。
手のひらを返して媚びれば浅ましい。
以前のまま距離を置けば無礼に見える。
その間で揺れる者が多いのも当然だ。
教室へ入ると、空気は一瞬だけ完全に止まった。
そして次の瞬間、何人かが立ち上がる。
令嬢たちが、一斉に礼を取る。
昨日までなら、ここまで露骨ではなかった。
もう、立場が変わったのだと分かる光景だった。
「ルーヴェルト様」
「このたびは」
「おめでとうございます」
祝福の声。
だが、その中には戸惑いも、計算も、嫉妬も混ざっている。
それでもアリアは、一人ひとりに静かに礼を返した。
「ありがとうございます」
それ以上でも、それ以下でもなく。
昼休みのサロンでは、その差がさらに鮮明になった。
以前なら遠巻きにしていた令嬢たちが、今日は自ら話しかけてくる。
逆に、あからさまに視線を逸らし、別の輪へ引いていく者もいる。
その中で、かつて悪役令嬢の噂を面白がっていた子爵令嬢が、ぎこちない笑顔で近づいてきた。
「ルーヴェルト様……いえ、失礼いたしました」
言い直した、その一瞬の迷いがすべてを表していた。
「何でしょう」
アリアが静かに返すと、令嬢は少しだけ唇を噛む。
「以前は、その……無礼があったかもしれません」
ずいぶんと回りくどい謝罪だ。
でも、彼女なりの精一杯なのだろう。
「今さら蒸し返すつもりはありません」
アリアがそう言うと、令嬢の肩がわずかに落ちる。
「ただ」
そこでアリアは少しだけ言葉を置いた。
「今後は、立場にではなく、言葉に責任を持ってくださいませ」
静かな返しだった。
けれど十分だった。
子爵令嬢は顔を赤くし、深く頭を下げる。
「……はい」
ざまぁ、というほど露骨ではない。
だが、以前の位置関係が完全に逆転したことだけは、誰の目にも明らかだった。
放課後、王宮からの呼び出しは当然のように届いた。
小会議室へ入ると、レオンハルトとユリウスが待っている。
今日は机上の書類がいつも以上に多い。
婚約発表の余波が、すでに動いているのだろう。
「来たか」
「はい」
「学園はどうだった」
短い問いに、アリアは小さく息を吐く。
「予想通りでした」
「祝福と、敵意と、計算と?」
ユリウスが半ば確認するように言う。
「全部です」
そう答えると、レオンハルトがわずかに目を細めた。
「だろうな」
「でも」
アリアは少しだけ姿勢を正した。
「以前ほど、怖くはありませんでした」
その言葉に、二人の視線が向く。
「なぜだ」
レオンハルトの問いは簡潔だった。
「もう、自分がどこにいるのかを知っているからです」
アリアははっきりと言う。
「曖昧な位置ではなく、皇太子の婚約者として。そう自分でも分かっているから、周囲の視線に前ほど振り回されませんでした」
その答えを聞いた時、レオンハルトの口元がほんの少しだけやわらいだ。
「そうか」
「はい」
「なら、いい始まりだ」
いい始まり。
その表現が、今のアリアにはとてもしっくり来た。
婚約はゴールではない。
ここからが本番だと、昨日この人も言った。
だから今日は、終わりではなく始まりの最初の日なのだ。
「ここから先、もっと面倒になる」
レオンハルトは言う。
「ええ」
「王宮も外も、君をただの令嬢としては扱わない」
「分かっています」
「それでも隣に立つか」
その問いに、アリアは迷わなかった。
「はい、殿下」
静かに、しかしはっきりと答える。
「ここからも、隣で立ちます」
レオンハルトはまっすぐアリアを見て、それから低く言った。
「なら、私も同じだ」
その一言で十分だった。
皇太子の婚約者として。
それは甘いだけの名前ではない。
だが、甘さも責任も全部含めて、自分はもうそこにいる。
ここからが本番だ。
その言葉を、今のアリアはもう恐れだけでは聞かなかった。




