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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第67話 名を与えられる夜

 その夜、王宮の空気はやけに静かだった。


 大広間のような華やかさはない。

 晩餐や茶会のざわめきもない。

 ただ、夜の深まりとともに、回廊の灯りが少しずつやわらかくなっていく。


 アリアは、レオンハルトに手を取られたまま、その静けさの中にいた。


 差し出された手を、自分から取った。

 それだけなのに、胸の奥の熱は今までで一番深い。


 もう後には引けない。

 いや、引きたくない。

 そう思える自分がいることが、何より大きかった。


 小さな応接室の中で、二人の距離は近い。

 窓の外には夜の庭園。

 風に揺れる木々の影が、硝子越しにゆっくりと動く。


「君から来るとは思っていた」


 レオンハルトが言う。


「でも、今日だとは思っていなかった」


 その言葉に、アリアは少しだけ驚く。


「そうなのですか」


「もう少し長く迷うかと思っていた」


「……私も、そう思っておりました」


 正直に返すと、レオンハルトはわずかに目を細めた。


「だが来た」


「はい」


「それだけで十分だ」


 その“十分”が、今夜はいっそう重く響く。


 アリアはゆっくりと息を吸った。


「殿下は、次はきちんと言うとおっしゃいました」


「ああ」


 低い返答。

 その一音だけで、胸が強く鳴る。


 レオンハルトは視線を逸らさなかった。

 いつもなら言葉を切り詰める人が、今夜は妙に静かに間を取る。


「君を悪役令嬢のままで終わらせるつもりはなかった」


 その始まりに、アリアは少しだけ目を見開く。


 それは、すべての原点だった。


「最初は違和感だった」


 レオンハルトはゆっくりと言葉を置いていく。


「印象ではなく、事実を拾えば、君がやったようには見えなかった」


 悪役令嬢として断罪された夜。

 あの時、唯一別のものを見ていた人の声だ。


「だが、それだけでは終わらなかった」


 アリアの手を包む指に、わずかに力がこもる。


「君は、傷を抱えても立った。切り捨てられても、潰れなかった。守られるだけの位置で満足せず、自分の意志で隣へ来た」


 その一つひとつが、自分の歩いてきた道だった。


 悪役令嬢の汚名。

 婚約破棄。

 王宮の値踏み。

 小さな悪意。

 それでも、自分は立ってきた。


 レオンハルトはそれを、ちゃんと見ていたのだ。


「だから」


 低く、はっきりとした声。


「私は、君に名を与えたい」


 胸が、大きく鳴る。


 名を与える。

 それは、ただ好きだと言うよりもずっと重い。

 王宮で、社交界で、これから先も続く立場の名前だ。


 婚約。

 その含みを、曖昧にせずに口にしている。


「君を、私の正式な婚約者候補としてではなく」


 アリアは息を呑む。


 候補ではなく。

 その続きが何か、もう分かっているのに。


「私の婚約者として迎えるつもりだ」


 その瞬間、部屋の空気が静かに止まったように感じた。


 ついに、言われた。


 曖昧ではない形で。

 逃げ道のない、けれどどこまでも真っ直ぐな言葉で。


 アリアはしばらく何も言えなかった。


 嬉しい。

 胸が苦しいほど。

 それと同時に、その言葉の重さが、静かに身体へ沈んでいく。


「もちろん」


 レオンハルトは続ける。


「王家としての手続きも、宮中の整理も必要だ。明日すべてが変わるわけではない」


 現実もきちんと含めて言うところが、この人らしい。


「だが、私の意思はもう決まっている」


 その一言が、アリアの目の奥をじんと熱くした。


 待っていた。

 怖かった。

 でも、ずっと聞きたかった。


「……殿下」


 ようやく呼ぶと、声が少しだけ震えた。


「何だ」


「そんな言い方をされると、私……」


 言葉が詰まる。

 感情が追いつかない。

 嬉しさも、責任も、安心も、全部が一緒に来てしまう。


 レオンハルトは急かさなかった。

 ただ待っている。


 その待つ姿勢が、今夜ばかりはひどくやさしい。


「……泣いてしまいそうです」


 正直にそう言うと、彼の目がわずかにやわらいだ。


「泣け」


 短く、しかし迷いなく言う。


「今夜くらいは、構わない」


 その一言に、アリアはとうとう小さく笑ってしまった。

 泣きそうなのに、笑いたくもなる。

 この人は本当に、そういう時にそういうことを言う。


「おかしな方です」


「今さらだな」


「ええ。今さらです」


 少しだけ息を整え、それからアリアはまっすぐに彼を見た。


「私も、もう決まっています」


 レオンハルトの視線が静かに深くなる。


「私は、選ばれたからここにいるのではありません」


 以前から何度も言ってきたこと。

 でも今夜は、その続きがある。


「私は、自分であなたを選びました」


 声は、もう震えていなかった。


「だから、あなたがそう望んでくださるなら」


 一歩だけ、アリアは自分から距離を詰める。


「私は、その名を受けます」


 婚約者。

 その言葉自体はまだ口にしていない。

 けれど意味は十分すぎるほど明らかだった。


 レオンハルトはしばらく黙っていた。

 それから、ひどく静かな声で言った。


「……ようやく、受け取れた」


 その言葉の中に、待った時間の長さと、抑えていた熱の全部が滲んでいた。


 次の瞬間、彼の手がアリアの指をより確かに包み込む。


 抱き寄せるわけではない。

 だが、その手の重みは明らかに今までと違った。

 もう曖昧な距離へ戻さないと告げるような確かさ。


 アリアはその熱に、目を伏せる。


 名を与えられる夜。

 それは、想像していたより静かで、けれど想像していたよりずっと深かった。

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