第57話 遅れてしまった王子の視線
第二王子セドリック・ヴァルディスは、王宮の一角からその光景を見ていた。
広間に続く回廊。
柔らかな灯り。
低く交わされる笑い声。
その中で、レオンハルトとアリアが並んで立っている。
ただ立っているだけだ。
触れているわけではない。
あからさまに親密な仕草もない。
なのに、そこにはもう、他の誰も入り込めぬ静かな近さがあった。
セドリックはその場から動けなかった。
少し前までなら、自分が近づけば空気が変わっただろう。
第二王子として、元婚約者として、まだどこかに余地があると思っていた時期もある。
だが今は違う。
アリアは、もう自分の方を見ていない。
それどころか、見なくなったことが自然になりつつある。
それが、何より堪えた。
「殿下」
近習がそっと声をかける。
だがセドリックはすぐには返事をしなかった。
遠目に見ても分かる。
アリアの表情が違う。
かつて自分と並んでいた頃の彼女は、もっと硬かった。
気丈で、きちんとしていて、完璧で、どこか張りつめていた。
今もそうした芯は変わっていない。けれど、レオンハルトの前では、その硬さの下にあるやわらかさが少しだけ見えるのだ。
それがたまらなく遅かった。
自分は、あんな顔を引き出したことがあっただろうか。
いや、ない。
気づこうとすらしなかった。
信じてほしいと必死に言っていた時、こちらは“冷たい女だ”としか見なかった。
泣かないから大丈夫なのだと勝手に決めた。
そして切り捨てた。
その結果が、今のこの距離だ。
「……見なくてもいい光景というものはあるのだな」
思わず漏れた言葉に、近習が困ったように黙り込む。
返しようがないのだろう。
セドリックは自嘲気味に息を吐いた。
見たくない。
だが、目をそらせない。
見てしまうからこそ、自分がどれだけ遅かったかを突きつけられる。
レオンハルトは、派手に奪ったわけではない。
だが確実に、静かに、アリアの隣を自分の場所にしていった。
庇う。
信じる。
待つ。
そして、必要な時には強引に前へ出す。
その一つひとつは、自分が本来やるべきだったことではないのか。
「殿下」
近習が再び控えめに呼ぶ。
「お戻りになりますか」
セドリックは一度だけ目を閉じた。
「……いや。もう少しだけ」
何のために、と自分でも思う。
見ていて楽になることなど一つもない。
それでも、目を離したくないのは、もうそこに自分のいない物語があるからだろう。
アリアは、とうとう自分の手の届かないところまで行ってしまった。
いや、本当はもっと前から届かなかったのかもしれない。
気づかなかったのは、自分の方だ。
やがてレオンハルトがわずかに身を傾け、アリアへ何かを告げる。
アリアは一瞬だけ目を見開き、それから小さく、だがやわらかく笑った。
その笑みが、セドリックにはひどく眩しかった。
向けられたことのない笑みだ。
いや、向けられていたことがあったとしても、自分は見落としていたのだろう。
失ってから気づく。
あまりにもありふれた敗北だった。
「……もう、本当に終わったのだな」
今度の言葉は、独り言というより確認だった。
アリアが戻ることはない。
たとえ自分が後悔しようと、謝ろうと、“もし”を並べようと、もう何も変わらない。
しかも今の彼女は、ただ皇太子に選ばれて連れて行かれたわけではない。
自分で選んで、彼の隣へ行った。
そこが決定的だった。
セドリックは拳を握る。
悔しさもある。
後悔もある。
自分が踏み外した瞬間への怒りすらある。
だがそれ以上に、どうしようもない空虚が残った。
この物語に、自分の出番はもうない。
それだけは、認めるしかなかった。
遠くで、アリアとレオンハルトがゆっくりと歩き出す。
その背を見送るしかない自分がいる。
遅れてしまった王子。
それが今の自分に最もふさわしい呼び名なのだろうと、セドリックは苦く思った。




