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『悪役令嬢の汚名を着せられましたが、真実を知った皇太子殿下が離してくれません』  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第52話 見定める女たち

 ヴァルモン公爵夫人の冷たい微笑みは、たった一度の茶会だけで終わらなかった。


 むしろ、それは始まりだったのだと、アリア・フォン・ルーヴェルトはその後すぐに知ることになる。


 王宮へ出入りする日が重なるにつれ、年長の貴婦人たちの視線はますます静かに、そして明確に自分へ集まり始めた。若い令嬢たちのように、あからさまな噂話や探りはしない。だが代わりに、もっと厄介な形で“見定める”のだ。


 挨拶の間の半拍。

 誰へ先に視線を向けるか。

 返事の声音。

 お茶を受ける手元の揺れ。

 会話の中で、相手の言外をどこまで拾えるか。


 一つひとつは些細だ。

 だが、その些細なものが積み重なって、女たちは相手の器を測る。


 そのことを、アリアはこの数日で嫌というほど思い知っていた。


 この日も王宮の小サロンで、数人の年長貴婦人たちとの歓談の場が設けられていた。名目は気軽な交流だ。だが実際には、交流というより観察に近い。


 アリアはサロンへ入る前、ほんの一瞬だけ呼吸を整えた。


 逃げたくはない。

 けれど、気楽にもなれない。


 重い扉が開かれる。室内には落ち着いた花の香りと、控えめな笑い声。窓辺にはヴァルモン公爵夫人、隣にはルヴァリエ侯爵夫人、その少し奥には王宮に長く出入りしているという年長伯爵夫人たちが座っている。


 アリアが入った瞬間、話し声は自然に一段落し、皆がやわらかな笑みを向けた。


「ごきげんよう、ルーヴェルト嬢」


「ごきげんよう、皆様」


 礼は崩さない。

 だが、自分がこの場で最も若く、最も新しく、そして最も試されている側であることは嫌でも分かる。


 最初に口火を切ったのは、例のヴァルモン公爵夫人だった。


「近頃、王宮でのお役目が増えたそうですわね」


 相変わらず、声は柔らかい。

 けれど、その柔らかさの下にある冷えは隠しようもない。


「まだ学ぶことばかりです」


 アリアがそう返すと、公爵夫人は上品に微笑んだ。


「そうでしょうとも。王宮の空気は、学園や普通の社交とは違いますもの」


 普通の社交。

 その言い方の中に、“あなたはまだこちら側ではない”という線引きが透けている。


「ですが、先日の接遇では落ち着いていらしたとか。若いのに大したものですわ」


 今度はルヴァリエ侯爵夫人が言った。

 褒めているようで、やはり“若いのに”を挟んでくる。


 アリアは表情を変えずに礼を返す。


「未熟ゆえ、周囲に支えていただいております」


「まあ、ご謙遜」


 伯爵夫人の一人が扇で口元を隠して笑う。


「でも、支えていただくだけではいずれ務まりませんわよね」


 その一言で、サロンの空気がほんの少しだけ鋭くなった。


 来た、とアリアは思う。


 褒める。

 持ち上げる。

 そして次の瞬間には、“でも”で切る。


 ヴァルモン公爵夫人が続けた。


「皇太子殿下の隣というのは、やはり特別な場所ですもの。優雅さだけでも、可愛らしさだけでも足りませんでしょう?」


「ええ」


「傷ひとつなく完璧である必要はないと、わたくしも思いますの」


 アリアは静かに耳を傾ける。


「ですが、傷をどう見せるかで、器は分かれますわ」


 その言葉は、まさに昨日レオンハルトと話した内容の裏返しだった。


 傷があることと、立てないことは別。

 だがこの人は、傷の扱い方そのものを見ている。


「ルーヴェルト嬢は、ずいぶん静かにお立ちになるのね」


 今度は別の伯爵夫人が言う。


「悪く言えば感情が見えにくい。よく言えば、崩れない」


「そのどちらでもございますでしょうね」


 アリアは淡々と答えた。


「少なくとも、すぐに泣き崩れる性分ではございませんので」


 その返答に、一人の夫人がかすかに眉を上げる。

 悪役令嬢騒動で、自分が泣かなかったことを逆手に取られた記憶が、ここでは微かな棘として効いているのだろう。


「まあ」


 ヴァルモン公爵夫人が静かに言う。


「では、感情は内側へしまい込む方なのね」


「必要な場では、そうかもしれません」


「それは時に美徳ですわ。でも」


 また“でも”が来る。


「王宮では、しまい込むだけでは足りないこともあるのです」


 アリアは視線をそらさなかった。


「見せるべき感情を、見せるべき相手にだけ見せることもまた、技量ですもの」


 そこまで言われると、もはや単なる雑談ではない。

 教えの形をした試しだ。


 この場で、アリアがどう返すか。

 それを見ている。


 サロンの空気は穏やかだ。

 だが、そこには確かな剣のやり取りがある。


 アリアは一拍だけ置いてから答えた。


「でしたら私は、まだ学ぶことが多いのでしょう」


 否定もしない。

 虚勢も張らない。

 ただ、自分が未熟な部分を認めた上で、だからこそ立つ意思だけは引かない。


 ヴァルモン公爵夫人はそれを聞き、わずかに目を細めた。


「素直なのね」


 その一言が褒め言葉なのか試しの続きなのかは、分からない。

 だが少なくとも、この場で“浅く言い返すだけの若い娘”ではないと示せた手応えはあった。


 会話はさらに続く。

 外国使節の夫人方の好む話題。

 音楽と語学。

 王宮内での立ち位置と距離感。

 気を抜けばすぐに“育ちの浅さ”や“判断の甘さ”を見透かされそうな話題ばかりだ。


 そのすべてに完璧に応じられたとは思わない。

 だが、逃げはしなかった。


 茶会が終わり、ようやくサロンを出た時には、アリアの背中は薄く汗ばんでいた。


 長い息を吐く。


「……本当に、見られていたのですね」


 独り言のようにそう漏らした時、すぐ近くで低い声がした。


「そうだ」


 振り向くと、レオンハルトがいた。


 いつからそこにいたのか。

 王宮の回廊に立つその姿は、いつも通り静かで揺らがない。


「殿下」


「どうだった」


 短い問い。

 だが、その中には“全部分かっているが、君の口から聞く”という響きがあった。


「……かなり疲れました」


 アリアは正直に答える。


「分かりやすい無礼より、ずっと厄介です」


「当然だ」


 レオンハルトはあっさりと言う。


「今日は、感情をぶつけてくる場ではない。値踏みする場だ」


「ええ」


「ヴァルモン公爵夫人は、特にな」


 そこまで知っているのか、とアリアは思う。


 もちろん知っているのだろう。

 この人が、自分を王宮の空気へ送り込む時に何も見ていないはずがない。


「私、何か失敗したでしょうか」


 その問いに、レオンハルトは一瞬だけ黙った。


「ある」


 アリアの胸がひやりとする。


「え……」


「疲れを隠しきれていない」


 返ってきた言葉に、アリアはしばし言葉を失った。


「そ、そこですか」


「そこだ」


 真顔で言われると、妙に力が抜ける。


「他は?」


 少しだけ意地になって聞くと、レオンハルトは短く答えた。


「十分だ」


 十分。

 その一言が、思っていた以上に胸へ沁みた。


「逃げなかった。浅い返しもしなかった。無理に媚びもしなかった」


 静かな声が続く。


「それでいい」


 昨日も似たようなことを言われた。

 けれど今日は、また違う重みがある。


 見定める女たちの前で、自分は確かに“その場にいていいかどうか”を測られていた。

 その中で、少なくとも立ってはいられた。


「ですが、ヴァルモン公爵夫人には認められておりません」


 正直にそう言うと、レオンハルトはわずかに目を細めた。


「すぐには認めないだろうな」


「やはり」


「だが、君が今日したのは“認めさせるために媚びる”ことではない」


 その言葉に、アリアは顔を上げる。


「立てるかどうかを示すことだ」


 低く、確かな声音だった。


「それは出来ていた」


 アリアは静かに息を吐いた。


 認められなかった。

 でも、立てていた。

 その違いは大きい。


 王宮では、すぐに好かれることより、まず“簡単には折れない”と見せる方が必要なのかもしれない。


「……ありがとうございます」


 小さく礼を言うと、レオンハルトは一拍置いてから言った。


「まだ続く」


「ええ」


「今日の比ではない」


 それは脅しではなく、現実の確認だ。


 アリアはうなずく。


「分かっています」


 そう答えながらも、自分の中に確かな疲れがあるのを自覚していた。

 今日は立てた。

 でも、余裕があったわけではない。


 その疲れを、レオンハルトも見抜いているのだろう。

 しばらく黙った後、彼は少しだけ声を落とした。


「……弱音を吐きたければ、今のうちに吐け」


 思いがけない言葉だった。


 アリアは目を見開く。


「え?」


「今はまだ、人前ではない」


 それだけ。

 だが、その意味は十分だった。


 強く立て。

 でも、一人で飲み込めとは言わない。


 そのことが、どうしようもなく胸を打つ。


 見定める女たちの視線をくぐり抜けたばかりのアリアには、その一言が何よりの救いだった。

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