第70話 王宮は祝福ばかりではない
王宮の静けさは、しばしば誤解を呼ぶ。
整えられた笑み。
乱れぬ礼。
低く抑えられた会話。
外から見れば、それは品位と秩序の世界に見えるだろう。
だが、その下で動いているものは、いつだって穏やかではない。
ユリウスはそれをよく知っていた。
レオンハルトの側近として長く仕え、王宮の内外で人の顔色と声色を見続けてきた彼にとって、“静かな宮中”ほど油断ならないものはない。騒がしい敵よりも、黙って計算する者たちの方がずっと厄介だ。
この日も、彼は朝からその厄介さの只中にいた。
王宮の奥にある小会議室。
そこには重臣補佐格の男が二人と、王宮の管理部門を束ねる年配の文官が一人。そしてユリウス自身。皇太子本人を出すほどではないが、だからこそ本音が出やすい顔ぶれだった。
「ルーヴェルト嬢の件ですが」
最初に口火を切ったのは、管理文官だった。
口調は穏やかだが、問いの芯は硬い。
「王宮内の噂がやや先行しているように見受けられます」
「やや、ですか」
ユリウスが淡々と返すと、文官はわずかに喉を鳴らした。
「……かなり、かもしれません」
「そうでしょうね」
否定しようがない。
最近の王宮は、アリア・フォン・ルーヴェルトの名を抜きにしては回らないほどだった。
悪役令嬢と噂された公爵令嬢。
第二王子に切り捨てられた元婚約者。
そこから名誉を取り戻し、皇太子の隣へ置かれ、ついには王宮の役目まで担い始めた女。
物語として強すぎるのだ。
人が口にしたがるのも無理はない。
「問題は、そこではありません」
別の男が静かに言う。
こちらは重臣補佐、政務畑の人間だ。
「一度醜聞に巻き込まれた令嬢を、皇太子妃に近づけてよいのか、という見方がすでに出ています」
ユリウスは表情を変えなかった。
予想通りの文句だ。
「“醜聞に巻き込まれた”のではなく、“冤罪を着せられた”の方が正確でしょう」
そう返すと、男は肩をすくめる。
「我々はそう理解しています。ですが、社交界の記憶というものは、いつも事実より印象で残る」
それもまた現実だった。
悪役令嬢ではなかった。
それはもう公的にも覆りつつある。
だが、“一度そう見られた”という履歴そのものは消えない。
そして王宮や政治の世界では、その履歴だけを使って反対する者が出る。
「他には」
ユリウスが促すと、管理文官が少しだけ言いにくそうに続けた。
「正直に申し上げれば、“殿下の私情が先行しているのではないか”という声もございます」
部屋の空気が少し重くなる。
そこだろう、とユリウスは思う。
結局彼らが本当に恐れているのは、アリア自身というより、“レオンハルトがどこまで冷静でいられるか”の方なのだ。
皇太子が恋を理由に判断を誤るのではないか。
そういう形へ持ち込みたい者は必ず出る。
「では、あなた方はどうお考えで?」
ユリウスが問うと、今度は少し長い沈黙が落ちた。
やがて重臣補佐の一人が口を開く。
「……ルーヴェルト嬢ご本人に関しては、当初より印象が変わったという声もございます」
ようやくそこへ来たか、と思う。
「気づきが早い。感情的に崩れにくい。場を読む目がある。少なくとも、ただ美しく立っているだけの令嬢ではない、と」
「ええ」
ユリウスは頷く。
「その通りです」
「ですが」
また、だ。
「それと、皇太子妃として王宮の中枢へ入れることとは別問題だ」
「もちろん」
ユリウスは淡々と返した。
「ですので、通すのです」
その言葉に、男たちの表情がわずかに変わる。
黙らせる、ではない。
押し切る、でもない。
通す、と言った。
「殿下は、反対や疑問があること自体は織り込み済みです。だからこそ段階を踏んでいる。王宮で役目を持たせ、実際の場で見せ、印象ではなく積み上げで評価させる」
それが、ここ数ヶ月のレオンハルトのやり方だった。
悪役令嬢と噂された令嬢を、ただ庇って正義の側へ引き戻したのではない。
王宮という最も厄介な場所へ少しずつ出し、そこで立てる人間なのかを、現実の目の前で示させている。
厳しい。
だが、あまりに正攻法でもある。
「つまり殿下は、私情で無理を押すつもりはない、と?」
管理文官が慎重に問う。
「はい」
ユリウスははっきり答えた。
「むしろ逆です。私情だけで押す気がないからこそ、ここまで面倒な手順を踏んでいるのです」
その言葉は、本心だった。
もしレオンハルトが単に恋情だけで動く男なら、もっと荒く、もっと強引に進めることもできただろう。
だが実際は違う。
アリアを守りながらも、彼女が王宮で立てる形を作ろうとしている。
それは恋だけでは説明できない。
皇太子としての判断が、明らかにそこへ入っている。
「……分かりました」
最後に重臣補佐がそう言った。
「少なくとも、“軽率な私情”という形では括れないようですね」
「括らせません」
ユリウスは静かに答える。
短い会議が終わり、男たちが去ったあと、部屋にはようやく少しだけ空気が戻った。
ユリウスは深く息を吐き、資料をまとめる。
そこへ、扉も叩かずレオンハルトが入ってきた。
「どうだった」
当然のように聞く。
「祝福ばかりではありませんね」
ユリウスが返すと、レオンハルトは鼻で笑った。
「今さらだな」
「ええ。ですが、思ったよりも“ルーヴェルト嬢そのもの”を見始めている者もおります」
「そうだろう」
「殿下は最初からそのつもりでしたか」
ユリウスが問うと、レオンハルトは一拍置いた。
「最初から、ではない」
珍しい答えだった。
「なら、どこからです」
「彼女が、自分で隣を選ぶと言った時からだ」
その一言に、ユリウスは少しだけ目を細める。
やはりそこか。
レオンハルトが本気で“通す”と決めたのは。
彼女がただ選ばれる存在でなく、自分で選ぶ女だと確信した時から。
「……では、もう引く気は」
「ない」
即答だった。
ユリウスは小さく息をつく。
それを聞いて、レオンハルトが視線を向ける。
「何だ」
「いえ。改めて、面倒なことになったと思いまして」
「最初からそうだ」
「ええ。ですが、今後はもっと面倒になります」
そう言いながらも、ユリウスの口元にはごく薄い笑みがあった。
王宮は祝福ばかりではない。
これから先、もっと露骨な妨害も、もっと巧妙な反対も出るだろう。
それでも、アリア・フォン・ルーヴェルトはもう、ただの“守られる令嬢”ではない。
そしてレオンハルトもまた、ただ恋に流される男ではない。
だからこそ、通せるかもしれないとユリウスは初めて思い始めていた。




