第72話 恋人未満では、もういられない
公にするための条件を聞かされた日から、アリア・フォン・ルーヴェルトの中には、妙な静けさと落ち着かなさが同時に居座るようになっていた。
王族会議。
重臣への根回し。
王宮内の支持。
外部貴族の反応。
どれも軽くはない。
むしろ、どこを切り取っても“恋をしているだけ”では越えられない壁ばかりだ。
なのに、その現実を聞いたあと、絶望するより先に浮かんだのは、別の感情だった。
――それでも、隣へ行きたい。
その気持ちが、自分の中で思っていたより揺らがなかったことに、アリアは少し驚いていた。
だが同時に、別の落ち着かなさもあった。
名前のない近さ。
もう、ただの“気にかけられている令嬢”ではない。
かといって、まだ正式な婚約者でもない。
お互いの気持ちは確かに交わした。
でも、公にはまだ言えない。
王宮の中でも、社交界でも、まだ“その前段階”として立っている。
その曖昧さが、ここへ来て急に苦しくなってきたのだ。
以前は、その曖昧さに守られている部分もあった。
まだ答えを出し切っていない時期には、それが必要だった。
けれど今は違う。
自分はもう、あの人の婚約者になる未来を受けると決めている。
それなのに、周囲から見れば“まだ何とも言えない近さ”として扱われる。
そのことが、ひどくじれったかった。
王立学園の放課後、エレノアと並んで歩きながら、アリアは珍しく何度も小さくため息をついていた。
「本当に分かりやすいですわね」
エレノアが呆れ半分、面白がり半分の顔で言う。
「何が?」
「アリア様のそのお顔です」
「どんな顔をしているのよ」
「恋をしているのに、まだ名前をつけられなくて落ち着かない顔」
あまりに的確で、アリアは返す言葉を失った。
「……あなた、本当に遠慮がないわね」
「今さらですわ」
エレノアはにっこりと言う。
「でも、そうなのでしょう?」
アリアは歩きながら視線を少しだけ落とす。
そうだ。
まったくその通りだ。
「ええ」
結局、素直に認めるしかなかった。
「もう、自分の気持ちは分かっているの」
「はい」
「殿下のお気持ちも」
「……ええ」
「それなのに、まだ“そういう名のついた関係”ではない」
そこでエレノアは、少しだけ声を落とした。
「苦しいですわよね」
その言い方が意外とやさしくて、アリアは少しだけ目を瞬いた。
「苦しい、というほど大げさではないわ」
「でも、じれったいのでしょう?」
「それは、ええ」
そこは否定できない。
王宮の回廊で顔を合わせれば、それだけで空気が変わる。
人前でも自然に隣へ置かれる。
見つけてくれる。
支えてくれる。
時には触れられる。
そこまで近いのに、まだ何でもない顔をして立たなければならない場面がある。
それが最近、どうしようもなく落ち着かない。
「殿下も、似たようなことをお思いかもしれませんわ」
エレノアのその一言に、アリアの胸が少しだけ熱くなる。
たしかに、レオンハルトも“曖昧なまま長く置くつもりはない”と言った。
待つだけでは得意でもないと、そうも言った。
ならば彼もまた、このじれったさを感じているのかもしれない。
「……そうかもしれないわね」
「でしたら」
エレノアが意味ありげに笑う。
「少しぐらい、ご自分から素直になられてもよろしいのでは?」
「十分素直になったつもりよ」
「まだですわ」
きっぱり言い切られて、アリアはとうとう苦笑するしかなかった。
その夜、王宮からの呼び出しはなかった。
代わりに短い書状だけが届く。
『明日、夕刻に来い。話がある』
相変わらず簡潔だ。
だが、その簡潔さの奥に、最近は以前と違う温度を感じるようになってしまった。
翌日の夕刻、アリアが王宮へ着いた時には、空はすでに薄く暮れ始めていた。
案内された先は、小会議室ではなかった。
中庭に面した、こぢんまりした応接室。
以前、いくつか大事な言葉を交わしたことのある場所に近い。
人目がまったくないわけではない。
けれど、明らかに“用件だけの場”ではない空気があった。
扉を開けると、レオンハルトは窓際に立っていた。
「来たか」
「はい」
アリアは部屋へ入りながら、胸の鼓動がいつもより早いことに気づく。
「何か、お話があると」
「ああ」
レオンハルトは短く答えたあと、しばらく黙った。
その沈黙自体が妙に濃い。
やがて彼はゆっくり言う。
「君に聞いておきたいことがある」
「何でしょう」
「今のままで、足りるか」
意味を理解するまでに、ほんの数秒かかった。
今のままで、足りるか。
それはきっと、手続きの話ではない。
王族会議でも、重臣でもない。
もっと近くて、もっと個人的な問いだ。
「……足りる、とは」
確認するように返すと、レオンハルトはアリアをまっすぐ見た。
「今のように、外にはまだ曖昧なまま」
低く、静かな声。
「だが、私たちの間ではもう決まっている。その状態で」
その言い方に、アリアの胸が大きく鳴る。
やはりだ。
この人も、この曖昧さを感じているのだ。
ただし、それを感情的にぶつけるのではなく、こうして問いとして差し出してくるところが、いかにも彼らしい。
アリアは少しだけ呼吸を整えた。
「……正直に申し上げるなら」
「言え」
「最近、少し苦しいです」
言葉にしてしまえば、思ったよりもまっすぐだった。
レオンハルトは黙って聞いている。
「以前は、この曖昧さが必要でした。まだ私が、自分の気持ちにも責任にも整理をつけきれていなかったから」
「そうだな」
「でも今は違います」
アリアは顔を上げた。
「私は、あなたの隣へ行くと決めています」
その言葉を自分で口にすると、胸の中が少しだけ落ち着く。
「ですから……近いのに、まだ何でもない顔で立っていなければならない時が、少しだけ苦しいのです」
言ってしまった。
ここまで素直に口にするつもりはなかったのに。
けれど、レオンハルトはそれを聞いても驚かなかった。
むしろ、どこか当然だと言うように目を細めた。
「私もだ」
短い返答。
だが、その一言だけで十分だった。
私もだ。
この人も同じなのだ。
それが嬉しくて、少しだけ胸が熱くなる。
「なら、やはり殿下も」
「ああ」
レオンハルトは一歩だけ近づいた。
「恋人未満のような顔を続けるのは、もう限界に近い」
その言い方に、アリアは思わず頬が熱くなる。
恋人未満。
あまりにも率直で、あまりにも分かりやすい。
でも、まさにその通りだった。
「……そんな言葉を、殿下が口になさるとは思いませんでした」
「私も今まで使う必要がなかった」
それはそうだろう。
この人は、もっと理性的で、もっと簡潔な言葉ばかりを使う。
だからこそ今、この表現が出てきたこと自体が、どれほど本音なのかが分かってしまう。
「正式な手順は踏む」
レオンハルトは続ける。
「それは変わらない。だが、その間ずっと“何でもないふり”を続けるつもりはない」
「……では」
「君が嫌でなければ」
そこで彼はわずかに言葉を切った。
「もう少し、君に近い位置にいる」
その言い方がひどく絶妙で、アリアは返答に困った。
抱き寄せるとも。
触れるとも。
甘い言葉を囁くとも言わない。
ただ、“もう少し近い位置にいる”と言う。
でも、それがこの人の精一杯の踏み込みなのだと、アリアには分かった。
「……嫌なはずがありません」
ようやくそれだけ言うと、レオンハルトの目がほんの少しやわらぐ。
次の瞬間、彼は静かに手を伸ばした。
前と同じように、いきなり強くではない。
指先が、まずアリアの手の甲へそっと触れる。
触れて、それからゆっくりと手を包む。
それだけ。
それだけなのに、アリアの呼吸は浅くなった。
「近すぎるか」
レオンハルトが低く問う。
「……いいえ」
むしろ、それくらいで済ませてくれていることに、少し安心している自分がいた。
もっと近くても嫌ではないかもしれない。
でも、今はこの“少し”がちょうどいい。
「あなたの隣にいると」
アリアは小さく言った。
「安心します」
「知っている」
「でも、それだけではなくなってきました」
その言葉に、レオンハルトの指がほんの少しだけ強くなる。
アリアは勇気を出して続けた。
「以前は、見つけてもらえることが嬉しかった。守ってもらえることが心強かった。でも今は……近くにいられること自体が、もう特別です」
部屋の空気が、さらに静かになる。
外では夕方の風が木々を揺らしていた。
その音さえ遠く感じる。
「そうか」
レオンハルトの返答は短い。
だが、その低い声には、抑えた熱がはっきりあった。
「なら、私も言っておく」
アリアはそっと顔を上げる。
「今の君に、ただ“立場上必要だから”近づいているわけではない」
胸が強く鳴る。
「知っております」
そう返すと、レオンハルトはほんのわずかに口元を緩めた。
「ならいい」
それきり、しばらく言葉はなかった。
けれど気まずさはない。
ただ、重ねた手の温度と、二人の間に流れる静かな熱だけがあった。
恋人未満では、もういられない。
そう互いに確認した夜。
正式な名はまだ公には持てない。
それでも、二人の距離だけは、もう以前の場所へ戻ることはなかった。




