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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第82話 公爵夫人の最後の問い

 その夜、ルーヴェルト公爵家の屋敷はひどく静かだった。


 王宮から戻ったアリア・フォン・ルーヴェルトは、自室へ向かう前に一度だけ長い廊下の窓辺で足を止めた。外はすっかり夜で、庭木の影が黒く沈んでいる。遠くで風が葉を鳴らし、その音だけが屋敷の静けさをかえって際立たせていた。


 胸の中は、不思議なくらい落ち着いていた。


 昨日まであった揺れが、完全に消えたわけではない。

 これから先に待っているものの重さも、決して軽くはならない。

 それでも、自分がどこへ向かっているのか、その理由がようやく一本の線になった気がしていた。


 レオンハルトは、自分を“必要だ”と言った。

 でもそれは、恋を削って理屈だけを残した言葉ではなかった。

 むしろ逆だ。

 恋を軽く扱わないからこそ、必要だとも言う。

 責任から逃げないからこそ、恋を恋のままで終わらせない。


 そこが、ようやく分かったのだ。


「お嬢様」


 背後から静かな声がした。振り返ると、侍女のリナが一礼している。


「公爵夫人様がお呼びです」


 アリアはほんの少しだけ息を呑んだ。


 来るだろうと思っていた。

 母はきっと、この段階で最後の確認をする。

 感情の勢いだけで走っていないか。

 立場の重さを本当に引き受けるのか。

 そこを、きちんと娘自身の言葉で聞くだろうと。


「分かったわ」


 クラウディアの私室へ向かう足取りは、思っていたより重くなかった。

 怖くないわけではない。

 けれど今は、問いを向けられること自体が必要だと思える。


 扉の前で一度だけ呼吸を整え、ノックをする。


「アリアです」


「入りなさい」


 室内は落ち着いた灯りに包まれていた。

 大きすぎない卓の上には紅茶が二つ。窓は半分だけ開いていて、夜気が細く入り込んでいる。クラウディアはソファに腰掛けたまま、娘を見た。


「座りなさい」


「はい」


 向かいへ腰を下ろす。

 すぐに話が始まるかと思ったが、クラウディアは先にカップを持ち上げた。ひとくち飲み、それから静かに言う。


「顔つきが変わったわね」


 アリアは少しだけ微笑んだ。


「最近、皆様それをおっしゃいます」


「ええ。でも今夜は、それ以上ね」


 母の目はごまかしを許さない。


「迷い方が変わった顔ではない。もう、ほとんど決めた者の顔だわ」


 その言葉に、アリアはゆっくり頷いた。


「……はい」


 クラウディアはカップを置く。


「では、最後に聞くわ」


 来た、と思う。


 けれど胸の鼓動は、不思議と穏やかだった。


「あなたは、皇太子妃として必要だから行くの?」


 アリアは黙って聞く。


「それとも、レオンハルト殿下を愛しているから行くの?」


 夜の静けさが、言葉の輪郭を際立たせた。


 皇太子妃として必要だからか。

 愛しているからか。

 その二つを分けて問うのは、母らしい。

 曖昧に“どちらもです”と逃げることを、最初から許していない問いだ。


 少し前の自分なら、ここで詰まったかもしれない。

 どちらか一方を選ぶような気がして、苦しかっただろう。


 けれど今は違う。


「その問いに、前なら答えられなかったと思います」


 アリアは静かに口を開いた。


「そうでしょうね」


「好きだから行きたい。でも、好きだけでは足りない気がしていました。責任も重さもある場所なのに、恋だけで決めてはいけないと思っていました」


 クラウディアは何も挟まない。

 ただ聞いている。


「でも今は、こう思っています」


 アリアは、自分の言葉をゆっくり確かめるように続けた。


「私は、皇太子妃として必要だからだけで行くのではありません」


 そこは、もうはっきりしている。


「もし必要だからだけなら、たぶんここまで苦しくなかったと思います。もっと理屈で割り切れたはずです」


「ええ」


「そして、愛しているからだけで行くのでもありません」


 その言葉を口にした時、アリア自身の中で、答えがさらに鮮明になる。


「もし愛しているからだけなら、責任の重さを前にこれほど何度も立ち止まらなかったと思います」


 クラウディアの瞳がわずかにやわらぐ。


 アリアは息を吸い、はっきりと言った。


「私は、その両方を引き受けるから行くのです」


 部屋が静かになる。


 その静けさは、先ほどまでのものとは少し違った。

 問いを待つ静けさではなく、答えがきちんと落ちたあとの静けさだ。


「愛しているから、隣へ行きたい」


 アリアは続ける。


「でも同時に、その隣が皇太子妃という重い場所であることも、もう見ないふりをしたくありません」


 悪役令嬢と断じられた夜。

 婚約を切られた時。

 王宮の女たちに値踏みされた時間。

 小さな毒を見抜いて切り返した夕べ。

 全部が今の自分の中にある。


「好きだから、責任から逃げない」


 その言葉は、今のアリアにとって中心そのものだった。


「責任があるから、恋を軽くしない」


 クラウディアの目が静かに細められる。


「だから私は、どちらかだけではなく、その両方を持ったまま行きます」


 言い終えたあと、胸の奥が少しだけ熱くなった。

 緊張ではない。

 ようやく自分の中で言葉が揃った感覚だった。


 クラウディアはしばらく黙って娘を見ていた。

 いつも通り美しく整った表情のまま、けれど視線の奥だけはひどくやさしい。


「……そう」


 やがて、母は小さく言った。


「ようやくそこまで辿り着いたのね」


 アリアは頷く。


「はい」


「なら、もう私から問うことはないわ」


 その言葉に、胸の中の最後の緊張がほどける。


「お母様は、反対なさらないのですね」


「今さら?」


 クラウディアがごくわずかに眉を上げる。


「あなたが誰かに押し上げられているだけなら止めたわ。でも今は違う」


 母は淡々と、しかしはっきりと言った。


「あなたは、自分の意志でそこへ行くと決めている。しかも、恋と責任の両方を引き受けると」


 その言葉を聞いて、アリアはようやく深く息を吐くことができた。


「……怖さは、まだあります」


「あるでしょうね」


「でも、逃げたいとは思いません」


「知っているわ」


 短い会話なのに、その一つひとつが静かに胸へ沁みる。


「では、次はどうするの」


 クラウディアが問う。


 その問いに、アリアは一瞬だけ戸惑う。

 けれど答えはもう決まっていた。


「内々の手続きへ進む前に、もう一度きちんと殿下へお伝えします」


「何を?」


「私が、どちらか片方ではなく、その両方を引き受けて行くのだと」


 クラウディアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「それでいいわ」


 そして、少しだけ間を置いてから続ける。


「でもひとつだけ覚えておきなさい」


「はい」


「その両方を引き受けると決めたなら、これから先はもっと苦しいこともある」


 アリアは静かに頷く。


「ええ」


「恋だけなら、泣いて逃げることもできる。責任だけなら、心を殺して立つこともできる」


 母の声は落ち着いていて、その分だけ言葉が深い。


「でも、その両方を持ったまま立つのは、一番難しいわ」


 その通りだと思った。


 それでも自分は、そこへ行こうとしている。


「……はい」


「それでも行くのね」


「はい」


 今度の返答には、もう迷いがなかった。


 クラウディアはカップを持ち上げ、静かに言った。


「なら、明日からは“迷っている娘”ではいられないわね」


 その一言に、アリアは少しだけ笑ってしまった。


「ええ。そうですね」


 窓の外では、夜がさらに深くなっていた。

 けれどアリアの心は、今までで一番澄んでいる。


 公爵夫人の最後の問い。

 それは答えを試す問いであると同時に、自分の中の答えをはっきりさせるための問いでもあった。


 そして今、アリアはようやく知る。


 自分は恋に流されているのではない。

 責任に押されているのでもない。

 その両方を、自分の意志で引き受けようとしているのだと。

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