表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

87/127

第87話 婚約者としての最初の朝

 翌朝、アリア・フォン・ルーヴェルトは、目を覚ました瞬間に胸の奥へ静かに落ちてくる現実で、自分がもう昨日までとは違う場所に立っているのだと知った。


 皇太子の婚約者。


 その言葉は昨夜、王宮の正式な告知によって、とうとう誰の目にも否定できぬものとなった。

 “近しい令嬢”でも、“有力な候補”でもない。

 もう曖昧な余地を残さぬ名を、自分は与えられ、そして受け取ったのだ。


 部屋の中はいつも通りだった。

 朝の光が薄絹のカーテン越しに差し込み、庭では鳥が鳴いている。遠くで使用人たちの足音が微かに響く。何一つ特別ではない朝のようでいて、自分の胸の内側だけが決定的に変わっていた。


「……本当に、始まったのね」


 小さくそう呟く。


 昨日、レオンハルトは言った。

 終わったのではなく、始まったのだと。

 そして、それはまさにその通りなのだろう。


 婚約が定まった。

 だがそれは、ようやく入口に立ったにすぎない。

 これからは社交界の目も、王宮の期待も、敵意も、祝福も、全部が“婚約者”という名を前提にこちらへ向かってくる。


 怖くないわけではない。

 でも、不思議と胸の芯は静かだった。


「おはようございます、お嬢様」


 リナが入ってくる。

 いつもの礼。いつもの声音。

 けれど今朝ばかりは、その目元に抑えきれぬ熱がある。


「おはよう、リナ」


「……眠れましたか」


「少しだけ」


 正直にそう言うと、リナが小さく笑う。


「でしょうね」


 そして少しだけ躊躇ってから、静かに続けた。


「改めまして……おめでとうございます」


 その一言に、アリアは思わず目を細めた。


 昨夜も祝福は受けた。

 けれど、こうして日常の朝の中で改めて言われると、胸への落ち方が違う。


「ありがとう」


「本日は、きっと屋敷の中も少し違います」


「そうでしょうね」


「皆、表立って騒ぎはいたしませんが……とても喜んでおります」


 その言葉はあたたかかった。

 悪役令嬢と囁かれ、婚約を切られ、屋敷の中にまで沈んだ空気が流れた時期を思えば、今こうして“喜ばれている”というだけで、胸の奥がじんとする。


 鏡の前に座ると、リナが髪を整えながら言った。


「本日からは、装いの見え方も少し変わります」


「婚約者だから?」


「はい。以前と同じお召し物でも、皆様の受け取り方が変わります」


 その言葉は、まさにこれからの現実そのものだった。


 服も、立ち姿も、目線も、言葉も。

 今までは“皇太子の隣にいる令嬢”として見られていたものが、今日からは“皇太子の婚約者”として見られる。


 それは、ほんの少しの差のようでいて、実際には大きい。


「では、私もそれに見合うように立たなければいけないわね」


 そう言うと、リナは迷いなく頷いた。


「お嬢様なら、きっと」


 朝食の席には、クラウディアと公爵が揃っていた。


 アリアが入った瞬間、二人の視線が静かに向く。

 派手な祝福はない。

 けれどその代わりに、家の中心として娘を見つめる、深くて落ち着いた眼差しがあった。


「おはようございます」


「おはよう、アリア」


 クラウディアの返答はいつも通りだ。

 だが、そのあとに続く言葉は少し違った。


「今朝は、もう“娘”というだけではいられない朝ね」


 アリアは小さく頷く。


「はい」


 公爵が静かに言った。


「本日から、外は確実に動く」


「ええ」


「祝意もあれば、牽制もある。婚約者として、ルーヴェルト家を見る目も変わる」


 家の話だ。

 当然そうなる。


 自分の婚約は、自分一人の恋では終わらない。

 家にも、王家にも、外の貴族にも波を起こす。

 それが分かるからこそ、昨日の誓いは重かった。


「分かっています」


 アリアがそう答えると、公爵は一度だけ頷いた。


「ならよい」


 長い言葉ではない。

 けれどその一言に、“もう子ども扱いはしない”という認め方が含まれている気がした。


 王立学園へ向かう馬車の中、アリアは窓の外を見ながら何度も深く息を吸った。


 今日は確実に、昨日よりさらに見られる。

 王宮で正式告知があった以上、学園へ届くのも時間の問題ではない。

 むしろ、もう届いていると考える方が自然だろう。


 正門へ着いた瞬間、その予想はすぐ現実になった。


 ざわめきが、明らかに違う。


 昨日までの“そうらしい”ではない。

 今日はもう、“そうなった”を前提とした空気だ。


「本当に決まったのね」

「昨日、王宮で正式に……」

「ルーヴェルト様が」

「皇太子殿下の婚約者に」

「やっぱり……」


 囁きが一斉に広がる。

 視線は熱い。

 けれど以前よりざらつきが少ない。

 嫉妬や探りは残っているのに、それでももう“覆せない現実”として受け止められている。


 アリアは顔を上げたまま歩く。

 胸の鼓動は速い。

 けれど、足は迷わない。


 校舎へ入ると、廊下の先からエレノアが駆けてきた。


「アリア様!」


 その声には、昨日以上の喜びがにじんでいる。


「おはよう」


「おはようございます! ……ではなくて、本当に、本当におめでとうございます!」


 さすがに今日は隠しきれないらしい。

 周囲の令嬢たちも、もはや聞こえぬふりはしていない。


「ありがとう」


 アリアがそう返すと、エレノアは両手を胸の前で組んで言った。


「もう今朝から大変ですのよ! 皆様、半ば覚悟していたくせに、実際にそうなると落ち着かなくて!」


「そうでしょうね」


「でも、それだけではありませんわ。今朝は、昨日までお高く止まっていた方々まで、どういう顔で接するべきか困っていらっしゃるのです」


 その言葉に、アリアは少しだけ苦笑した。


 たしかにそうだろう。

 悪役令嬢と見下していた相手が、今や皇太子の婚約者になったのだ。

 手のひらを返して媚びれば浅ましい。

 以前のまま距離を置けば無礼に見える。

 その間で揺れる者が多いのも当然だ。


 教室へ入ると、空気は一瞬だけ完全に止まった。


 そして次の瞬間、何人かが立ち上がる。

 令嬢たちが、一斉に礼を取る。


 昨日までなら、ここまで露骨ではなかった。

 もう、立場が変わったのだと分かる光景だった。


「ルーヴェルト様」

「このたびは」

「おめでとうございます」


 祝福の声。

 だが、その中には戸惑いも、計算も、嫉妬も混ざっている。

 それでもアリアは、一人ひとりに静かに礼を返した。


「ありがとうございます」


 それ以上でも、それ以下でもなく。


 昼休みのサロンでは、その差がさらに鮮明になった。


 以前なら遠巻きにしていた令嬢たちが、今日は自ら話しかけてくる。

 逆に、あからさまに視線を逸らし、別の輪へ引いていく者もいる。


 その中で、かつて悪役令嬢の噂を面白がっていた子爵令嬢が、ぎこちない笑顔で近づいてきた。


「ルーヴェルト様……いえ、失礼いたしました」


 言い直した、その一瞬の迷いがすべてを表していた。


「何でしょう」


 アリアが静かに返すと、令嬢は少しだけ唇を噛む。


「以前は、その……無礼があったかもしれません」


 ずいぶんと回りくどい謝罪だ。

 でも、彼女なりの精一杯なのだろう。


「今さら蒸し返すつもりはありません」


 アリアがそう言うと、令嬢の肩がわずかに落ちる。


「ただ」


 そこでアリアは少しだけ言葉を置いた。


「今後は、立場にではなく、言葉に責任を持ってくださいませ」


 静かな返しだった。

 けれど十分だった。


 子爵令嬢は顔を赤くし、深く頭を下げる。


「……はい」


 ざまぁ、というほど露骨ではない。

 だが、以前の位置関係が完全に逆転したことだけは、誰の目にも明らかだった。


 放課後、王宮からの呼び出しは当然のように届いた。


 小会議室へ入ると、レオンハルトとユリウスが待っている。

 今日は机上の書類がいつも以上に多い。

 婚約発表の余波が、すでに動いているのだろう。


「来たか」


「はい」


「学園はどうだった」


 短い問いに、アリアは小さく息を吐く。


「予想通りでした」


「祝福と、敵意と、計算と?」


 ユリウスが半ば確認するように言う。


「全部です」


 そう答えると、レオンハルトがわずかに目を細めた。


「だろうな」


「でも」


 アリアは少しだけ姿勢を正した。


「以前ほど、怖くはありませんでした」


 その言葉に、二人の視線が向く。


「なぜだ」


 レオンハルトの問いは簡潔だった。


「もう、自分がどこにいるのかを知っているからです」


 アリアははっきりと言う。


「曖昧な位置ではなく、皇太子の婚約者として。そう自分でも分かっているから、周囲の視線に前ほど振り回されませんでした」


 その答えを聞いた時、レオンハルトの口元がほんの少しだけやわらいだ。


「そうか」


「はい」


「なら、いい始まりだ」


 いい始まり。

 その表現が、今のアリアにはとてもしっくり来た。


 婚約はゴールではない。

 ここからが本番だと、昨日この人も言った。

 だから今日は、終わりではなく始まりの最初の日なのだ。


「ここから先、もっと面倒になる」


 レオンハルトは言う。


「ええ」


「王宮も外も、君をただの令嬢としては扱わない」


「分かっています」


「それでも隣に立つか」


 その問いに、アリアは迷わなかった。


「はい、殿下」


 静かに、しかしはっきりと答える。


「ここからも、隣で立ちます」


 レオンハルトはまっすぐアリアを見て、それから低く言った。


「なら、私も同じだ」


 その一言で十分だった。


 皇太子の婚約者として。

 それは甘いだけの名前ではない。

 だが、甘さも責任も全部含めて、自分はもうそこにいる。


 ここからが本番だ。

 その言葉を、今のアリアはもう恐れだけでは聞かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ