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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第68話 皇太子の隣にいる理由

 その夜、アリア・フォン・ルーヴェルトは王宮の応接室を出たあともしばらく、自分がどこを歩いているのか分からなくなるほど胸がいっぱいだった。


 婚約者として迎えるつもりだ。

 その名を受ける。


 交わされた言葉は少ない。

 けれど、少ないからこそ逃げ場がなかった。

 曖昧な好意ではない。

 庇護でもない。

 王宮と社交界の現実まで含めたうえで、それでも隣に置くという意思。

 そして、自分もまたそれを受けると返したこと。


 もう、後戻りはしない。


 回廊の窓から見える夜の庭園は静かで、遠くの噴水の音だけが微かに響いていた。

 こんなにも大きなことが決まったのに、世界の方はひどく穏やかだ。

 それがかえって不思議だった。


「……本当に、決まってしまったのね」


 小さく呟くと、自分の声が少しだけ震えているのが分かる。


 嬉しい。

 怖い。

 でも、それ以上に不思議な安堵があった。


 ようやく名前がついたのだ。

 長く曖昧だった近さに。

 誰もが勝手に意味を与えていた関係に。

 そして何より、自分の心の置き場に。


 翌朝、ルーヴェルト公爵家の屋敷はいつも通りに見えた。

 けれど、アリアにとっては何もかもが少し違って見える。


 目覚めた瞬間から、昨夜の言葉が胸にある。

 髪を結われるあいだも、ドレスを整えるあいだも、まるで身体の内側に小さな熱が灯り続けているようだった。


「お嬢様」


 リナが鏡越しにそっと言う。


「本日は……少しだけ、お顔が違います」


「違うかしら」


「はい。とても静かなのに、どこか晴れていらっしゃるような」


 アリアは自分でも少しだけ驚いた。


 たしかに怖さは消えていない。

 これから先、どれほどの目が向けられるのかを思えば、落ち着いてばかりもいられない。

 それでも、“揺れている”のではなく“決まった”心の静けさがある。


「……そうかもしれないわ」


 そう答えると、リナの目元がほっと緩んだ。


 朝食の席で、クラウディアは娘の顔を見た瞬間にすべてを察したらしかった。


「そう」


 ただ一言、それだけを言った。


 けれどその一言の中に、問いも確認も、祝福も少しずつ含まれているのが分かる。


「はい」


 アリアも、それだけ答える。


 母娘の間には短い沈黙が落ちた。

 やがてクラウディアが静かにカップを置く。


「では、ここからはもう“もしかしたら”ではないわね」


「ええ」


「怖い?」


 まっすぐな問いだった。


 アリアは少しだけ考えてから頷く。


「はい。でも」


「でも?」


「もう、自分で選んだことを忘れないでいられる気がします」


 その返答に、クラウディアはごくわずかに微笑んだ。


「それで十分よ」


 学園へ向かう馬車の中、アリアは窓の外を見ながら、これから起こることを想像していた。


 まだ正式な公表は段階を踏むだろう。

 王家の手続きも、宮中の整理もある。

 それでも、昨夜のことを知る者は少なからずいるはずだ。

 ユリウスも、王宮の限られた側近たちも、きっと必要な準備に入っている。


 そして社交界は、こういう“決まりつつあること”を嗅ぎつけるのがひどく早い。


 今日もまた、視線を浴びる。

 噂は広がる。

 嫉妬も、祝福も、計算も、全部来るだろう。


 それでも今のアリアは、以前より少しだけ耐えられる気がしていた。


 なぜなら、もう自分は“選ばれそうな令嬢”ではなく、“自分で選んだ令嬢”だからだ。


 学園へ着くと、やはり空気はすでに違っていた。


 正門をくぐった瞬間から、囁きの質が変わる。

 これまでのような推測や探りだけではない。

 もっと確信に近いざわめきだ。


「何かあったみたいよ」

「昨夜、王宮で……」

「やっぱり、もう決まったのでは」

「正式な発表はまだでも」

「でも、ルーヴェルト様のお顔……」


 自分の顔でそこまで分かるのかしら、と一瞬思う。

 けれど、たぶん分かるのだろう。


 揺れていた者の顔と、決めた者の顔は違う。

 悪役令嬢にされた時、自分は常にどこか傷つき、構え、押し返される側の顔をしていた。

 今は違う。


 怖さを抱えたままでも、前を向いている。

 その違いは、案外外からも見えるのかもしれない。


「アリア様!」


 いつものようにエレノアが駆け寄ってくる。

 だが今日は、その表情が最初からどこか確信めいていた。


「おはようございます」


「おはよう。……どうしたの、その顔」


「逆ですわ」


 エレノアは声を潜める。


「アリア様こそ、どうなさいましたの」


 その問いに、アリアは少しだけ口元を緩める。


「何が?」


「何か、決まったお顔です」


 やはり。

 この友人には隠せない。


 アリアは少しだけ息を吐いてから、小さく言った。


「……ええ」


 それだけで十分だった。


 エレノアの目が一気に見開かれる。


「まあ……!」


「声を抑えて」


「だって」


「まだ、全部が表に出る段階ではないの」


 そう言うと、エレノアは慌てて両手で口元を押さえ、それでも目だけは輝いたままだった。


「本当ですのね」


「ええ」


「ついに……」


 その言葉は途中で途切れた。

 けれど、その先を言わなくても分かる。


 ついに。

 ようやく。

 そういう意味だ。


 エレノアは深呼吸を一つしてから、今度は少しだけ真顔になった。


「でしたら、今日からはさらに大変ですわ」


「ええ、そうでしょうね」


「でも」


 彼女はまっすぐアリアを見る。


「今のアリア様なら、大丈夫だと思います」


 その言葉が、妙にありがたかった。


 教室へ入ると、空気がまた止まる。

 だがアリアはもう、それに足を取られなかった。


 視線の数は変わらない。

 いや、むしろ増えている。

 それでも、自分の胸の中には昨夜の言葉がある。


 君を婚約者として迎えるつもりだ。

 その名を受ける。


 それを知っているのは、まだ一部だけ。

 けれど自分にとっては、それで十分だった。


 午前の授業が終わったあと、廊下の一角で数人の令嬢がまた探るような視線を向けてきた。

 だが、今日は不思議と刺さり方が違う。


 今までの自分なら、“どう見られるか”に揺さぶられた。

 でも今日は違う。

 どう見られても、自分の理由がはっきりしている。


 皇太子の隣にいる理由。

 それはもう、単に庇われたからでも、選ばれたからでもない。


 好きだから。

 そして、その重さごと引き受けたいと思ったから。


 そのことを、自分は知っている。

 ならば外の視線は、以前ほど恐ろしくない。


 放課後、王宮からの呼び出しが届いた。


 今のアリアには、それが当然のように思えた。

 きっと話すべきことは多い。

 表へ出す順序も、手続きも、今後の立ち方も。


 小会議室へ入ると、レオンハルトはいつも通り静かにそこにいた。

 だが今日ばかりは、その静けさの中にもわずかな熱が見える気がする。


「来たか」


「はい」


 アリアが答えると、レオンハルトは一瞬だけその顔を見て、低く言った。


「今日は、朝からよく見られただろう」


「かなり」


「それでも来たな」


 以前と同じ問いのようでいて、今は少し意味が違う。


 昨夜の言葉を受けたあとでも、ちゃんと今日を歩いた。

 そのことを見ているのだ。


「自分で選びましたから」


 アリアがそう返すと、レオンハルトはごくわずかに目を細めた。


「そうだな」


 短い返答。

 けれど、それだけで胸があたたかくなる。


「今後の段取りについては、少しずつ整える」


 レオンハルトは実務的に話し始めた。


「すぐにすべてを表へ出すわけではない。だが、隠し続けるつもりもない」


「はい」


「君が困る形にはしない」


 その一言に、アリアは静かに息を吸う。


「ありがとうございます」


「礼を言う必要はない」


 そう言ったあと、レオンハルトは少しだけ声を落とした。


「君が自分で選んだのなら、それに見合う形を作るのは私の役目だ」


 その言葉を聞いた瞬間、アリアは胸の奥が静かに満ちるのを感じた。


 もう曖昧な関係ではない。

 まだ正式に全てが宣言されたわけではなくても、二人の中ではもうはっきりと決まっている。


 そしてその先には、王宮内の政治が待っているだろう。

 反対も、嫉妬も、もっと巧妙な悪意も。

 甘いだけでは済まない。


 けれど、それでもいいと思える。


「殿下」


「何だ」


「私が皇太子の隣にいる理由は、もう一つだけではありません」


 レオンハルトが静かに視線を向ける。


「好きだからです」


 まず、それがある。


「でも、それだけではなく」


 アリアは続ける。


「その場所で、あなたの隣で、私自身も立ちたいと思ったからです」


 その言葉に、レオンハルトの瞳の奥がわずかに熱を帯びる。


「なら、それで十分だ」


 やはり返事は短い。

 でも、その短さの中に必要なものは全部ある。


 悪役令嬢として切り捨てられた少女は、ここまで来た。

 ただ守られるだけの存在ではなく、自分の意志で隣を選ぶ女として。


 皇太子の隣にいる理由。

 それはもう、誰かが勝手につける物語ではない。


 アリア自身が選んだ、たった一つの答えだった。

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