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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第56話 まだ名付けられない関係

 夜の庭園でのことを見られた翌日から、王都の空気は明らかに変わっていた。


 それはもう、“仲が良いらしい”という程度の噂ではない。

 もっと踏み込んだ、けれどまだ決定打には届かない、じれったい熱を帯びている。


 ――正式な婚約ではない。

 ――けれど、ただの庇護でもない。

 ――では、今のあの二人は何なのか。


 社交界も学園も、その答えを欲しがっていた。


 けれど、その答えをいちばん欲しがっているのは、もしかするとアリア自身なのかもしれない。

 そう思う瞬間が、最近増えていた。


 王立学園の昼休み。

 令嬢用サロンの窓辺へ腰掛けながら、アリアはカップの中の紅茶を見つめていた。表面に薄く揺れる光が、妙に落ち着かない。


「また考えていらっしゃるでしょう」


 向かいに座るエレノアが、半ば呆れたように言う。


「そんな顔をしているかしら」


「しておりますわ。かなり」


 即答だった。


 アリアは小さく息を吐く。


「……少しだけ」


「少しではなく、大分ですわ」


 エレノアは身を乗り出す。


「ここ数日ずっとそうですもの。“隣に立つ意味”とか、“自分で選んだことの重さ”とか、そういうことばかり考えていらっしゃる」


 痛いところを突かれて、アリアは反論できなかった。


 その通りだ。


 今の自分は、ただ甘い空気に浸っていればいいわけではない。

 レオンハルトの隣に立つということは、噂や嫉妬を受けるだけではなく、王宮と社交界の目の中へ自分の足で入っていくことでもある。


 しかも、まだ正式な婚約ではない。

 それなのに、周囲はもう半ば既成事実のように見始めている。


 その曖昧さが、ひどくじれったかった。


「名前がないのです」


 ぽつりとアリアが言うと、エレノアが目を瞬いた。


「名前?」


「ええ。今の関係に」


 サロンの外では、令嬢たちの笑い声が遠く聞こえる。

 ここだけ少し切り離されたような静けさがあって、だからこそ本音が口をついた。


「私は、殿下の隣へ行くと自分で言いました」


「ええ」


「殿下も、私を隠さないとおっしゃる。手放すつもりもないと」


「ええ」


「でも、それでもまだ、何でもないのです」


 何でもない、という言い方が自分でも正確ではないと分かる。

 何でもなくはない。

 むしろ、どう見ても特別だ。


 けれど“何なのか”と聞かれた時に、きれいに名前をつけられない。


 婚約者ではない。

 ただの協力関係でもない。

 庇護対象でも、もうない気がする。


「……名付けられない近さ、ですわね」


 エレノアが少しだけやわらかく言う。


「たぶん」


「それは、苦しいですか?」


 その問いに、アリアはしばらく答えられなかった。


 苦しい。

 たしかにそういう部分はある。

 周囲は勝手に意味をつけるのに、自分たちだけがまだ言葉を持たない感じ。

 けれど、だからといってすぐ答えがほしいかと言われると、そこもまた違う。


「……落ち着かないのだと思う」


 ようやくそう答える。


「前へ進んでいるのは分かるのに、まだ足場が定まっていないみたいで」


「それは殿下も同じかもしれませんわね」


 アリアは顔を上げる。


「同じ?」


「ええ。あの方、明らかに“待つだけではいられない”お顔をなさる時があるではありませんか」


 その表現が妙に正確で、アリアは少しだけ頬が熱くなる。


 待つだけではいられない。

 実際、レオンハルト自身がそう言った。

 選ばせたい。

 だが、待つことばかりが得意でもない、と。


「……そうね」


 認めるしかない。


 その日の放課後、王宮からの呼び出しはなかった。

 代わりに、正式な招待状がルーヴェルト公爵家へ届けられた。


 数日後に行われる小さな晩餐の席。

 王宮内のごく限られた顔ぶれ。

 だが、それが“限られた顔ぶれ”であること自体に意味がある。


 夜、クラウディアとその書状を見ながら、アリアは思わず尋ねた。


「こういう席へ、何度も呼ばれるのは普通のことなのですか」


「普通ではないわ」


 クラウディアははっきり言う。


「少なくとも、ただの“気にかけている令嬢”への扱いではない」


 そうだろうと思う。

 だからこそ、余計に落ち着かない。


「でも、まだ正式なものではないのでしょう?」


「ええ」


 母は一拍置いて続けた。


「だから周囲は急かすのよ。人は曖昧なものを嫌うもの」


 曖昧なものを嫌う。

 その通りだった。


 悪役令嬢と断じられた時もそうだ。

 周囲は曖昧な真実より、分かりやすい悪役を欲しがった。

 今は逆に、分かりやすい恋愛の形を欲しがっている。


 けれど自分たちは、まだそこへ簡単な名前を与えていない。


「お母様は……」


 アリアは少し迷ってから問う。


「今の私たちを、どう見ていらっしゃるのですか」


 クラウディアは静かに娘を見た。


「言葉を与える一歩手前、というところかしら」


 その表現に、アリアは小さく息を呑む。


 一歩手前。

 なんて正確なのだろう。


「ただし」


 クラウディアは続ける。


「その一歩手前が、一番揺れるのよ」


 揺れる。

 たしかにそうだ。


 前へ進みたい。

 でも、ここまで来たものへ名前を与えた瞬間、後戻りできなくなる。

 自分はそれを望んでいる。

 それでも、まだ少しだけ怖い。


 数日後の小晩餐の夜。

 王宮の小広間は、静かな光に包まれていた。大規模な社交の場ではない。むしろ、その分だけ距離が近く、空気が濃い。


 招かれた顔ぶれはごく限られている。

 それだけに、誰がどこへ座るか、誰と誰がどの程度自然に言葉を交わすか、その全てが意味を持つ。


 アリアが席へついた時、案の定、その距離は近かった。

 レオンハルトとの距離。

 ただの偶然や配慮では説明しきれない程度に。


 歓談の最中も、周囲の目がそれを確かめているのが分かる。

 誰も露骨には口にしない。

 だが、“まだ正式ではないのに、ここまで近い”という含みを、皆それぞれ胸の内に持っている。


 晩餐のあと、小広間から続く回廊で、アリアはようやく小さく息を吐いた。


「疲れたか」


 レオンハルトが並んで歩きながら問う。


「……少しだけ」


「少し、か」


 今ではもう、お決まりになりつつある返しだ。


「殿下も、たまには見逃してください」


「見逃すと、君はすぐ大丈夫なふりをする」


 その指摘に、アリアは返す言葉を失う。

 ひどく図星だった。


 少し歩いたあと、アリアはふと口を開いた。


「殿下」


「何だ」


「今の私たちは、何なのでしょう」


 言ってしまった。

 聞くつもりはなかったのに、夜の静けさのせいか、気づけば言葉が出ていた。


 レオンハルトはすぐには答えなかった。

 前を向いたまま、数歩ぶんだけ沈黙が落ちる。


「……急にどうした」


「皆が、名前をつけたがるからかもしれません」


 アリアは正直に言う。


「でも、私も少しだけ知りたくなったのです。このまま、ずっと名前のないままではいられない気がして」


 風が細く吹き抜ける。

 夜の王宮は静かで、遠くの灯りだけが揺れている。


 やがてレオンハルトが低く言う。


「今は、まだ名付けなくていい」


 アリアは少しだけ驚いた。


「……そうなのですか」


「今のままでも、君は私の隣にいる」


 それは事実だった。

 公の場でも、王宮でも、社交界でも。


「だが」


 レオンハルトは続ける。


「名前を与えれば、周囲はそれに従ってさらに動く」


 その言葉の重さが、アリアにも分かる。


 婚約。

 正式な呼び名。

 それがついた瞬間、噂は決定になり、政治は加速し、引き返す道は完全に閉じる。


「君がまだ、自分で選び切ったと確信できないなら、今は急がない方がいい」


 その返答は、思っていた以上にやさしかった。


 レオンハルトの方が、もっと先へ進みたがっているのではないか。

 少なくとも、自分よりはずっと迷いがないように見える。

 それでも彼は、ここで名前を急がない。


「……殿下は」


 アリアは少しだけ迷ってから言う。


「じれったくはありませんか」


 その問いに、レオンハルトはようやくこちらを見た。


「じれったい」


 即答だった。


 あまりにも率直で、アリアは思わず息を呑む。


「ですが?」


「だが、それ以上に」


 レオンハルトの声は低く、はっきりしていた。


「君が“選ばされた”と思う形にはしたくない」


 胸の奥が熱を持つ。


 選ばされた、ではなく。

 自分で選んだと、そう思える形にしたい。

 そのために、この人はじれったさを呑んでいるのだ。


 アリアは静かに目を伏せた。


 まだ名付けられない関係。

 それは不安定で、落ち着かなくて、周囲を騒がせる。

 けれど、その曖昧さの中に、彼の意志もまた確かにある。


 それなら今は、まだこの名前のない近さのままでいてもいいのかもしれない。


 そう思えた夜だった。

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