第77話 殿下の誇り
歓迎の夕べが終わった翌日、アリア・フォン・ルーヴェルトは、思っていたよりも静かな朝を迎えた。
身体は少し重い。
前夜まで張り詰めていた神経が、ようやく遅れて疲れを知らせてくるような感覚だ。
けれど、心の奥には奇妙な静けさがあった。
失敗を待つ者たちがいた。
静かな毒も回っていた。
それでも、自分は崩れなかった。
ただ守られていただけではない。
ただ見つけてもらっていただけでもない。
自分で気づき、自分で整え、自分で返した。
その手応えは、今までのどの“うまくやれたかもしれない”とも違っていた。
もっと深くて、もっと静かな確かさだ。
鏡の前で髪を整えながら、アリアは自分の顔を見た。
少し疲れている。
でも、ひどく弱っている顔ではない。
むしろどこか、ひとつ山を越えた者の顔をしている気がした。
「お嬢様」
リナが背後からそっと声をかける。
「本日は、少しだけお顔つきが違います」
「最近、そればかり言われるわね」
「ええ。ですが今日は、昨日までとまた少し違います」
アリアは鏡越しに小さく笑う。
「どう違うのかしら」
「自分でつかみ取った方のお顔です」
その一言に、アリアはしばらく返す言葉を失った。
つかみ取った。
そんな大げさなものではないと思っていた。
けれど、少なくとも昨日の夜、自分はただ受け身で流されていたわけではない。
「……そうなら、少し嬉しいわ」
そう答えると、リナがほっとしたように微笑んだ。
昼前、王宮から短い伝言が届いた。
『来い』
それだけだ。
だが今のアリアには、それが命令ではなく、呼び寄せるための最短の言葉に思える。
王宮へ向かう馬車の中、アリアは胸の奥に小さな緊張を抱えていた。
歓迎の夕べが終わった翌日だ。
何かしら話があるのは当然だろう。
評価。
今後の段取り。
あるいは、また別の毒が動き始めたのかもしれない。
けれど、どんな話であれ、もう以前ほどは怖くない。
昨夜、自分の中で何かが少しだけ変わったことを知っているからだ。
小会議室へ入ると、レオンハルトは一人だった。
珍しい、とアリアは思う。
ユリウスも女官長補佐もいない。
机上の資料は片づけられており、部屋の空気も今日は実務より静かな方へ寄っている。
「来たか」
「はい」
レオンハルトは書類から顔を上げるでもなく、最初からアリアを見ていた。
その視線が、いつもより少しだけ深い気がする。
「昨日の疲れは残っているか」
「少しだけ」
「少しか」
いつものようでいて、今日はそのやり取りさえ少し違う響きを持っていた。
アリアが席へ着くと、レオンハルトはすぐには本題を言わなかった。
珍しい沈黙だった。
その沈黙に、アリアの方が先に口を開く。
「歓迎の夕べの件でしょうか」
「ああ」
「何か、問題が」
「問題はない」
即答だった。
そのあまりの迷いのなさに、アリアは一瞬だけ目を瞬く。
「では……」
「むしろ逆だ」
レオンハルトはそう言って、一歩だけ近づいた。
その距離の詰め方に、アリアの胸が静かに鳴る。
「女官長補佐、侍従側、そして外から来た数家」
低い声が部屋に落ちる。
「全て、君の昨日の立ち方を高く見ている」
その言葉に、胸の奥が熱を持つ。
褒められたいわけではない。
それでも、やはり嬉しい。
しかもそれが、ただ“お上手でした”という軽い評価ではなく、実務と立ち方を含めたものだと分かるから、なおさらだった。
「……本当に?」
思わずそんな子どもじみた返しが出てしまう。
レオンハルトは一切笑わなかった。
「本当だ」
短く、確かにそう言う。
「だから呼んだ」
アリアは息を整える。
「何を、ですか」
問い返すと、レオンハルトはしばらく黙ってアリアを見た。
そして、ゆっくりと言う。
「君を選んだ理由は、間違っていなかった」
その一言は、今までのどんな言葉よりも深く胸へ落ちた。
アリアは一瞬、自分が息をするのも忘れた気がした。
選んだ理由。
間違っていなかった。
それはつまり、この人が自分へ向けてきた全部――守ることも、隣へ引き上げることも、待つことも、進めることも――それらが正しかったのだと、自分の手で確かめたということだ。
「……殿下」
ようやく名前を呼ぶと、声が少しだけ震えた。
「何だ」
「そういうことを……」
言葉が途中で詰まる。
嬉しすぎて、どう返せばいいのか分からない。
「何でもないようにおっしゃらないでください」
やっとそれだけ言うと、レオンハルトの目がほんの少しやわらいだ。
「何でもないわけではない」
低く返される。
「昨日の件で、私はあらためて確信した」
彼は続ける。
「君は、ただ私の隣へ置くにふさわしいからではなく、私が誇れる相手だ」
誇れる。
その言葉に、アリアの胸がひどく熱くなる。
守りたい、でもない。
好きだ、でもない。
誇れる。
それは、この人が簡単には使わない言葉だと分かる。
恋情だけではない。
皇太子として、人として、自分の側へ置きたい者へ向ける重い言葉だ。
「……そんなふうに、言っていただけるなんて」
アリアは目を伏せた。
じんと熱くなった視界を落ち着けるためでもあった。
「私は、まだ途中です」
「知っている」
「まだこれからも、足りないことがたくさんあります」
「そうだろうな」
容赦のない返答。
なのに、それが今は不思議とやさしい。
「でも」
アリアは顔を上げた。
「昨日のことだけは、逃げずにやれたと思っています」
「そうだ」
レオンハルトは迷いなく頷く。
「だから言っている」
君を選んだ理由は、間違っていなかった。
その続きが、今は言葉にされなくても分かる気がした。
部屋の静けさが濃くなる。
窓の外では昼の光が少し傾き始めていた。
王宮の石壁へ落ちるその光がやわらかいぶんだけ、今この場の言葉の重みが際立つ。
「……私も」
アリアは小さく言った。
「何だ」
「私も、殿下を選んだことを間違いだと思ったことはありません」
それは、ここで返さなければならない言葉だった。
悪役令嬢と呼ばれた自分を見つけた人。
傷があることと立てないことは別だと言った人。
そして今、自分を誇れると言う人。
そんな人を選んだことを、後悔するはずがない。
レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがてごく静かに息を吐いた。
「そうか」
たった二文字。
でも、その一言の奥にある熱は、アリアにも十分伝わった。
次の瞬間、レオンハルトが一歩だけさらに近づく。
以前なら、その一歩に身体が強張ったかもしれない。
今は違う。
胸は鳴る。
けれど、逃げたいとは少しも思わない。
「殿下」
「何だ」
「……少しだけ、近いです」
言いながら、自分の頬が熱いのが分かる。
「嫌か」
「いいえ」
即答だった。
言ってしまってから、さらに熱くなる。
レオンハルトの口元が、ごくわずかに緩んだ。
「なら、そのままでいろ」
ずるい。
また思う。
でも、もうそれを責める気にはならない。
誇れる相手。
その言葉は、ただ嬉しいだけではなかった。
これからもっと立てるようになりたいと、自然に思わせる力があった。
「今後、反対はもっと露骨になる」
レオンハルトが静かに言う。
「ええ」
「だが、昨日のことで一つ分かった」
「何を、ですか」
「君は、押し返せる」
その言い方が、どうしようもなく嬉しい。
守る、ではなく。
押し返せる、と言う。
「……努力いたします」
アリアがそう返すと、レオンハルトは小さく首を振った。
「努力だけでは足りないなら、私もいる」
その一言で、胸の奥がまた熱を持つ。
共に立つ。
きっと、そういうことなのだろう。
殿下の誇り。
それは、与えられて終わる言葉ではない。
その言葉に見合う自分でありたいと、そう思わせるものだった。




