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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第85話 祝福と敵意のあいだで

 内々の婚約が結ばれた翌朝、王都の空気はまだ何も知らぬ顔をしていた。


 少なくとも、表向きは。


 けれどアリア・フォン・ルーヴェルトには、もう分かっていた。

 こういうことは、完全に秘されているようでいて、決して永遠には秘されない。

 王宮の中で動いたものは、いずれ宮中の女官へ、重臣家の居間へ、社交界の茶会へと、少しずつ形を変えて滲み出していく。


 正式発表前。

 だからこそ、人々は余計に敏感になる。

 断言はできない。

 けれど確信は持ちたがる。

 その曖昧な熱が、今日からまた王都を巡り始めるのだろう。


 鏡の前で髪を整えられながら、アリアは自分の左手を見た。


 昨日、レオンハルトから受けた輪。

 今はまだ公の場へそのまま出せるものではない。

 儀礼の意味を持つその輪は、今朝は胸元に下げられた小さな袋の中へしまってある。


 触れればそこにある。

 見えなくても、確かにある。


 その事実が、胸の奥を静かに満たしていた。


「お嬢様」


 リナが柔らかく声をかける。


「本日は、かなり見られると思われます」


「ええ」


「怖くはございませんか」


 アリアは少し考え、それから頷いた。


「怖いわ。でも、昨日までとは少し違うの」


「どのように?」


「もう、何を守りたいのかがはっきりしているから」


 リナはその言葉を聞き、小さく目を伏せた。


「……はい」


 朝食の席で、クラウディアは娘の顔を見るなり、静かに言った。


「今日は、祝福と敵意の両方が来るわ」


 やはり母は率直だ。


「ええ」


「どちらか一方だけならまだ楽なのだけれど」


 そう言って、クラウディアはカップを置く。


「人は、祝福しながら妬むこともできるし、敵意を隠して礼を尽くすこともできるもの」


 まさに、社交界と王宮の本質だった。


「分かっています」


「本当に?」


「……少なくとも、そういう空気の中へ自分で入っていくのだということは」


 その答えに、クラウディアは小さく頷いた。


「ならいいわ」


 学園へ向かう馬車の中、アリアは窓の外を見つめながら、胸の内へ静かに手を当てた。


 袋の中の輪の感触はない。

 けれど、そこにあるという事実だけで、なぜか背筋が伸びる。


 正式発表はまだだ。

 でも、もう自分の中で曖昧さは終わっている。

 それが今の支えだった。


 正門へ着いた瞬間から、ざわめきはいつも以上だった。


「何か決まったらしいわよ」

「王宮内で、かなりはっきりしたとか」

「でも正式発表はまだでしょう?」

「だからこそよ」

「ルーヴェルト様のお顔を見れば……」


 いつものように視線が集まる。

 けれど今日は、その中にこれまで以上の複雑さがあった。


 羨望。

 驚き。

 探り。

 そして、諦めに近い感情。


 アリアは足を止めず、そのまま校舎へ向かった。


 廊下の途中で、エレノアがかなりの勢いで駆け寄ってくる。


「アリア様!」


「おはよう」


「おはようございます、ではなくて……!」


 そこで一度声を切り、エレノアは周囲を見回してから小さく続ける。


「何か、ございましたでしょう?」


 アリアは一瞬だけ目を伏せ、そして小さく頷いた。


「ええ」


 それだけで十分だった。


 エレノアは息を呑み、それからひどく嬉しそうに、それでいて少し泣きそうな顔になった。


「……ついに」


「ええ。まだ正式発表前だけれど」


「それでも、ついにですわね」


 その言葉に、アリアの胸の奥がやわらかく熱を持つ。


 誰かの嫉妬や打算ではない、ただの祝福。

 それが今はひどくありがたい。


「おめでとうございます」


 エレノアが、小さく、でもはっきりと言った。


 アリアは思わず目を細めた。


「ありがとう」


 教室へ入ると、空気はさらに分かりやすく変わった。


 以前なら、視線の熱はもっとざらついていた。

 今は違う。

 ざらつきは残っている。

 けれどその上に、もう“覆らないのかもしれない”という諦めと現実が乗っている。


 何人かの令嬢は、アリアを見るなりぎこちなく会釈した。

 別の何人かは、明らかに面白くなさそうな顔を隠しきれていない。

 そして、ごく少数だけが、露骨に視線をそらした。


 立場が変わる時、人の態度もまた変わる。

 そのことを、アリアは今はもう冷静に見ていられた。


 昼休み、令嬢用サロンへ入ると、最初に近づいてきたのは、以前からやや距離を置いていた伯爵令嬢だった。


「ルーヴェルト様」


「何でしょう」


 彼女は少しだけ迷い、それでも礼儀正しく口を開く。


「まだ正式なお知らせではないと承知しております。ですが……もし噂が本当でしたら、お祝いを申し上げたくて」


 その一言は、ひどく社交界らしかった。

 断言しない。

 でも、祝福は示す。


「ありがとうございます」


 アリアがそう返すと、令嬢は少しだけ安堵したように笑う。


「以前は……少しだけ、誤解しておりました」


「誤解?」


「はい。ルーヴェルト様は、ただ殿下に守られているだけなのだと」


 その率直さに、周囲の空気が少し張る。

 だがアリアはもう、その手の言葉に前ほど傷つかない。


「でも今は違うと思っております」


 令嬢はそう言って、小さく頭を下げた。


「失礼を、お許しくださいませ」


 その瞬間、サロンの別の場所から、扇の音がぴたりと止むのが聞こえた。

 何人かの令嬢たちは、明らかに複雑な顔をしている。


 祝福されること。

 そして、過去に見下していた相手を自分から認めなければならないこと。

 それは、きっと簡単ではない。


 ざまぁ、というほど露骨ではない。

 けれど、あの夜、悪役令嬢と断じられた自分を思えば、この光景には確かな意味があった。


「お気になさらないで」


 アリアは静かに言った。


「私も、今の自分になるまで時間がかかりましたから」


 その返しに、伯爵令嬢の目が少しだけ揺れる。

 きっと予想外だったのだろう。

 誇らしく切り返されるか、冷たく突き放されると思っていたのかもしれない。


 だがアリアは、今さら過去の優劣を数え直したいわけではなかった。


 そこへ、少し遅れて別の声が割り込む。


「でも、王宮はそんなに甘い場所ではありませんわよね」


 顔を向けると、以前からアリアへ好意的ではなかった侯爵令嬢が立っていた。


「お祝いは申し上げます。でも、それとこれとは別ですわ」


 祝福と敵意のあいだ。

 まさに、その言葉の通りの空気だった。


 アリアは相手の視線を受け止める。


「ええ。別だと思います」


 侯爵令嬢がわずかに眉を動かす。


「ご自分でもそうお思いになるのですね」


「もちろん」


 アリアは淡々と答えた。


「祝福されることと、その後も立ち続けられることは、同じではありませんもの」


 サロンの空気が、また少しだけ変わる。


 虚勢ではない。

 浮かれきってもいない。

 その落ち着きが、周囲には一番効くのだと、アリアは最近ようやく分かり始めていた。


 侯爵令嬢は一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく扇を閉じた。


「……それなら、よろしいのではなくて」


 それは敗北宣言ではない。

 だが少なくとも、“浮かれて足元を掬われる娘”という筋書きはここでは使えないと理解したのだろう。


 サロンでの一幕が終わった頃には、アリアの胸の奥には疲れと同時に静かな感覚が残っていた。


 祝福される。

 羨まれる。

 妬まれる。

 その全部が一度に来る。


 でも今は、それをただ浴びるだけではない。

 どう立つかを、自分で選べる。


 放課後、王宮からの呼び出しは当然のように来た。


 小会議室へ入ると、レオンハルトとユリウスがいた。

 机上には数通の封書。

 外部貴族からの反応がもう動き始めているのだろう。


「来たか」


「はい」


「今日はどうだった」


 問いはいつもの短さだ。

 だが、その中に“祝福も敵意も両方来ただろう”という理解が含まれている。


「……予想以上に、両方でした」


 アリアがそう答えると、ユリウスが小さく息を吐いた。


「やはり」


「お祝いを言ってくださる方もおりました」


「ええ」


「でも同時に、これから先は別だと釘を刺すような方も」


 レオンハルトは静かに頷く。


「当然だ」


「驚きませんのね」


「驚くことではない」


 その返答があまりに落ち着いていて、アリアは少しだけ笑った。


「ええ。殿下はそうおっしゃると思いました」


 するとレオンハルトの目がほんのわずかにやわらぐ。


「祝福だけでは、むしろ信用できない」


「……それもそうですね」


 王宮も社交界も、そんなに単純ではない。

 甘い言葉だけなら、かえって裏がある。


「ですが」


 アリアは少しだけ姿勢を正して言う。


「今日、はっきり分かりました」


「何が」


「私はもう、“もしかしたらそうなるかもしれない人”として見られてはいないのですね」


 その言葉に、ユリウスが目を上げる。

 レオンハルトは静かに答えた。


「ああ」


 短く、そして明確に。


「君はもう、祝福と敵意の両方を受ける位置にいる」


 それは厳しい現実の言葉だった。

 でも同時に、ひとつの到達でもあった。


 曖昧な憐れみではなく。

 中途半端な噂の対象でもなく。

 本当にそこへ行く者として見られている。


 アリアは静かに息を吸った。


「でしたら」


「何だ」


「私は、そこにいる者として立ちます」


 その言葉を聞いた時、レオンハルトの瞳の奥に、ごく小さく、しかしはっきりとした熱が灯った。


「そうしろ」


 祝福と敵意のあいだで。

 アリアはもう、その両方を受ける覚悟を持ち始めていた。

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