第62話 隣に立つ資格
王宮の空気は、時に学園よりもずっと露骨だ。
ただしその露骨さは、若い令嬢たちのような分かりやすい嫉妬や囁きではない。もっと静かで、もっと見えにくい。だからこそ、一度流れが変わると、その変化もまた音もなく広がっていく。
アリア・フォン・ルーヴェルトは、それをこの数日の王宮で、はっきりと感じ始めていた。
歓迎の夕べに向けた準備の中で、彼女は小さな綻びを何度も見つけ、騒がず、しかし見逃さずに整えてきた。誰かを表立って糾弾することはしなかったが、流されることもしなかった。
その結果、王宮内の一部の見方が少しずつ変わっている。
それは、ある日の午前、王宮奥の小回廊で、女官たちの会話がふと耳に入った時に分かった。
「ルーヴェルト嬢、思ったよりずっと落ち着いていらっしゃるわ」
「ええ。若いからもっと危ういかと思っていたけれど」
「細かな確認も自分でなさるし、あれなら現場は助かるでしょうね」
「少なくとも、ただ“皇太子殿下のお気に入り”というだけではないわ」
アリアは足を止めなかった。
聞こえないふりをして、そのまま歩いた。
けれど、胸の奥には確かな熱が灯っていた。
ただ気に入られているだけではない。
その評価は、今の彼女にとって何より大きかった。
悪役令嬢として噂された頃、自分は中身ではなく印象だけで決めつけられた。
皇太子の隣へ置かれた後も、周囲は“誰に選ばれたか”ばかりを見ていた。
だが今、ようやく一部の人間が、自分の立ち方そのものを見始めている。
それがこんなにも救いになるとは思わなかった。
その日の午後、王宮の小サロンで再び年長の貴婦人たちと顔を合わせる場があった。
以前なら、その招待だけで少し気が重くなっただろう。
ヴァルモン公爵夫人の冷ややかな眼差し。
穏やかな微笑みの裏にある値踏み。
それらを思い出すだけで、背筋が固くなったはずだ。
けれど今日は違った。
怖くないわけではない。
それでも、ただ“試される若い娘”として行くのではない感覚がある。
サロンへ入ると、夫人たちはやはり上品な笑みで迎えた。
だがその中で、ルヴァリエ侯爵夫人が最初に向けた言葉は、以前とは少し違っていた。
「ごきげんよう、ルーヴェルト嬢」
「ごきげんよう、侯爵夫人」
「先日の件、聞いておりますわ。女官たちも助かったと申しておりました」
アリアは一瞬だけ目を瞬いた。
直接来た。
遠回しな褒め方ではなく、具体的に。
「恐れ入ります」
「恐れ入る必要はありませんのよ」
侯爵夫人は、扇を膝に置いたまま穏やかに言う。
「小さな混乱ほど、後で大きく響きますもの。そこへ気づける方は貴重ですわ」
その言葉に、周囲の夫人たちの視線もわずかに変わる。
全員が一斉に味方になったわけではない。
けれど、少なくとも“見方を変える価値があるかもしれない”と思い始めている空気があった。
アリアは静かに礼を返す。
「現場の皆様が動いてくださったからです」
「それでも、最初に乱れへ気づく目は必要ですもの」
今度は年長の伯爵夫人が言った。
「何も知らぬまま“あとは任せます”と立っているだけの娘も多いのですから」
その言い方に、アリアはほんの少しだけ胸の奥があたたかくなる。
立っているだけの娘ではない。
そう見られ始めているのだ。
しかし、もちろん全員が好意的というわけではない。
ヴァルモン公爵夫人は相変わらず穏やかな笑みを崩さず、しかし温度のない声で言った。
「たしかに気は利くのでしょうね。でも、気が利くことと、皇太子殿下の隣に立つ資格があることは、また別の話ではなくて?」
場の空気がほんのわずかに張る。
以前より直接的ではない。
だがその分、言葉はよりはっきりと本質を突いてくる。
隣に立つ資格。
そこが、いま王宮の女たちが最も見ている部分なのだろう。
アリアは一拍だけ息を整えた。
「ええ。別の話だと思います」
はっきりそう答えると、ヴァルモン公爵夫人の目が少しだけ細くなる。
「ほう?」
「気が利くことだけで、その資格が得られるとは思っておりません」
アリアは続けた。
「ですが、役目を果たせるかどうかも、その資格を考える上では無関係ではないとも思っております」
サロンの空気が静かに揺れた。
謙遜しすぎない。
自分を過大にも語らない。
けれど、“ただ選ばれたからそこへ行くわけではない”という意思だけははっきり示す。
それが今のアリアにできる最も誠実な返しだった。
ヴァルモン公爵夫人はそれを聞いて、ほんの一瞬だけ沈黙した。
「……ずいぶん、言葉が変わったのね」
その一言は、嫌味とも感心とも取れる。
アリアは視線をそらさなかった。
「私も、少しずつ変わっているのかもしれません」
そう答えると、ルヴァリエ侯爵夫人が小さく笑った。
「それでよろしいのではなくて? 最初から完成している娘の方が、むしろ気味が悪いもの」
その何気ない一言が、場の空気を少しだけ和らげた。
結局その日の茶会は、以前よりはるかに消耗が少なかった。
もちろん緊張はした。
値踏みもされた。
けれど、それだけではなかった。
見方が変わり始めている。
少なくとも一部は。
その感触が、アリアにとって何より大きかった。
帰り際、サロンを出たところで、ルヴァリエ侯爵夫人がさりげなく近寄ってきた。
「ルーヴェルト嬢」
「はい」
「一つだけ忠告しておきますわ」
侯爵夫人は声を潜める。
「認め始める者が増えると、今度は別の形で足を引かれます」
アリアの胸がわずかに冷える。
「別の形……」
「ええ。今までは“若くて未熟”で済んだものが、これからは“だからこそ潰せる”に変わるのです」
その言葉には、貴婦人らしい現実があった。
「でも」
侯爵夫人は最後に、少しだけやわらかく目元を和らげた。
「あなたはもう、“ただ守られている娘”ではないようですわね」
その一言を残して、夫人は去っていった。
アリアはしばらく、その場で動けなかった。
ただ守られている娘ではない。
それは、今までずっと欲しかった評価だったのかもしれない。
小会議室へ呼ばれたのは、その直後だった。
レオンハルトはいつものように机の前に立ち、アリアが入ってくるとごく短く目を上げた。
「何かあったな」
もはやこの人は、それしか言わないのではないかと思う。
だが、それが少しだけ嬉しい自分がいる。
「今日は……少しだけ、違いました」
「どう違う」
アリアはサロンでのやり取りをかいつまんで伝えた。
ルヴァリエ侯爵夫人の言葉。
ヴァルモン公爵夫人の問い。
そして“ただ守られている娘ではない”と言われたこと。
話し終えるまで、レオンハルトは一度も口を挟まなかった。
やがて、短く言う。
「そうなると思っていた」
「そうなのですか」
「小さな役目をこなし、騒がず切り返した」
レオンハルトの声は低く落ち着いている。
「それを見れば、評価を変える者は出る」
その言葉は当然のようでいて、どこか誇張がないからこそ信じられる。
「……嬉しかったです」
アリアは小さく言った。
「そう言われたことが」
「だろうな」
「殿下には、最初からそう見えていたのでしょうか」
問いかけると、レオンハルトはほんの少しだけ間を置いた。
「最初から、とは言わない」
意外な答えだった。
「え?」
「君がそこまで来るかは、君自身次第だった」
アリアは言葉を失う。
最初から決まっていたわけではない。
自分が選び、立ち、切り返してきたから、今がある。
そのことを、この人はこういう形で突きつけてくる。
「だが今は違う」
レオンハルトの視線がまっすぐ落ちる。
「君は、隣に立つ資格を自分で作り始めている」
その一言が、胸の奥深くへ落ちた。
資格。
誰かに与えられるものではなく。
自分で作り始めている。
悪役令嬢と呼ばれていた頃の自分には、想像もできなかった言葉だ。
「……まだ、途中です」
ようやくそう返すと、レオンハルトは小さく頷く。
「当然だ」
その当然という一言が、今のアリアにはやけにやさしい。
途中でいい。
完成していなくていい。
けれど、もうそこへ向かって歩いている。
その実感が、アリアの中へ静かに広がっていった。




