第80話 王子ではなく、皇太子として
王宮の会議室は、時に剣を抜かぬ戦場になる。
その日、レオンハルト・エーヴェルシュタインが入ったのは、まさにそういう場だった。
広くはない。
だが、狭いからこそ逃げ道も少ない。
壁際には重厚な書棚。中央には長机。窓の外には曇り空の王都。
座っているのは王宮の重臣たち、その補佐格、宮中の運営に深く関わる年長者たち。
表情は穏やかだ。
だがその穏やかさの下で、誰もが同じ一点を見ている。
アリア・フォン・ルーヴェルトを、皇太子の隣へ置くこと。
それが“恋”なのか、“判断”なのか。
そこを問うために、この場は用意されたのだ。
ユリウスはレオンハルトの半歩後ろで、部屋の空気を静かに読んでいた。
反対を露骨に叫ぶ者はいない。
そんな愚を犯す顔ぶれではない。
だが、“懸念”という形ならいくらでも口にできる。
慎重論。時期尚早論。過去の醜聞への言及。
全部、表向きは正論に見える。
その正論の顔をした刃を、今日レオンハルトは正面から受けるつもりでここへ来ていた。
「殿下」
最初に口火を切ったのは、年配の政務官だった。
「本日は、近頃宮中で広がっております噂と、それに伴う今後の整理について、確認の意味も込めてお時間をいただいております」
「分かっている」
レオンハルトは短く答え、席へつく。
声に無駄な硬さはない。
だが、最初から“曖昧に濁す気はない”と分かる響きだった。
「では単刀直入に」
今度は重臣補佐の男が口を開く。
「ルーヴェルト嬢の件は、殿下ご自身のご意思として、かなり進んでいると見てよろしいのでしょうか」
部屋の空気が一段深く沈む。
レオンハルトは相手の目を見たまま答えた。
「よい」
それだけで十分に場は揺れた。
否定も留保もない。
しかも“そこは認める”という前提から入った。
何人かがわずかに息を整える気配がある。
「では」
管理部門の年長文官が慎重に続ける。
「率直な懸念を申し上げても」
「構わない」
「一度、社交界で大きな騒ぎの中に置かれた令嬢です。冤罪であったことは承知しておりますが、それでも“そう見られた履歴”は残ります」
「そうだな」
「さらに最近では、王宮内で殿下との私的な近さが噂となりつつある」
そこで男は一瞬だけ言葉を切った。
「それを、“殿下が私情で判断しておられるのではないか”と見る声があるのです」
ついにそこへ来た。
ユリウスは内心で息をつく。
しかし同時に、ここからが本題だとも思う。
もしレオンハルトがこの場で感情論へ逃げれば、相手の思うつぼだった。
愛しているから。大切だから。
そういう言葉だけでは、この場は通せない。
だがレオンハルトは、予想通り一切揺れなかった。
「私情がないとは言わない」
その一言に、何人かが目を上げる。
普通なら、そこで否定したくなるはずなのに。
「だが」
レオンハルトは続けた。
「私情だけでここまで進めるつもりなら、もっと別のやり方をしている」
部屋が静まる。
「ルーヴェルト嬢を王宮の場へ出し、役目を持たせ、年長者の目にさらし、実際に立てるかどうかを見せてきた」
ひとつひとつ、事実だけを置いていく。
「印象ではなく、現実の積み上げで通す。そのために手順を踏んでいる」
それは、ここにいる誰もが否定しにくい現実だった。
アリアは確かに、ただ甘やかされて隣へ置かれているだけではない。
小さな接遇の場。
貴婦人たちの値踏み。
役目。
仕込まれた綻びへの対処。
それら全部を、きちんと積んできた。
重臣補佐の一人が、少しだけ眉を寄せる。
「しかし、役目をこなせることと、皇太子妃としてふさわしいことは、また別ではありませんか」
「別だ」
レオンハルトは即答した。
だが、その次の言葉が重要だった。
「だが、無関係ではない」
低く、明確な声。
「少なくとも私は、“ただ美しく立っているだけの女”を隣へ置く気はない」
その言葉に、部屋の空気がまたわずかに揺れる。
王子の恋ではない。
皇太子としての選別だ。
そう示すには十分すぎる言葉だった。
「ルーヴェルト嬢は」
レオンハルトは続ける。
「場を読む目がある。細部の乱れを見つける。感情に呑まれず立てる。そして何より、自分が選ばれるだけの位置で満足しない」
ユリウスはその横顔を見ながら、少しだけ息を止めた。
ここまで、はっきりと言うのか。
好きだから守る、ではない。
必要だから選ぶ、でもない。
その両方を、しかも公的な言葉として同時に成立させようとしている。
「私は彼女を、恋情だけで近づけているのではない」
部屋の中央へ、その言葉が落ちる。
「皇太子として見ても、必要だと判断している」
それが決定打だった。
王子ではなく、皇太子として。
感情を否定しないまま、判断の主体をそこへ置く。
それを真正面から言い切られてしまえば、慎重論を“私情への懸念”だけでは押しづらくなる。
もちろん反論は出る。
実際、すぐに年長の政務官が言った。
「必要、という表現は少々強いのでは。王宮には他にも家格も経験も十分な令嬢がおります」
「いるだろうな」
レオンハルトはあっさり認める。
「だが、それで代わりになるとは限らない」
「何が違うと」
「彼女は、一度傷の中へ落ちている」
その言葉に、部屋が静かに張る。
アリアの過去を、ここであえて使うのか。
そう思った者もいたに違いない。
けれどレオンハルトはためらわなかった。
「印象で切り捨てられることの痛みを知っている。傷があることと立てないことは別だと、自分で証明しようとしている」
静かな、だが強い声。
「王宮の隣に必要なのが、何も知らぬまま整っている娘ではなく、痛みも視線も知った上でなお立てる者なら、彼女は十分に候補となりうる」
候補。
その単語をあえて置いたのも、巧みだった。
いきなり“絶対だ”と押し切るのではない。
だが、十分に資格があると公式の言葉で認めてみせる。
管理文官が慎重に言う。
「殿下は、ずいぶん高く評価しておられるのですね」
「そうだ」
やはり、ためらいがない。
「それは私情だけではない」
もう一度、そこを明確に打つ。
「昨日今日の感情で決めたのではない。見てきた上での判断だ」
ユリウスはその言葉を聞きながら、部屋の空気が変わっていくのを感じていた。
全面的な賛同ではない。
だが少なくとも、“殿下が恋に酔って軽率に暴走している”という筋書きは、ここではかなり崩れた。
事実を積み上げられてしまえば、反対する側も別の論拠を探すしかない。
しばらく沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、最も無表情だった年長の重臣だった。
「……では、ルーヴェルト嬢ご本人の意思はどうなのです」
その問いに、ユリウスは少しだけ息を詰める。
だがレオンハルトは、想定済みだったらしい。
「彼女は自分の意思でそこへ来る」
静かな断言。
「選ばれたからではなく、自分で隣を選ぶと、すでに言葉にしている」
その一言で、場にまた別の重みが落ちる。
守られて連れて来られた娘ではない。
自分で来る娘なのだ、と。
それは反対派にとって、ひどく厄介な情報だったはずだ。
なぜなら、“可哀想な娘が権力に振り回されている”という筋すら、もう使えないからだ。
会議が終わりに向かった頃には、誰も最初ほど明確に“私情への懸念”だけを押し出せなくなっていた。
完全に勝ったわけではない。
だが、少なくとも今日の場で、レオンハルトは自分の立場を十分に示した。
会議室を出たあと、ユリウスは廊下へ並びながら言った。
「かなり踏み込みましたね」
「そうか」
「“必要だと判断している”まで、あそこで言い切るとは思いませんでした」
レオンハルトは前を向いたまま短く答える。
「事実だからな」
その返しに、ユリウスは小さく息を吐く。
まったくこの人は、と半ば呆れ、半ば感心するしかない。
「ルーヴェルト嬢が聞けば、かなり重く受け取るでしょう」
その言葉に、レオンハルトの歩みがほんの一瞬だけ遅くなった。
「……だろうな」
珍しく、そこには少しだけ私的な響きがあった。
その頃アリアは、王宮の別室で女官長補佐から書類確認の説明を受けていた。
会議の詳細までは知らされていない。
けれど何かが動いていることは、空気で分かる。
「本日は、宮中の方々のご視線が少し違いますね」
思わずそう漏らすと、女官長補佐は一瞬だけ手を止めた。
「ええ。少し、でしょうか」
「……かなり、ですか」
「そうかもしれません」
女官長補佐はそれ以上は言わなかった。
だが、その沈黙だけで十分だった。
何かがあった。
しかも、自分に関わることが。
夕方、ようやく小会議室へ呼ばれたアリアは、部屋へ入った瞬間に、いつもと違う空気を感じた。
ユリウスはいる。
だが、表情が少しだけ軽い。
レオンハルトはいつも通り静かだが、その静けさの下に、ごくわずかに熱がある。
「来たか」
「はい」
アリアが席へつくと、ユリウスが珍しく先に口を開いた。
「本日、少々重たい話し合いがございました」
少々で済むのでしょうか、と内心で思いつつ、アリアは黙って続きを待つ。
「主題は、近頃の空気――つまり、殿下とあなたの件です」
やはり、と思う。
そして胸が少しだけ冷える。
だが次の言葉は予想外だった。
「殿下は、正面からお答えになりました」
正面から。
その響きに、アリアは息を呑む。
ユリウスは、会議の内容を必要な範囲で伝えた。
私情だけではないこと。
役目を通して見てきたこと。
そして――。
「殿下は、あなたを“皇太子として見ても必要だと判断している”とおっしゃいました」
その一言が、アリアの胸へ深く落ちた。
必要。
ただ好きだからではない。
ただ守りたいからでもない。
皇太子として見ても、必要だと。
嬉しい。
でも、それ以上に重い。
その重さに、アリアはしばらく言葉を失っていた。
「……そんなことを」
ようやく絞り出した声は、少しだけ震えていた。
レオンハルトは静かにアリアを見た。
「事実を言っただけだ」
簡単に言う。
だが、その“事実”がどれほど大きいか、自分は分かっている。
「殿下」
アリアは目を伏せる。
胸の奥が熱い。
嬉しいのに、少し苦しい。
「私は……そこまでのものになれているのでしょうか」
思わず出た問いだった。
必要だと判断される。
皇太子としても。
それは、恋よりも重い言葉だ。
レオンハルトは一拍置いてから、はっきりと言った。
「なれているから言った」
その断言が、アリアの中へまっすぐ落ちる。
王子ではなく、皇太子として。
その立場からの言葉を、自分は今、真正面から受け取ったのだ。




