第86話 皇太子の婚約者として
正式発表の日、王宮の空気は朝から澄みきっていた。
晴れているのに、どこか冷たい。
それは季節のせいではなく、この日が持つ意味のせいなのだろうと、アリア・フォン・ルーヴェルトは思った。
今日はもう、隠された約定では終わらない。
内々の婚約として交わされたものが、王家と社交界へ向けて正式に言葉を持つ日だ。
つまり、自分は今日から本当に、誰の目にも“皇太子の婚約者”になる。
鏡の前に立つアリアの姿は、これまでのどの場面とも少し違っていた。
華美ではない。
けれど、静かな威厳があった。
淡い白銀を基調にしたドレスは、未婚の令嬢らしい軽やかさを残しつつ、子どもっぽさはない。胸元には王家から許された控えめな意匠が入り、髪も必要以上に盛らず、ただ整えられている。
誰かに見初められるための装いではなく、すでに選び選ばれた者の装い。
そういう服だった。
「お嬢様」
リナが最後の皺を整えながら、小さく息をつく。
「本当に……お綺麗です」
「ありがとう」
アリアは鏡越しに微笑む。
その笑みが、思っていたより落ち着いていることに自分で少し驚いた。
怖さがなくなったわけではない。
けれどもう、怖さと一緒に立てることを知っている。
「本日は、きっと皆様が見ておられます」
リナのその言葉に、アリアは頷く。
「ええ。だからこそ、前を向くわ」
朝食の席で、クラウディアは娘を見るなり、静かにカップを置いた。
「今日から、もう“もしかしたら”ではないわね」
「はい」
「怖い?」
何度も繰り返されてきた問い。
けれど、今日は答えも少し違う。
「……怖いです」
アリアは正直に言う。
「でも、それよりも、ちゃんと立ちたい気持ちの方が強いです」
クラウディアはわずかに目元を和らげた。
「それなら十分よ」
それだけで、胸の中に静かな力が戻る。
王宮へ向かう馬車の中、アリアは窓の外を見つめながら、自分がここへ至るまでの道を思い返していた。
悪役令嬢と断じられた夜。
婚約を切られた日。
皇太子の視線。
王宮の値踏み。
静かな毒。
そして、自分の意志で隣を選んだあの日。
どれか一つ欠けても、今日の自分にはなれなかった。
苦しかったことも、悔しかったことも、全部が今へ繋がっている。
王宮へ着くと、すでに空気が違った。
今日は隠れた儀礼ではない。
大広間ほどではないが、正式な告知と挨拶のための中広間が整えられている。
王家に近い貴族たち、王宮の重臣たち、主要な夫人たち。
人数は絞られているが、その分、一人ひとりの目が重い。
誰もが知っている。
今日ここで、レオンハルト・エーヴェルシュタインの婚約者が正式に示されるのだと。
控えの間で最後の確認を受ける間にも、アリアは何度か深呼吸をした。
その時、扉が開き、ユリウスが入ってくる。
「ルーヴェルト嬢」
「はい」
「殿下より一言。“いつも通りで来い”とのことです」
あまりに彼らしくて、アリアは思わず小さく笑ってしまった。
「正式発表の日にまで、そうおっしゃるのですね」
「殿下にとっては、そういう日だからこそ、でしょう」
ユリウスもまた、どこかやわらかい顔をしていた。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ。ここまで来てくださって」
その一言に、アリアの胸が少し熱くなる。
自分一人では来られなかった道だ。
けれど、自分一人ではなかったからこそ、自分の足で歩けた。
広間へ入る直前、アリアは一度だけ目を閉じた。
大丈夫。
怖くても、立てる。
もう知っている。
扉が開く。
視線が、一斉に集まる。
ひやりとした緊張が背筋を走る。
けれど、足は止まらなかった。
前方、王族席に近い位置にレオンハルトが立っている。
いつもより正式な礼装。
その姿は王子というより、完全に“皇太子”だった。
だが、アリアが入ってきた瞬間にこちらへ向けられた視線だけは、あまりにいつも通りで、そのことがひどく心強かった。
広間の中央まで進み、定められた位置へ立つ。
ざわめきはすぐには消えない。
だが、それもやがて収まっていく。
王宮側の年長者が前へ出て、正式な告知を始めた。
第一皇太子レオンハルト・エーヴェルシュタインと、ルーヴェルト公爵家令嬢アリア・フォン・ルーヴェルトとの婚約が、両家および王家の合意のもとにここに定められたこと。
今後、正式な日取りと儀礼は追って整えられること。
それに先立ち、本日よりアリアは、王宮において皇太子婚約者として遇されること。
その一言一言が、広間の空気を塗り替えていく。
もう、誰も曖昧に呼べない。
“近しい令嬢”でも、“有力な候補”でもない。
皇太子の婚約者。
その名前が、ついに公のものになった。
告知が終わったあと、一拍だけ静寂が落ちる。
そして次の瞬間、礼に沿った拍手が起こった。
派手な歓声ではない。
王宮らしい、抑えられた、しかし確かな承認の音。
その中で、アリアは自分の胸が静かに震えるのを感じていた。
ここまで来た。
本当に。
レオンハルトが一歩前へ出る。
皆の前で、きわめて自然な動きでアリアの隣へ立つ。
その立ち位置が、すべてを物語っていた。
「アリア・フォン・ルーヴェルト」
低く、しかしよく通る声が広間に落ちる。
公の場で、フルネームで呼ばれる。
それだけで背筋が伸びる。
「はい」
「前へ」
アリアは、言われた通り半歩前へ出る。
その瞬間、広間の空気がさらに引き締まる。
次に何が示されるのか、誰もが見ている。
レオンハルトは、皆の前で迷いなく言った。
「彼女が、私の婚約者だ」
飾りのない、短い言葉。
けれど、その方がよほど強かった。
“迎える予定”でも、“内々に定まった”でもない。
私の婚約者だ、と言い切る。
その一言に、アリアの胸の奥で何かが深く定まる。
続いて向けられた視線は、もう以前のようなものではなかった。
嫉妬もあるだろう。
敵意も残るだろう。
それでも今、そこへ混じっているのは、明確な現実だった。
認めるしかない。
そういう目だ。
形式的な挨拶と祝意の言葉が続く中、アリアは何度も礼を返した。
夫人たちの中には、本心から喜んでいる者もいれば、笑みの奥にまだ硬さを残す者もいる。
だが今はもう、そのどちらも真正面から受け止められる気がした。
自分はここにいる。
そして、その理由を自分で知っているからだ。
ひと通りの挨拶が済み、ようやく少しだけ人の流れが緩んだ頃、レオンハルトが低く言った。
「少し来い」
以前なら、その一言だけで広間がざわついただろう。
今は違う。
もうそれが自然なこととして受け止められている。
隣の小回廊へ入ると、ようやく人目が半歩遠のいた。
アリアはそこで初めて、大きく息を吐いた。
「……終わったのでしょうか」
「始まった、の方が正しい」
即答だった。
あまりにも彼らしくて、アリアは思わず笑ってしまう。
「そうですね」
「顔色は悪くない」
「かなり緊張はしておりましたけれど」
「そうだろうな」
少しの沈黙。
そしてレオンハルトは、以前よりもごく自然な手つきでアリアの手を取った。
もう今さら、それを隠す必要もないのだとでもいうように。
「ここからが本番だ」
低く、はっきりとした声。
王宮の政治。
社交界。
外部貴族。
婚約者としての公務。
まだまだ越えるものは多い。
けれど今、その言葉を聞いても、アリアは怖さだけを感じなかった。
「はい、殿下」
静かに、しかし迷いなく答える。
「ここからも、隣で立ちます」
レオンハルトの瞳がわずかに細められる。
その目の奥には、信頼と熱が確かにあった。
皇太子の婚約者として。
それは、物語の終わりではない。
むしろ、本当の王宮編の始まりだ。




