第81話 それでも、恋です
王宮から戻った夜、アリア・フォン・ルーヴェルトは、自室の窓辺に立ったまま、しばらく灯りもつけずにいた。
外は静かな夜だった。
庭木の影が月明かりに揺れ、遠くで風が枝を鳴らしている。
いつものルーヴェルト公爵家の夜。
なのに、自分の胸の内だけがひどく騒がしかった。
――皇太子として見ても、必要だと判断している。
その言葉が、何度も何度も胸の中で反響する。
嬉しかった。
間違いなく、どうしようもなく嬉しかった。
けれど、嬉しさと同時に、別の感情もまた強く胸を打っていた。
重いのだ。
好きだと言われるのとは、少し違う。
大切だと守られるのとも違う。
必要だと判断される。
しかも、“皇太子として”と前置きされた上で。
それは、この先の人生ごと受け取るような言葉だった。
「……どうして、あんなに平然と」
小さく呟いて、アリアは目を伏せる。
レオンハルトは本当にずるい。
感情だけで押し切るのではない。
責任だけで縛るのでもない。
恋と現実、その両方を抱えたまま、こちらへまっすぐ差し出してくる。
だから、自分も逃げられない。
リナがそっと部屋へ入ってきた時、アリアはまだ窓辺に立っていた。
「お嬢様」
「……ええ」
「灯りをおつけしても?」
「お願い」
部屋にやわらかな灯りがともる。
その明るさの中で、ようやく自分の顔が少し強張っていたことに気づく。
「本日は、お疲れですか」
リナの問いに、アリアは少しだけ考えた。
「疲れてはいるわ。でも……それだけではないの」
「何か、ございましたか」
アリアはすぐには答えなかった。
けれど、リナの前では少しだけ本音をこぼしたくなる。
「殿下が、私のことを」
そこまで言って、また少し躊躇う。
「“必要だ”とおっしゃったの」
リナは一瞬だけ目を見開いた。
だが、すぐに表情を整える。
「……それは、とても大きなお言葉ですね」
「ええ」
アリアは小さく息を吐く。
「嬉しいの。すごく。でも、その言葉が重くて……」
「怖く、なりましたか」
「少しだけ」
正直にそう言うと、リナはしばらく黙っていた。
やがて、控えめに言う。
「ですが、お嬢様」
「何?」
「必要だとおっしゃるのは、きっとそれだけ信じておられるからではありませんか」
アリアは目を瞬いた。
「信じる……」
「はい。お嬢様がそのお言葉に足る方だと」
その言葉はやさしい。
でも今のアリアには、そのやさしさだけで楽にはなれなかった。
なぜなら、自分が揺れている理由は、信じてもらえたことそのものではないからだ。
好きだ。
恋をしている。
それはたしかだ。
でも、必要だから選ばれているのだとしたら――その中で、恋はどこへあるのだろう。
そんな疑問が、胸の奥で小さく疼いていた。
翌朝、目覚めてもその感情は消えていなかった。
朝食の席でクラウディアが娘の顔をひと目見て、すぐに異変に気づく。
「まだ引きずっているのね」
「……分かりますか」
「ええ。昨日の帰りから、少し考え込みすぎている顔だもの」
母は紅茶をひとくち飲んでから、静かに続ける。
「レオンハルト殿下に、何を言われたの」
アリアは少しだけ迷い、それでも答えた。
「皇太子として見ても、私が必要だと」
クラウディアの目が、ごくわずかに細められる。
「なるほど」
「お母様は、驚かれないのですね」
「驚きはしないわ。あの方なら、いずれそこを口にすると思っていたもの」
あまりに落ち着いた返答で、アリアはかえって少しだけ唇を噛む。
「私は……少し、分からなくなってしまって」
「何が?」
「殿下の気持ちです」
ついにそこを口にした瞬間、自分の中の揺れの形がはっきりする。
「必要だと判断してくださるのは嬉しいです。でも、それがあまりに正しくて、あまりに重くて……」
クラウディアは黙って聞いている。
だから、続けられる。
「私は、殿下が私を好きでいてくださると分かっています。でも、ああして“必要だ”と正面から言われると、私が求められているのは恋よりも役目の方なのではないかと、一瞬だけ……」
そこまで言って、アリアは自分の言葉に自分で少し傷ついた。
疑いたいわけではない。
疑うのは違うとも分かっている。
けれど、胸の奥に浮かんだその不安を、なかったことにもできなかった。
「……馬鹿みたいでしょう」
小さくそう付け足すと、クラウディアは静かに首を振る。
「いいえ」
短い否定。
「むしろ、当然の揺れだと思うわ」
その言葉に、アリアは少しだけ顔を上げた。
「当然?」
「ええ。恋する女として見られたい気持ちと、王宮で必要な者として見られる現実は、時にずれるもの」
母の声はいつもより少しだけやわらかい。
「でも、それはどちらか一方が偽物ということではないのよ」
その一言が、アリアの胸へ静かに落ちる。
「必要だから恋ではない、ではなくて?」
「ええ」
クラウディアは言う。
「本当に軽い相手なら、“必要だ”なんて重い言葉はむしろ使わないわ。責任を背負わせることになるもの」
アリアは黙って聞く。
「それをあえて言ったのは、恋としても、本気だからでしょう」
恋としても、本気。
その言葉が、心のどこか固くなっていたところへ、少しずつ沁みていく。
「必要だと認めることと、愛していることは、別々の箱に入っているわけではないの」
クラウディアは続けた。
「大人の恋ほど、そこは混ざるものよ」
アリアは目を伏せる。
たしかにレオンハルトは、恋だけで語る人ではない。
守りたいとも、大切だとも、必要だとも言う。
その全部が一緒になって、ようやく今の彼なのだ。
ならば、自分が昨日受け取った“必要だ”という言葉も、恋を押しのけるものではなく、むしろ恋の真剣さが別の形で表れたものなのかもしれない。
「……そう、かもしれません」
ようやくそう言うと、クラウディアは小さく頷いた。
「あなたは、恋を軽くしたくないのでしょう?」
「はい」
「それなら、相手の重さも軽く見積もらないことね」
その忠告は、ひどくまっすぐだった。
昼過ぎ、王宮から呼び出しはなかった。
それがかえって、アリアに考える時間を与えた。
窓辺で本を開いても、やはり文字は頭へ入ってこない。
代わりに思い出すのは、あの時のレオンハルトの声音だった。
私情だけではない。
必要だと判断している。
でもそれは、冷たく自分を駒扱いする響きではなかった。
むしろ逆だ。
感情だけで不安定に守るのではなく、もっと長く、もっと深い場所で一緒に在ろうとする声だった。
「……それでも、恋です」
いつの間にか、そう呟いていた。
必要だから。
誇れるから。
立てるから。
その全部があってもなお、そこには恋がある。
でなければ、あの人はあんな目をしない。
あんなふうに待たない。
あんな言葉の置き方はしない。
夕方近く、ようやくアリアの中で結び目が少しほどけた頃、短い書状が届いた。
『来い。話がある』
いつもの簡潔な文面。
なのに今日は、それを見た瞬間に胸の奥がひどく静かになった。
王宮へ着き、小会議室の扉を開けると、レオンハルトは一人でいた。
「来たか」
「はい」
アリアは少しだけ迷ったあと、扉の近くで立ち止まらず、そのまま彼の近くまで歩いていった。
レオンハルトの目がほんのわずかに細まる。
たぶん、いつもと違うことに気づいたのだろう。
「何だ」
その問いに、アリアは静かに息を整える。
「昨日のことを、考えておりました」
「必要だと言ったことか」
「はい」
はっきり指摘されても、もう逸らしたくなかった。
「少しだけ、怖くなりました」
レオンハルトは黙って聞いている。
「私が、恋よりも役目の方で見られているのではないかと、一瞬だけ思ってしまって」
言ってしまえば、思っていたよりもずっと楽になった。
レオンハルトはしばらく何も言わなかった。
その沈黙は、怒りではない。
ただ、言葉を選んでいる沈黙だ。
「……そう思わせたなら、言い方が足りなかった」
やがて落ちた声は、ひどく静かだった。
アリアは少しだけ目を見開く。
否定より先に、“言い方が足りなかった”と言うとは思わなかった。
「私は、君を必要だと思っている」
低く、はっきりと。
「だがそれは、恋と別に並べているものではない」
胸の奥が熱を持つ。
「君だから必要だ」
その一言が、昨日の揺れをまっすぐほどいていく。
必要だから恋ではない、のではない。
恋をしている相手だからこそ、共に立つ者として必要だと思っている。
「……はい」
それしか言えなかった。
「君が私の隣にいる理由は、一つではないだろう」
「ええ」
「それと同じだ」
その通りだった。
好きだから。
でも、それだけではない。
責任を引き受けたいから。
共に立ちたいから。
その全部が自分の理由だ。
ならば、この人の理由もまた、そうなのだろう。
「……分かりました」
アリアはようやく、心からそう言えた。
「私は、ちゃんと恋として見ていただいているのですね」
言ってから少しだけ恥ずかしくなった。
けれどレオンハルトはまったく目を逸らさなかった。
「今さらそこを疑うな」
その返しが、ひどく彼らしくて、アリアはとうとう少しだけ笑ってしまった。
それでも、恋です。
責任も立場も全部ある。
それでもなお、自分たちは恋をしている。
その確信が、今のアリアには何より大きかった。




