第64話 好きだけでは足りない
その夜、アリア・フォン・ルーヴェルトは、自室の窓辺に立ったまま長いこと動けなかった。
王宮の応接室で交わした会話が、静かな余韻を伴って胸の奥に残り続けている。
――今の関係を、曖昧なまま長く置くつもりはない。
――君が選ぶと決めたなら、今度は私が曖昧にはしない。
――迷っていること自体は、もう答えに近い。
どの言葉も、あまりに真っ直ぐで、逃げ道がない。
けれど押しつけでもなかった。
待つ、と彼は言った。
長くは曖昧にしないが、今ここで無理に“はい”を言わせるつもりもない。
その距離の取り方が、いかにもレオンハルトらしくて、そしてどこまでも優しかった。
だからこそ、アリアは自分の心から目をそらせなくなっていた。
「……好きなのだわ」
誰もいない部屋で、小さくそう呟く。
今さら確認するまでもないことなのかもしれない。
もうずいぶん前から、自分の心はあの人へ傾いていた。
悪役令嬢の汚名を着せられた時、誰より早く違和感に気づいてくれたこと。
自分の言葉を、印象より先に聞こうとしてくれたこと。
傷があることと、立てないことは別だと言ってくれたこと。
そして今も、隣へ行くかどうかを、自分の意志として問うてくれること。
その全部が、どうしようもなく嬉しかった。
好きだ。
それはもう認めるしかない。
けれど――。
「それだけでは、足りないわ」
今度の言葉は、胸へ少し重く落ちた。
たしかに好きだ。
彼の隣は安心する。
見つけてもらえることも、支えてもらえることも、もう失いたくないと思う。
でも、好きだからといって、そのまま“はい”と言ってしまっていいのだろうか。
相手は第一皇太子だ。
その隣は、恋をしているだけで立てる場所ではない。
社交界も王宮も、すでにそう教えてきた。
悪意も、値踏みも、責任も、全部そこにはついてくる。
好きだという感情は本物だ。
けれど、それだけでは足りない。
そう思ってしまうのは、たぶん自分がまだ臆病だからではなく、ようやくその重さを理解し始めたからだろう。
翌朝、鏡の前で髪を整えられながらも、アリアの頭の中はそればかりだった。
「お嬢様、本日は少しお疲れですか?」
リナが控えめに尋ねる。
「顔に出ている?」
「ほんの少し、考え込んでおられるように」
アリアは小さく苦笑した。
「考え込んでいるのはその通りね」
「殿下のことですか」
あまりにも自然に言われて、アリアは鏡越しにリナを見た。
「……分かるのね」
「最近のお嬢様は、王宮からお戻りになると大体そのようなお顔です」
否定できない。
リナはそれ以上深くは聞かなかった。
けれど、その沈黙が逆にありがたい。
朝食の席で、クラウディアは娘の様子をひと目で察したらしい。
「昨夜、眠れなかったわね」
「……はい」
「考え事?」
「ええ」
母は紅茶を口へ運び、それから静かに言った。
「好きだけでは足りない、と思っている顔だわ」
アリアは手にしていたカップを危うく滑らせそうになった。
「お母様……」
「違うの?」
あまりにもまっすぐだ。
アリアはしばらく答えられずにいたが、やがて観念したように小さく頷く。
「……違いません」
クラウディアはそれを聞いても驚いた顔をしなかった。
当然だと言うように、ただ視線を向ける。
「それでいいのよ」
「いいのですか?」
「ええ。好きだという気持ちだけで突っ走るより、ずっといい」
その返答に、アリアは少しだけ肩の力を抜いた。
「でも、もしその慎重さが“だから行けない”になるなら、別の話だけれど」
「そこなのです」
アリアは静かに言った。
「私はもう、あの方の隣へ行きたいと思っています。でも、その気持ちだけで“はい”と言ってしまうのは、無責任な気がして」
クラウディアは黙って聞いている。
「王宮での役目も、貴婦人たちの視線も、全部見ました。これからもっと重くなることも分かります。それでも、好きだから行きます、で済ませてよいものなのかと……」
そこまで言って、アリアはようやく自分の苦しさの正体をはっきり掴んだ。
恋をしている。
でも、それを免罪符にしたくないのだ。
クラウディアは少しだけ考えてから、静かに言った。
「あなたは、恋と責任を別のものだと思っているのね」
「違うのですか」
「半分は違うし、半分は同じよ」
その言い方に、アリアは目を瞬いた。
「好きだからこそ、その人の隣で無責任ではいたくないと思うのでしょう?」
母の声は落ち着いている。
「それなら、それはもう恋と責任が別々ではない証拠よ」
胸の中で、何かが少しだけほどける。
「好きだから軽くなるのではなく、好きだから重く受け止める。あなたは今、そこにいるのだと思うわ」
その言葉は、アリアにとって大きかった。
好きだけでは足りない。
そう思っていた。
でももしかしたら、好きだからこそ責任から逃げたくないのかもしれない。
ただ甘くなりたいのではない。
ただ選ばれたいのでもない。
好きだからこそ、ちゃんと隣へ立てる形で選びたい。
それなら、この葛藤そのものが、もう答えに近いのではないか。
「……少し、分かった気がします」
アリアがそう言うと、クラウディアはわずかに目元をやわらげた。
「そう。なら、そのままもう少し考えなさい」
「はい」
「でも、あまり考えすぎて、肝心の気持ちまで痩せさせないこと」
その忠告に、アリアは小さく笑った。
肝心の気持ち。
たしかに、自分はそこを理屈で押し固めすぎる癖がある。
昼過ぎ、王宮へ出向く予定はなかった。
けれど、机に向かって本を開いても、文字が頭へ入ってこない。
心はずっと、同じところを巡っている。
好きだ。
でも、それだけでは足りない。
いや、好きだからこそ足りない部分を埋めようとしているのかもしれない。
その答えを、誰かにそのまま話せたら楽なのだろうか。
そう考えて、真っ先に浮かぶ顔がレオンハルトであることに、アリアは少しだけ苦く笑った。
当人に相談したところで、余計に心を乱すだけかもしれない。
けれど、それでも話したいと思ってしまうのが困る。
夕方になって、窓の外がやわらかな橙色へ変わった頃、短い書状が届いた。
『無理でなければ来い』
レオンハルトからだった。
無理でなければ。
その一文のせいで、断りにくいのか、むしろ行きやすいのか、自分でも分からない。
アリアはしばらくその書状を見つめ、やがて立ち上がった。
答えが出たわけではない。
むしろ、まだ揺れている。
けれど、今の揺れごと持っていってもいいのだと思えた。
王宮の小会議室へ入ると、レオンハルトは書類から目を上げた。
「来たか」
「はい」
それだけの挨拶なのに、少しだけ胸が落ち着く。
「顔が違うな」
いきなり核心だった。
「……どう違うのですか」
「迷っている顔だ」
また、見抜かれる。
アリアは少しだけ目を伏せ、それから正直に言った。
「昨夜から、同じことばかり考えております」
「何を」
「私は、殿下が好きです」
言ってしまってから、自分で息を呑んだ。
あまりにもまっすぐすぎた。
こんなふうに最初から言うつもりではなかったのに。
だがレオンハルトは驚きもせず、ただ静かに聞いている。
「でも」
アリアは続けた。
「好きだという気持ちだけで、“はい”と言ってしまうのは違う気がするのです」
そこまで口にすると、もう止まらなかった。
「私は、あの方の隣へ行きたい。でも、その重さを知り始めた今、好きだから行きます、で済ませるのは無責任ではないかと思ってしまうのです」
レオンハルトは少しだけ黙ったあと、低く言った。
「それは無責任ではない」
アリアは顔を上げる。
「え……」
「好きだから行きたい。だからこそ、その先の責任も考える。何もおかしくない」
その言葉は、今朝クラウディアに言われたこととほとんど同じだった。
だが、本人の口から聞くと、また違う重みがある。
「むしろ、何も考えずに“はい”と言われる方が困る」
その一言に、アリアは少しだけ目を見開いた。
「困る、のですか」
「当然だ」
レオンハルトは淡々と続ける。
「君がその重さを理解した上で来るのでなければ、私は意味がない」
胸の奥が熱くなる。
意味がない。
厳しいようでいて、それはつまり“軽い気持ちの人間は求めていない”ということだ。
自分が今こうして迷っていることすら、この人は否定しない。
「……殿下は、本当に」
「何だ」
「逃がしてくださらないのですね」
半分は冗談めかしたつもりだった。
だが、声は少し震えていたかもしれない。
レオンハルトはわずかに目を細める。
「逃げたいのか」
その問いに、アリアはしばらく答えられなかった。
逃げたい。
楽になりたい。
そう思う瞬間がゼロではない。
けれど、心の深いところでは違う。
「……いいえ」
やがて、静かに首を振る。
「逃げたくはありません」
「なら、それで十分だ」
その一言が、今のアリアには何よりも強かった。
好きだけでは足りない。
でも、好きだからこそ責任から逃げたくない。
そう思う自分を、この人は受け止める。
それならきっと、もう答えはかなり近くにある。




