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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第58話 過去は、もう戻らない

 王宮の回廊で、セドリック・ヴァルディスはしばらくその場を動けずにいた。


 レオンハルトと並ぶアリアの背が、ゆっくりと視界の向こうへ消えていく。

 追いかけることはできない。

 呼び止めることもできない。

 そんな権利は、もう自分の手の中には欠片も残っていないのだと、ようやく頭だけでなく身体でも理解し始めていた。


「殿下」


 近習が再び声をかける。


「冷えます。お戻りになられた方が」


 セドリックは返事をするまでに少し時間がかかった。

 冷えているのは、外気のせいだけではない。


「……そうだな」


 ようやくそう返し、彼は歩き出した。

 だが足は重かった。


 重いのは後悔だけではない。

 自分が今まで“まだ何かあるかもしれない”と思っていた、見苦しい未練が、ようやく本当に終わったことを知ってしまったからだ。


 戻らない。

 もう戻らない。

 それは以前、アリア自身の口から聞いた。

 それでも心のどこかでは、“それでもまだ”と思っていたのだろう。


 だが今夜、彼女は自分の意志でレオンハルトの隣へいた。

 連れて行かれたのではない。

 守られるだけでもない。

 自分で選んで、あそこに立っていた。


 その事実が、セドリックの中の最後の幻想を、静かに、だが完全に壊していた。


 自室へ戻る途中、曲がり角の先で数人の貴族男性の会話が耳に入る。


「これは、もう決まりに近いでしょう」

「正式発表はまだでも、あそこまで示されれば」

「第二王子殿下の件があったからこそ、なおさらはっきり見せたのかもしれませんな」


 その“第二王子殿下”が自分のことだと分かっていても、彼らは気づいていないのか、それとも気づいていてなお止めないのか、声を潜めはしなかった。


 セドリックは立ち止まらない。

 止まれば、その会話を聞いていたことが相手にも伝わる。

 そして今の自分には、そこへ怒る資格もなかった。


 部屋へ戻ると、ようやく一人になれるはずだった。

 だが現実は、そう甘くない。


 しばらくして、王族付きの年配侍従が訪れたのだ。


「第二王子殿下、お時間を頂戴しても」


 その声音だけで、ろくな話ではないと分かる。

 セドリックは短く頷き、椅子へ腰を下ろした。


「何だ」


「本日の件に関しまして、宮中でも様々な見方が出ております」


 やはりそう来るか、と内心で思う。


「それで?」


「以前の婚約破棄の件について、あらためて殿下の判断は軽率であったとの見方が強まっております」


 真っ直ぐだ。

 回りくどさもない。


 セドリックは一瞬だけ目を閉じた。


「……そうだろうな」


 侍従は少しだけ言葉を選ぶように間を置き、それでも続けた。


「王家の名を背負う者として、私情や一時の印象で動いたと見られれば、それは長く尾を引きます」


「分かっている」


「本当にお分かりなら、今後はもう、ルーヴェルト嬢への私的接触はお控えください」


 その一言が、思っていた以上に深く刺さった。


 王家の侍従に、そこまではっきり言われる。

 つまり、もう宮中ですら“あなたが近づくこと自体が余計な波を立てる”と判断しているのだ。


 セドリックは苦く笑うしかなかった。


「……そこまでか」


「そこまで、でございます」


 否定も慰めもない。

 ただ事実だけを告げられる。


 侍従が去ったあと、部屋の静けさが急に重くなった。


 セドリックは窓辺へ立ち、夜の王宮を見下ろす。

 灯りの連なる回廊。

 遠くの庭園。

 さきほど、アリアがいた場所もどこかにあるのだろう。


 もう戻らない。

 あの頃へも。

 婚約者として当然のように隣へいた関係にも。

 自分が選ぶ側だと思っていた日々にも。


 それでも、心の奥に残る後悔だけは消えない。


 なぜ、あの時話を聞かなかったのか。

 なぜ、泣かなかった彼女の痛みを見ようとしなかったのか。

 なぜ、自分の正義に酔っていたのか。


 答えは、もう分かっている。

 自分が未熟だったのだ。

 王子という立場に酔い、守るべき者と切り捨ててもよい者を、自分の都合で選んでいた。


 その未熟さの代償が、今だ。


 翌日、王立学園でもその空気は少しもやわらがなかった。


 アリアが廊下を歩く。

 その少し後ろに、エレノアがいる。

 以前なら視線の中心に自分がいた場面で、今は誰もセドリックへ注意を向けない。


 向けられるのは、あくまでアリアだ。

 皇太子の隣へ立つ令嬢として。

 そして、その位置を自分で選んだ女として。


 セドリックは遠目にその姿を見ていた。


 彼女は前より強く見える。

 いや、強くなったというより、“自分の足で立っている”ように見えるのだ。


 その変化を、自分はもう外から見ることしかできない。


 ふと、アリアが誰かの呼びかけに振り向いた。

 その横顔には、もう自分へ向けるための揺れがない。

 それがはっきり分かった瞬間、セドリックは自分の中で最後の迷いが完全に折れるのを感じた。


 終わったのだ。


 もう“もしかしたら”はない。

 彼女は過去を振り返っていない。

 そして自分もまた、いつまでもその過去へすがることは許されない。


「殿下」


 今度は学園付きの側近が声をかけてくる。


「午後の視察の件ですが」


「ああ」


 セドリックは視線をようやくアリアから外した。


 これから先、王族としてやるべき仕事は山ほどある。

 後悔が消えなくても、立場は消えない。

 それが王家の人間であるということだ。


 それでも、心の奥に残るものだけは認めておくしかない。


 過去は、もう戻らない。

 そしてそれは、自分自身の手で壊した過去なのだと。

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