第84話 内々の婚約
その朝、アリア・フォン・ルーヴェルトは、目を覚ました瞬間に胸の奥で小さく鳴る鼓動で、自分がとうとうこの日を迎えたのだと知った。
内々の婚約。
まだ王都じゅうへ公に告げられるわけではない。
大広間に楽師が並ぶこともなければ、華やかな祝宴が開かれるわけでもない。
招かれるのは、ごく限られた者だけ。
王家の中でも必要な立場の者。
ルーヴェルト家の、ごく近しい家族。
そして、今後の正式発表へ向けて絶対に外せない数人だけ。
けれど、だからこそ重い。
大勢の前で行う儀式よりも、ずっと静かで、ずっと逃げ場がない。
飾り立てるための式ではなく、“決まる”ための儀礼なのだと、嫌でも分かる。
天蓋の向こうから差し込む朝の光は淡く、部屋の中にはまだ夜の名残が少しだけ残っていた。
外では鳥が鳴いている。
世界はいつも通りの顔をしているのに、自分だけが決定的に違う朝を迎えているような気がした。
「……本当に、今日なのね」
小さく呟く。
声は思ったより落ち着いていた。
けれど胸の奥は静かに熱い。
扉の向こうで控えていたリナが、やわらかなノックとともに入ってくる。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう」
リナは一礼し、それから少しだけ顔を上げた。
その目元には、普段以上の緊張と、それでも隠しきれない喜びが混ざっている。
「……よくお休みになれましたか」
「深くは、あまり」
「でしょうね」
珍しく、そう言って小さく笑った。
リナも今日は、完全にいつも通りではいられないのだろう。
身支度は、いつもよりずっと静かに進んだ。
今日の装いは、華美ではない。
むしろ、驚くほど慎ましい。
淡い象牙色を基調とした長衣に、銀糸のごく細い刺繍。宝石も最低限で、髪飾りも大きく主張しない。けれど、だからこそ一つひとつが品よく際立つ。
“見せるための婚約”ではなく、“定めるための婚約”。
その趣旨が、装いにもはっきり表れていた。
「お嬢様」
最後に髪を整えながら、リナがそっと言う。
「本日は……とても、お綺麗です」
「ありがとう」
「いつもと違うのは、飾りではなくて……」
そこで言葉を探し、リナは少しだけ目を潤ませたように笑う。
「お顔だと思います」
その一言に、アリアの胸がやわらかく揺れた。
怖い。
でも、逃げない。
その両方が、たぶん今の顔に出ているのだろう。
朝食の席には、クラウディアがすでに座っていた。
公爵夫人として完璧に整えられた姿。
けれど娘を見た瞬間、その目の奥だけがほんの少しやわらぐ。
「おはようございます、お母様」
「おはよう、アリア」
席へ着く。
温かな紅茶の香りが立つ。
けれど今朝ばかりは、味が分かるのか少し自信がなかった。
「顔色は悪くないわ」
クラウディアが言う。
「緊張はしているけれど」
「分かりますか」
「当然でしょう」
その返しがいつも通りで、少しだけ肩の力が抜ける。
「怖い?」
昨夜と同じ問い。
けれど今日は、答えの重さが違う。
「はい」
アリアは静かに頷く。
「でも」
「でも?」
「もう、迷ってはいません」
クラウディアはその答えを聞き、ごく小さく息を吐いた。
「そう」
それだけ。
けれど、その一言には十分なものが含まれていた。
王宮へ向かう馬車の中、アリアは窓の外を見ながら何度も深呼吸した。
王都の街は、まだ今日が何の日かを知らない。
人々はいつも通り通りを行き、店を開き、荷馬車が石畳を鳴らしている。
けれど今日の終わりには、自分はもう“そうなるかもしれない人”ではなくなる。
皇太子の婚約者。
まだ正式発表前とはいえ、その事実が王家と家の間で定まる。
そこへ自分は、自分の足で行く。
王宮へ着くと、案内はあまりに静かで、かえって緊張を高めた。
華やかな大広間は使われない。
向かったのは王宮奥の、儀礼用の中規模室だった。
壁には古い王家の織章。
窓は高く、光をやわらかく落とす。
中央には大きな卓ではなく、低めの祭卓のような台が置かれ、その上に二つの小箱と、数枚の誓約書が整えられている。
胸が、ひとつ大きく鳴る。
もう後戻りしないための場。
まさにその通りの設えだった。
室内には、すでに必要な者たちがいた。
クラウディア。
ルーヴェルト公爵。
王家側の年長の代表。
記録役。
そしてユリウス。
人数は少ない。
だが、その少なさが逆に儀礼の重みを際立たせている。
レオンハルトは、祭卓の少し手前に立っていた。
いつも通り装いは無駄がない。
だが今日は、その整い方そのものが“皇太子”という立場をより濃く見せていた。
アリアが入ってきた瞬間から、その視線はまっすぐ彼女に向いている。
「来たか」
低い声。
それだけなのに、胸の奥が少し落ち着く。
「はい」
返した声は、自分で思うより静かだった。
儀礼は簡潔に始まった。
王家側年長者が、両家の意思確認として、本日の趣旨を告げる。
第一皇太子レオンハルト・エーヴェルシュタインと、ルーヴェルト公爵家令嬢アリア・フォン・ルーヴェルトの間において、今後正式発表へ向けた婚約の内諾を、両家の責任のもとで確認すること。
言葉は簡潔だ。
だがその一つひとつが、紙の上の文字ではなく人生そのものへ落ちてくる。
まず、ルーヴェルト家側の意思確認。
クラウディアと公爵が短く、しかし明確に了承を示す。
続いて、王家側の確認。
そして最後に、当人同士。
「アリア・フォン・ルーヴェルト嬢」
年長者の声が静かに響く。
「あなたは、この婚約を、自らの意思をもって受けますか」
部屋が静まり返る。
聞こえるのは、自分の鼓動だけのようだった。
けれど、不思議と震えはしなかった。
怖さはある。
でも、それ以上に、自分で選んでここへ来た実感が強い。
アリアは顔を上げた。
真正面にレオンハルトがいる。
少しも目を逸らさず、静かに待っている。
「はい」
その一語は、思った以上にはっきりと部屋へ落ちた。
「私は、自らの意思で、この婚約を受けます」
言い切った瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。
次に問われたのは、レオンハルトだった。
「レオンハルト・エーヴェルシュタイン殿下。あなたは、この婚約を、自らの意思をもって進めますか」
レオンハルトの返答は迷いがなかった。
「進める」
短い。
けれど、その短さの方がこの人らしい。
「私は、自らの意思で彼女を迎える」
その一言に、アリアは一瞬だけ目を伏せそうになる。
嬉しさと重さが、同時に胸へ来る。
誓約書への署名は、そのあとすぐだった。
まずレオンハルト。
次にアリア。
ペン先が紙へ触れる。
自分の名前を書く。
ただそれだけの動作なのに、指先には小さな震えがあった。
アリア・フォン・ルーヴェルト。
その名が、今こうして別の未来へ繋がっていく。
署名が終わると、年長者が祭卓の上の小箱を開いた。
中には、二つの輪。
大ぶりではない。
華美でもない。
だが、王家らしい静かな品位がある。
「正式発表前につき、これは内諾の印です」
年長者が言う。
「公の婚礼指輪ではなく、両家の誓約を示すものとして」
レオンハルトが小箱へ手を伸ばす。
その動作に一切の迷いがない。
彼が選んだ輪は、細く、だが芯の通った光を持っていた。
「手を」
低い声が落ちる。
アリアはゆっくりと左手を差し出す。
その指先が、少しだけ冷えているのを自分で感じた。
だが次の瞬間、レオンハルトの指がそっとそれを支える。
触れられる。
何度かあったことだ。
なのに今日は、全然違う。
ただ触れるのではなく、ここへ形を与える触れ方だ。
輪が指へ通される。
きつすぎず、緩すぎず、驚くほど自然に収まる。
その瞬間、アリアは胸の奥で何かが静かに定まるのを感じた。
もう曖昧ではない。
まだ公にはされていなくても、自分たちはここで確かに結ばれたのだと。
次に、アリアがもう一つの輪を取る番だった。
指先が少し熱い。
けれど迷わない。
レオンハルトの手を取る。
大きくて、温かくて、いつも不思議と落ち着く手。
輪を通す瞬間、彼の指がほんのわずかにこちらを包むように動いた気がした。
ほんの一瞬。
けれどそれだけで、胸がまたひとつ鳴る。
儀礼はそこで終わりではなかった。
年長者が最後の確認として、二人へ短く告げる。
「これより先、正式発表までの間も、あなた方は両家の約定のもとにあることを忘れぬように」
「はい」
アリアは答える。
レオンハルトも静かに頷く。
その後、室内の緊張がほんの少しだけ解けた。
クラウディアが娘を見て、わずかに目を細める。
公爵は表情を大きく崩さないが、その背筋からは小さな安堵が伝わる。
ユリウスに至っては、珍しく本当に肩の力が抜けたような顔をしていた。
形式的な挨拶が済み、年長者たちが少し離れた位置で今後の段取りを話し始める頃、アリアはようやく自分の指に収まった輪を見下ろした。
華やかではない。
けれど、確かな重みがある。
「……本当に」
思わずこぼれたその言葉の続きは、うまく出てこなかった。
するとすぐ横で、低い声が言う。
「そうだ」
レオンハルトだった。
もう誰の前でも、必要以上に距離を取る必要はないのだとでも言うように、自然に隣へ来ている。
アリアはゆっくり顔を上げる。
「本当に、決まりましたね」
「決めたからな」
その返しに、アリアは小さく笑う。
この人は本当に、こういうところでぶれない。
「怖いか」
不意に問われる。
アリアは少しだけ考えた。
怖い。
けれど、最初に思っていたのとは少し違う。
もう失うことへの怖さではない。
ここから始まることへの怖さだ。
「……少しだけ」
「そうか」
「でも、それ以上に、落ち着いております」
そう答えると、レオンハルトの目がやわらいだ。
「ならいい」
短い言葉。
だが、その一言のあと、彼の視線がアリアの指先の輪へ落ちる。
「似合うな」
何気なく言われたその一言に、アリアの頬が少し熱くなる。
「殿下こそ」
そう返すと、今度はレオンハルトの方がわずかに沈黙した。
それが少し可笑しくて、アリアはほんの少しだけ肩の力を抜けた。
内々の婚約。
それは派手ではない。
でも、だからこそ本物だった。
悪役令嬢と呼ばれた少女が、ここまで来た。
ただ選ばれるのではなく、自分の意志で隣を選んで。
そのことが、何より静かに、そして深く胸に残っていた。




