第69話 名を持つ前の秘密
王宮の夜は、すべてを包み隠すようでいて、何一つ見逃さない。
そのことを、アリア・フォン・ルーヴェルトはこのところ何度も思い知らされていた。
昼の王宮には、華やかな微笑みと整えられた礼がある。
夜の王宮には、言葉にならぬ気配と、静かに広がる確信がある。
そして今夜の彼女は、その両方を知った上で、なお胸の内に隠しきれぬ熱を抱えていた。
婚約者として迎えるつもりだ。
その名を受ける。
昨夜、レオンハルトからはっきりと告げられ、自分もそれを受けると返した。
それはまだ、公にはなっていない。
王家の正式手続きも、重臣たちへの段取りも、社交界への出し方も、これから整えられていくのだろう。
けれど、自分たちの間ではもう決まった。
その事実は、アリアの足元を不安定にするどころか、むしろ少しだけ強くしていた。
揺れていた関係に、まだ外へは出せぬものの、内側では確かな輪郭ができたからだ。
翌日、王宮からの呼び出しは予想より早かった。
呼ばれた先は、いつもの小会議室だった。
扉を開けると、レオンハルトがすでに資料へ目を通している。隣にはユリウス。机上にはいくつもの封書と、王宮内用と思しき覚え書きが並んでいた。
甘い余韻だけでは終わらせない。
この人たちらしい光景だと思う。
「来たか」
「はい」
アリアが席へ着くと、レオンハルトは無駄な前置きなしに言った。
「ここから先、しばらくは表向きに慎重に進める」
その声音は静かだった。
だが、昨夜の私的な熱を引きずらない、皇太子としての声でもある。
「正式な手順を飛ばすつもりはない。王家側、重臣側、そして君の家への段取りも必要だ」
「はい」
「ただし」
レオンハルトは一拍置いた。
「隠し続けるつもりもない」
その一言に、アリアは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
そうだろうと思った。
この人は、一度決めたことを曖昧なまま抱え込む人ではない。
だが同時に、王家と政治の現実を無視して突き進む人でもない。
「では……しばらくは、限られた方々だけがご存じなのですね」
アリアが問うと、今度はユリウスが答えた。
「そうなります。現時点で把握しているのは、ごく一部の側近と、王宮内の手続きに必要な人間だけです」
「でも、噂は」
「広がるでしょうね」
ユリウスは淡々と言った。
「完全に止めることはできません。むしろ今の段階では、“何かが決まりつつある”程度の揺れは、ある意味必要です」
必要。
その言葉の意味を、アリアは考える。
「段階的に空気を作る、ということですか」
「ええ。いきなり正式発表を落とせば、反対派は構える暇もなく騒ぎ立てます。ですが、今のように少しずつ“そうなるのだろう”という地ならしがあれば、表立った否定はしづらい」
なるほど、とアリアは思う。
それは恋愛の進め方ではない。
王宮の進め方だ。
レオンハルトの“婚約者”になるということは、こういう現実の段取りと共にあるのだと、改めて思い知らされる。
「……思っていた以上に、現実的です」
ぽつりと漏らすと、レオンハルトが視線を上げた。
「夢物語の方がよかったか」
「いいえ」
アリアはすぐに首を振る。
「その方が、安心いたします」
その返答に、レオンハルトの目がほんのわずかに和らぐ。
「ならいい」
短い。
けれど、その短さが今は嬉しい。
昨夜、感情の面ではもう十分すぎるほどの言葉を受け取った。
だから今は、この現実的なやり取りの方がむしろありがたかった。
名を持つ前の秘密。
それは甘やかなだけでなく、地に足のついた確かさを伴っている。
「一つだけ確認しておきたい」
レオンハルトが言う。
「何でしょう」
「今後しばらく、君は以前よりさらに見られる」
アリアは黙って頷く。
「まだ正式ではない。だが、近しい者たちは察し始める。王宮内の女たちも、外の貴族たちも、皆だ」
「はい」
「それを、負担に感じることもあるだろう」
その予測は、まったく正しい。
正式発表前ほど、人は好き勝手に推測する。
確定した事実よりも、未確定の熱に群がるものだから。
「ですが」
アリアは静かに答える。
「隠れていたいとは思いません」
それは昨夜からずっと胸の中にある気持ちだった。
守られることは、もう嬉しいだけではない。
自分で選んだ以上、その位置に見合うよう立ちたい。
そして、彼の隣にいる理由を、自分で知っているから。
「そうか」
レオンハルトは一言そう返し、それから机上の別の封書へ視線を落とした。
「なら、ちょうどいい」
その言葉の意味を問うより早く、ユリウスが一枚の書状を差し出す。
「こちら、王宮内のごく限られた晩餐への招待です」
「また、ですか」
思わず漏れた言葉に、ユリウスが少しだけ口元を動かした。
「また、です」
「こうも続くものなのですね」
「続けていますからね」
淡々と返され、アリアは一瞬だけ言葉を失う。
続けています。
つまり、それ自体がもう“流れ”なのだ。
招待状を受け取りながら、アリアは胸の内で静かに決意を新たにした。
この先はきっと、甘いだけではない。
けれど、だからこそ、ちゃんと歩いていきたい。
応接室を辞して回廊へ出た時、窓の外にはまだ昼の名残があった。
王宮の石壁へ淡い光が差し、静かな影を作っている。
名を持つ前の秘密。
それは苦しいほどじれったく、でもどこか満ち足りていた。
まだ誰にも大きくは言えない。
けれど、自分だけは知っている。
そして、彼も知っている。
それだけで今は十分だと思えた。




