第63話 名前を与える前に
“隣に立つ資格を自分で作り始めている”
その言葉は、アリアの中に長く残った。
王宮からの帰り道、馬車の揺れの中でも。
自室でドレスの紐を解かれる間も。
夜、ひとりで窓辺に立ち、王都の灯りを見つめる時も。
資格。
その言葉は重い。
けれど、重いだけではなかった。
これまでの自分は、“相応しいかどうか”を周囲に測られるばかりだった。
悪役令嬢として断じられた時も。
皇太子の隣へ置かれた後も。
誰かの目が、自分の価値を決めるように感じていた。
けれど今は少し違う。
自分で作り始めている、と言われた。
それはつまり、“相応しいかどうか”をただ裁かれるだけではなく、自分の足で近づけるということだ。
その実感は、思っていた以上に大きかった。
数日後、王宮の小規模な晩餐が終わったあとのことだった。
招かれた顔ぶれは限られており、表向きは穏やかな会食に見える。だが実際には、王宮にどの家をどの程度近づけるかを測るような場でもある。
アリアはその席を大きな失敗なく終えた。
もちろん疲れた。
けれど、以前のような“飲み込まれた”疲れではない。
きちんと立って、役目を果たし、最後まで保てた疲れだ。
会が終わり、控えの間に戻ろうとしたところで、ユリウスが静かに声をかけてきた。
「ルーヴェルト嬢」
「はい」
「殿下がお呼びです」
呼ばれた先は、いつもの小会議室ではなかった。
本宮の奥へ続く回廊をいくつか折れた先、夜はほとんど人の通らぬ、小さな応接室だった。
王宮の中でありながら、妙に静かな場所。
明かりも抑えめで、窓の外には夜の庭園が見える。
扉を開けると、レオンハルトはすでにそこにいた。
「来たか」
「はい」
アリアは扉を閉め、少しだけ呼吸を整えてから近づいた。
「今日の席は、落ち着いておりましたね」
自分からそう切り出すと、レオンハルトはわずかに目を細めた。
「自分でもそう思うか」
「……少しだけ」
「少しか」
いつもの応酬。
だが今夜は、それが不思議と少しだけやわらかい。
レオンハルトは窓辺へ視線をやったまま言う。
「王宮内の見方も、少し変わった」
アリアの胸が小さく鳴る。
「はい。私もそう感じます」
「感じるだけでなく、もう実際に変わっている」
その断言が、夜の静かな部屋に落ちた。
「だからこそ」
レオンハルトはそこで、ようやくアリアの方を見た。
「今の関係を、曖昧なまま長く置くつもりはない」
アリアは息を呑んだ。
その一言が何を意味するのか、分からぬほど子どもではない。
名付けられない関係。
まだ正式ではない近さ。
それを、この人は長く続けるつもりがないと言う。
「……殿下」
「周囲が騒ぐからではない」
レオンハルトは静かに続ける。
「私自身が、そうしたくない」
胸の奥が熱を持つ。
王宮の事情でも、社交界の圧でもない。
この人自身が、曖昧なままではいたくないと。
それは、思っていた以上にまっすぐな言葉だった。
「だが」
そこで、レオンハルトは少しだけ声を落とした。
「その前に、最後に確認したい」
アリアはまっすぐ彼を見る。
「何を、ですか」
「君の覚悟だ」
その言葉の重さに、呼吸が浅くなる。
もちろん、これまでだって何度も覚悟は問われてきた。
逃げないのか。
怖くても立つのか。
選ばれるだけでなく自分で選ぶのか。
だが今夜のそれは、今までとは違う。
もっとはっきりと、もっと決定的な一歩の手前にある問いだ。
「私は君を急かしたくはない」
レオンハルトは言う。
「だが、待つだけでいる気もない」
その言葉が、以前よりさらに近く響く。
「君がまだ、自分の足でその場所を選び切れないなら、私はここで止まる」
止まる。
その一語に、アリアの胸がきゅっと縮む。
「でも、君が選ぶと決めたなら」
部屋の静けさが深くなる。
「今度は、私が曖昧にはしない」
その瞬間、アリアは自分の鼓動が一段強く鳴るのを感じた。
曖昧にはしない。
つまり、この先にあるのは、もうきちんとした名前なのだ。
婚約。
あるいは、それに準ずる明確な宣言。
ここまで来て、それを恐れないわけがない。
けれど同時に、その言葉を待っていた自分もいる。
「……私、まだ」
ようやく絞り出した声は、思っていたより小さかった。
「まだ、完全に怖くなくなったわけではありません」
「そうだろうな」
「でも、怖くないから行くのではないのだとも、分かっています」
レオンハルトは何も言わずに聞いている。
「私は……殿下の隣が、もう特別でないとは言えません」
胸が熱い。
言葉にするたび、自分の心がどこまで傾いているかを自覚させられる。
「でも、それを名前のあるものにするということが、どれだけ重いかも、少しずつ分かってきています」
それは本音だった。
ただ好きだというだけでは、王宮の隣には立てない。
責任も、立場も、視線も、全部ついてくる。
それでもなお、その先を考えてしまうほど、この人のことを――。
「……まだ、はいとは言えません」
正直にそう言うと、レオンハルトの瞳が少しだけやわらいだ。
「それでいい」
即答だった。
アリアは少し驚く。
「いいのですか」
「今、無理に言わせても意味がない」
その返しが、この人らしい。
「だが」
低い声が続く。
「君が迷っていること自体は、もう答えに近い」
その一言に、アリアは思わず目を見開いた。
迷っていること自体が答えに近い。
そうかもしれない。
どうでもよい相手や未来なら、ここまで揺れたりはしない。
怖さも、責任も、全部ひっくるめて考えてしまうのは、それだけ大きいからだ。
「……ずるいです」
思わず漏らすと、レオンハルトの口元がかすかに動く。
「またか」
「はい。またです」
「君はその評価が好きだな」
「違います。殿下がそういうお方なのです」
少しだけ肩の力が抜ける。
それはたぶん、彼が“まだ待つ”と言ってくれたからだろう。
名を与える前に。
その手前で、ちゃんと自分の覚悟を確認させてくれる。
そのことが、ひどくありがたかった。
「……もう少しだけ、考えてもよろしいでしょうか」
アリアがそう問うと、レオンハルトは静かに頷いた。
「構わない」
「でも」
アリアは少しだけ息を整える。
「長くは、お待たせしたくありません」
その言葉に、レオンハルトの瞳の奥がほんの少しだけ熱を帯びた。
「なら、私は待つ」
短く、しかし確かな返答。
その一言が、アリアの胸へまっすぐ落ちる。
曖昧なまま長く置くつもりはない。
だが、今この瞬間は待つ。
その意志の強さが、どうしようもなく嬉しくて、少しだけ苦しい。
名前を与える前に。
今夜は、その直前の静けさを確かめる夜だった。




