第71話 公にするための条件
王宮の午後は、光がやわらかいぶんだけ現実が冷たく見えることがある。
その日、アリア・フォン・ルーヴェルトが呼ばれたのは、いつもの小会議室だった。
けれど、部屋の空気はこれまでと少し違っていた。
机の上には複数の資料が整然と並べられ、王宮内用の印章が押された封書まで置かれている。茶会や接遇の確認をする時の、どこか実務的で終わる空気ではない。もっと重い。もっと先の話をする時の空気だ。
レオンハルトは窓際ではなく、机の前に立っていた。
その横にユリウス。
側近がいる時点で、これは感情の話だけでは終わらないのだと分かる。
「来たか」
「はい」
アリアは席へ着く前に、自然と背筋を伸ばしていた。
「今日は、公にするための条件を整理する」
レオンハルトはそう言って、まっすぐアリアを見る。
公にする。
その言葉だけで、胸の奥がひとつ強く鳴った。
昨夜のような、二人の間だけで交わす甘さはない。
けれど今は、その方がありがたかった。
婚約者として迎えるつもりだ。
その言葉を受けて、自分もその名を受けると返した。
なら、その先には当然“どうやって外へ出すか”がある。
そこを避けては進めない。
「まず確認しておく」
レオンハルトの声は低く、揺らがない。
「今の段階で、私と君の意思は一致している」
「はい」
「だが、それだけで明日正式発表というわけにはいかない」
アリアは小さく頷く。
もちろん、分かっていた。
恋愛小説のように、想いが通じた翌日に全てが片づくはずがない。
相手は第一皇太子であり、自分はその婚約者になるかもしれない公爵令嬢なのだから。
「具体的には四つだ」
レオンハルトは机上の一枚を指先で押さえた。
「王族会議」
「重臣への根回し」
「王宮内の支持」
「外部貴族の反応」
一つずつ言葉が落ちるたび、その重さが胸へ沈む。
「王族会議、ですか」
「正式な婚約に進むなら避けられない」
レオンハルトは簡潔に言う。
「王族間で異論がないとは限らない。第二王子の件もある。だからこそ、私情ではなく王家として妥当であると示す必要がある」
第二王子。
つまり、セドリックとの過去はここでも影を落とすのだ。
アリアは静かに息を整える。
「重臣への根回し、というのは」
今度はユリウスが説明を引き取った。
「王宮政治は、感情で反対されるより“まだ早い”“慎重にすべきだ”で止まる方が厄介です。表立って敵意を示さないぶん、手続きと空気で遅らせてきます」
ひどく現実的な言い方だった。
そして、だからこそ分かりやすい。
露骨な反対ならまだ対処できる。
だが“慎重論”は正論の顔をして足を止める。
「王宮内の支持は、すでに少しずつ変わり始めている」
レオンハルトが続ける。
「だが、まだ十分ではない」
十分ではない。
たしかにそうだろう。
貴婦人たちの中にも見方を変え始めた者はいる。
女官の一部も、自分を“ただ守られている娘ではない”と見始めている。
けれど、それはまだ“一部”だ。
「そして外部貴族」
今度はユリウスの声が少し低くなる。
「ここは最も面倒です。王宮内でほぼ固まっていても、外が“聞いていない”“納得していない”となれば余計な火種になります」
「つまり」
アリアは自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。
「婚約は、私と殿下の気持ちが固まったから終わり、ではないのですね」
「当然だ」
レオンハルトはまっすぐ答える。
「だが、逆に言えば、そこが固まっているから進められる」
その一言が、アリアの胸に静かに残る。
気持ちだけでは足りない。
でも、気持ちがあるからこそ、ここから先を引き受ける意味がある。
「……思っていた以上に、大きいですね」
ぽつりと漏れた本音に、レオンハルトは否定しなかった。
「大きい」
短く、はっきりと。
「君が今さら圧倒されるのも不思議ではない」
アリアは思わず苦笑した。
「圧倒されている顔でしたか」
「少し」
少しか、と心の中で返しつつ、アリアは机上の資料を見つめる。
王族会議。
重臣。
王宮内の支持。
外部貴族。
どこを取っても、自分が“好きだから隣に行きたい”だけでは越えられない壁だ。
いや、むしろ好きだからこそ、その壁の大きさをきちんと見てしまう。
「私に必要なことは、何でしょう」
自分でも意外なほど自然に、その問いが出た。
もう逃げたいとは思わない。
なら、知るべきはそこだ。
レオンハルトの瞳が、ほんのわずかにやわらぐ。
「まず、君自身の言葉だ」
「私の、言葉」
「そうだ」
彼は机の端に指を置きながら続けた。
「王宮内でも外でも、必ず問われる。なぜ隣なのか。なぜ君なのか。なぜこの関係を進めるのか」
その一つひとつが重い。
なぜ隣なのか。
なぜ君なのか。
なぜ進めるのか。
それはたぶん、周囲が知りたがる問いである以上に、自分自身へ向けて最後まで持っておかねばならない問いでもある。
「そこで、黙っていては足りない」
レオンハルトは言う。
「私が選んだから、だけでも足りない。君が自分の意思を語れる必要がある」
アリアは息を呑む。
つまり、自分はただ受け入れるだけでは駄目なのだ。
きちんと自分の口で、この場所を選ぶ理由を語らねばならない。
「……怖いですね」
思わず、本音が漏れた。
「ええ」
自分で言って、少しだけ言い直すように続ける。
「殿下の前で言うのは、もう怖くありません。でも、人前でそれを言うとなると……」
視線。
値踏み。
揚げ足取り。
全部が浮かぶ。
レオンハルトはそんなアリアを見て、静かに言った。
「だろうな」
それだけだった。
でも、その一言が今はちょうどよかった。
大丈夫だとも、平気だとも言わない。
怖いのは当然だと受け止める。
「だが、君はもう何度も人前で立っている」
彼は続ける。
「悪役令嬢と断じられた場でも、王宮の女たちの前でも、役目を持つ場でも」
アリアの胸の奥に、これまでの光景がよみがえる。
あの断罪の夜。
皇太子の隣へ置かれた晩餐会。
貴婦人たちの値踏み。
仕込まれた綻びへの対処。
たしかに、立ってきた。
泣きながらでも、怖くても、立ってきた。
「今度は、それを言葉にするだけだ」
レオンハルトの声は低く確かだった。
「君なら出来る」
その一言が、アリアの胸へまっすぐ落ちる。
君なら出来る。
単純なのに、どうしてこんなに効くのだろう。
目の前の現実は大きい。
圧倒される。
けれど、この人はそこで終わらせない。
必ず、その先に“出来る”を置いてくる。
「……分かりました」
アリアは静かに答えた。
「怖いですが、逃げません」
「そうだな」
「私の言葉で、立てるよう考えます」
「考えろ」
レオンハルトは短く頷く。
「必要なら、何度でも聞く」
その付け足し方が、ひどく彼らしい。
助けるとは言わない。
でも、何度でも聞くと言う。
それが今のアリアには、何より頼もしかった。
会議室を出る頃には、外の光は少し傾いていた。
王宮の石壁に差す午後の色は淡く、でもはっきりしている。
公にするための条件。
それは予想以上に大きく、重く、複雑だった。
でも、ただ恐ろしいだけではない。
その一つひとつを越えた先に、本当に隣へ立つ未来がある。
そう思えたからだ。




