第78話 近づきすぎた距離
その日の公務が終わったあと、アリア・フォン・ルーヴェルトは珍しく、すぐに王宮を辞する気になれなかった。
理由は分かっている。
レオンハルトに「君を選んだ理由は間違っていなかった」と言われたこと。
そして、自分もまた「殿下を選んだことを間違いだと思ったことはありません」と返したこと。
言葉にした瞬間は、ただ必死だった。
けれど時間が経つほど、その余韻はじわじわと胸の奥へ染みてくる。
誇れる相手。
その言葉は、今でも思い出すだけで胸が熱くなる。
恋の甘さだけではない。
信頼と、覚悟と、未来まで含めて受け取ったような重みがあった。
だからだろうか。
今夜は、ただ屋敷へ戻って一人でその余韻を抱えるには、少しだけ心が落ち着かなかった。
中庭へ続く回廊の窓から外を見る。
夕暮れの色はすでに深くなり始め、空は群青へ近づいていた。王宮の庭木は静かに影を伸ばし、遠くの噴水の音が、昼よりも少しだけ近く聞こえる。
「……帰るべきなのに」
そう小さく呟いた時だった。
「帰した方がいいのか」
低い声がすぐ後ろから落ちてきて、アリアは思わず肩を揺らした。
「殿下」
振り返れば、レオンハルトが立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
けれど、その立ち姿はいつも通り静かで、王宮の夕暮れの中にあっても不思議なほど輪郭がぶれない。
「……驚かせないでください」
「驚くほど考え込んでいたのは君だ」
そう返されると、否定できない。
アリアは少しだけ視線を逸らした。
「少しだけ……考えておりました」
「何を」
「いろいろと」
「曖昧だな」
いつもならそこで苦笑して終わるようなやり取りなのに、今夜はその一言さえ少しだけ近く感じる。
レオンハルトは窓辺へ歩み寄り、アリアの隣に立つ。
肩が触れるほどではない。
けれど、明らかに一人ぶんよりは近い。
しばらく、二人とも黙って庭を見ていた。
その沈黙は不思議と苦しくない。
むしろ、言葉がないからこそ、互いの気配が濃く感じられる。
「今日は、戻りたくなかったのか」
やがてレオンハルトが問う。
アリアは少しだけ呼吸を整えてから答えた。
「……はい」
「なぜだ」
「分かりません」
正直に言うと、レオンハルトがわずかに目を細める。
「分からないまま残ったのか」
「そうなりますね」
「無茶をする」
その言い方に、アリアは思わず少しだけ口元を緩める。
「殿下にだけは言われたくありません」
「私は無茶ではない」
「そうでしょうか」
その短いやり取りが、ひどくやわらかい。
以前の自分なら、こうして夕暮れの回廊で皇太子と並び、少し拗ねたような口調で返すなど考えられなかった。
けれど今は、それができてしまう。
それほどまでに、二人の間の距離は近づいていた。
「……たぶん」
アリアは窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
「今日は、殿下の言葉が思っていたより深く残ってしまって」
「どの言葉だ」
そう聞かれてしまうと、かえって恥ずかしい。
誇れる相手。
その一言を、本人へそのまま返すのは、まだ少し勇気が要る。
「ご自分でお分かりでしょう?」
「君のこととなると、私は案外いろいろ言っているらしい」
真顔でそんなことを言われると、困る。
アリアは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「……そういうところです」
「そういうところ、とは」
「逃げ道をなくすところです」
レオンハルトの口元が、ごくわずかに緩んだ。
「君はその言い方が好きだな」
「好きで言っているわけではありません」
「だが、間違ってもいないのだろう」
返す言葉がなくなる。
結局、この人は自分がどう見えているかをよく分かっているのだ。
夕暮れの光がさらに薄れ、回廊の燭台へ明かりが灯り始める。
その揺れる灯りの中で、二人の距離は昼よりずっと曖昧で、危うく見えるのかもしれない。
「殿下」
「何だ」
「私は、今でも怖いです」
不意にそんな言葉が出た。
「何が」
「これから先のことが」
社交界。
王宮。
反対。
正式な婚約への手続き。
どれも大きくて、簡単なものではない。
「でも」
アリアは続ける。
「以前の怖さとは少し違います」
「どう違う」
「前は、ただ飲み込まれるのが怖かったのです。でも今は……」
自分でも言葉を探しながら、静かに息を吸う。
「今は、守りたいものがあるから怖いのだと思います」
その言葉を口にした瞬間、自分でもはっとした。
守りたいもの。
それは立場か。
未来か。
それとも――この人との関係か。
レオンハルトはしばらく黙っていた。
そして、ごく低く言う。
「なら、前よりいい」
アリアは顔を上げる。
「いい、のですか」
「ああ」
短いが、はっきりした肯定。
「失うものがあると知った上で進む方が、ずっと現実的だ」
その言い方は、この人らしい。
甘い慰めではなく、きちんと現実の中で支える言葉。
その時、ふいに風が吹き抜けた。
回廊の外から入り込んだ少し冷たい風に、アリアが思わず肩をすくめる。
次の瞬間、レオンハルトの手がそっとアリアの腕へ触れた。
引き寄せる、というほど強くはない。
だが、確かにこちらへ寄せる手つきだった。
アリアの息が止まる。
「殿下……」
「寒いのだろう」
低い声。
けれど、その言い訳じみた言葉がかえってずるい。
近い。
今までより、明らかに近い。
肩が、ほとんど触れそうだ。
腕を包む指先の熱が、外の冷たい空気のせいでいっそうはっきり分かる。
「近すぎます」
思わずそう言うと、レオンハルトは少しだけこちらを見た。
「嫌か」
「……嫌では、ありません」
即答してしまった。
言ってから、胸がさらにうるさくなる。
レオンハルトは一拍だけ黙り、それからわずかに距離を詰めた。
今度は言い訳の余地がないほど近い。
抱き寄せられたわけではない。
だが、逃げる気になれば逃げられる距離ではなくなった。
アリアはその近さに、逃げたいとは少しも思わなかった。
むしろ、こうしていられることが、ひどく自然に思えてしまう自分に戸惑う。
「……本当に、ずるいです」
小さく漏らすと、レオンハルトの声がすぐ近くで落ちた。
「何がだ」
「そうやって、いつも少しずつこちらの覚悟を奪っていくところが」
その言葉に、レオンハルトは初めて少しだけ息を漏らすように笑った。
はっきりした笑いではない。
でも、アリアにはそれで十分だった。
「奪っているつもりはない」
「では何ですか」
「慣れさせている」
その答えに、アリアはもう反論できなかった。
たしかにそうだ。
最初は視線だけで揺れた。
次は言葉で。
その次は、手が触れるだけでいっぱいになった。
そして今、こうして腕を引かれ、肩が近くても、怖いより先に落ち着いてしまう。
慣れさせられている。
そう言われれば、まさにその通りだった。
しばらくそのまま、二人は何も言わなかった。
庭の向こうで、夜の気配が少しずつ濃くなっていく。
遠くで人の気配がしたような気がして、アリアはわずかに身じろいだ。
「……見られたら」
そう言いかけると、レオンハルトが低く返す。
「困るか」
その問いは、以前ならもっと即座に“困ります”と返していただろう。
だが今は違う。
もちろん、表向きの段階はある。
まだ正式発表の前だ。
それでも、胸の中の答えは前ほど単純ではない。
「少しは」
アリアは正直に言う。
「でも、以前ほどではありません」
「そうか」
「ええ。もう、何でもない関係ではありませんから」
その言葉を口にした瞬間、レオンハルトの指先がほんの少しだけ強くなった。
今までより一段近い距離。
けれど、その先へは行かない。
理性がある。
正式な婚約前だという線も、まだきちんと守られている。
だからこそ、この近さは甘いだけではなく、ひどく信頼に満ちていた。
近づきすぎた距離。
それは危うく見えて、実はぎりぎりのところで守られている距離でもあった。




